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mespesadoさん講義(145)だれのための「財政規律」か [mespesado理論]

財政規律論とは、だれのための財政規律なのか。mespesadoさんはそこに《「誰も住んでいないカラの箱」に過ぎない「政府」を黒字にしようと努め、自分達国民は払うだけ払ってわずかしか貰わないで我慢して赤字に甘んじている》という構図を見る。
このたび9月定例会の決算委員会で、市財政の黒字額が大きくなったことをいいことだというのはおかしいと指摘した(https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-09-21-1)。黒字幅はそのまま、行政サービスの低下幅なのだ。このことにも通ずるように思う。南陽市はかつての「ハコモノ行政」への反省から「健全財政」を第一義とする空気に支配されてきた。その根底にあるのは「財政破綻」という杞憂。吉池慶太郎14yoshiike.jpg「米沢のようになったら大変」「夕張のようになったら大変」。しきりに「赤字再建団体」という言葉が行き交った。(昭和31年から20年間在任の吉池慶太郎米沢市長は、衰退一途の米沢織中心の米沢を新しい時代に転換させるため、大量の市債をに発行して開発に努めた。ところが昭和50年、社会党系市長に変わるやすぐ財政再建団体になり、自治省監督下におかれた。しかし今や先端情報産業都市に変貌した米沢市は、すべて吉池市政の業績の上に在ると言っていい。→吉池慶太郎http://www.yonezawa-np.jp/html/museum/14yoshike.html
国においてもしかり、1000兆円もの借金(国債)をどうするのかという余計な心配。財務省自体が「日・米など先進国の自国通貨建て国債のデフォルトは考えられない。」と国際的に表明しているのに(外国格付け会社宛意見書https://www.mof.go.jp/about_mof/other/other/rating/p140430.htm#top財務省が先頭に立って「財政危機」を煽るおかしさ。(→財務省による国民洗脳研修会https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2017-08-14《「根本的勘違いの呪縛」から早く目覚めないと、最後は自滅してしまいますよ~。》
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902:mespesado :2020/09/21 (Mon) 19:51:33
リフレ女子@antitaxhike
> 改めて『古事記』を読んでいるのですが、仁徳天皇は、民が困窮してい
> るのを見て課税を免除したのですね。西暦300年前後にこのようなことが
> すでにできていたことには感服しますが、翻って、それからおよそ1700
> 年を経て消費減税すらできない今の為政者はいったい何をしているのだ
> ろうかと思いますね。

↑これなんですが、一見1700年も経って人は賢くなっているはずなのに、嘆かわしいことに経済政策はむしろ退化してしまったかのようにリフレ女子さんは嘆いていますが、実は仁徳天皇の「民の竈」説話と今日の「緊縮財政」って、実は「何も変わっていない」んですよ。
 え?何で?と思うかもしれませんが、「政治」が「変わってない」とかいうストレートな意味じゃなくて、「時の『権力者』の意識」が「変わっていない」という意味です。
 仁徳天皇の時代の「権力者」すなわち「主権者」は、もちろん仁徳天皇ご自身であり、現在の「権力者」すなわち「主権者」は、もちろん民主主義だから、日本国民全体です。
 で、この両者において「変わらない」のは日本人の美徳として海外からも絶賛される、「主権者」の「自分を犠牲にして他を助けようとする利他精神」です。つまり仁徳天皇の時代は、主権者である天皇自身が「自分を犠牲」にして自分たちの収入である税を免除して民を助けた。これに対し、現代では主権者である国民が「自分を犠牲」にして高い税金や保険料を払い、自分達のために使われる(特に福祉関係の)国家予算を減らして「国」を助けようとする。
 ↑ね?「主権者」がやろうとしていることが1700年経っても見事に同じでしょ?
 つまり、1700年前は、「君主制」だったので、国家収入イコール君主の収入(利益)だったのに対し、現在は「民主主義」なので、国家収入イコール国民の支出(損失)なんですよ。1700年前は、主権者である天皇一人の犠牲によってそれ以外の日本人を助けたのに対し、現在は、主権者たる国民全員が、自ら犠牲的精神を発揮して増税と予算縮小に「耐え」て、民主主義の現代では「誰も住んでいないカラの箱」に過ぎない「政府」を黒字にしようと努め、自分達国民は払うだけ払ってわずかしか貰わないで我慢して赤字に甘んじている、という構図なんです。こう考えると、実にバカげた話ですね。我々は民主主義の世の中にすっかり慣れたつもりでいたけれども、実は「自己犠牲によって民を助ける」という、天皇主権の時代には合理的だった思想が、民主主義下では逆に「自己犠牲によりカラの箱を助ける」という全く意味のない不合理な行動になってしまっていることに気付かずに、日々「自虐経済」に邁進している、ということなんですね。
 国民は、この「君主制下」の主権者の犠牲と「民主主義下」の主権者の犠牲が、国民にとっての利害としては正反対になるということに気付かずに、ひたすら「主権者の自己犠牲」を推進するという「根本的勘違いの呪縛」から早く目覚めないと、最後は自滅してしますよ~。←これこそが、仁徳天皇の「民の竈」説話から現代人が学ぶべき教訓なんですよね。

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