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mespesadoさん講義(135)死について [mespesado理論]

「死」を考えるにあたってぜひ頭に入れておいた方がいい話が、mesさん自身の体験もふまえながら、いろんな角度から盛り込まれています。

リンクされた記事「10代で老人介護する羽目になった話」もすごかったです。《この文章をここまで読んでくれた人がいたとして、私があなたに言える事は、介護において『死んでほしい』と願うのはごく当然の事だと言うことだ。》《介護は皆等しく苦しい。好き好んでやってる人なんていない。/ただ言いたい。今苦しんでる人にも、これから苦しむかもしれない人にもこれだけは伝えたい。/「早く終わってくれ」と望む自分を責めないでほしい。/終わってくれ、それは相手の回復を祈る言葉であるかもしれないが、大抵は死を望む言葉だ。/でも自分を責めないでほしい。むしろ開き直るくらいでちょうどいいと思う あ〜あ〜、早く死んでくれねえかな〜。そう思うようになった時、少なくとも私はだいぶと心が軽くなったのだ。》

最後は、mespesadoさんの心からの叫びです。緊縮財政は本当に罪作りだからやめろ、と。頼むから、若い人を介護のための犠牲にして平気でいるような世の中にするな、と。それを悪魔のような安楽死の悪用で解決するんじゃなくて、早くカネをジャンジャン撒いてロボット介護が万民に使えるような方向に方針転換しろと。でないと、この高齢化社会で国民すべてが不幸になりますよ、本当に。》

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849:mespesado :2020/09/12 (Sat) 12:16:41
>>847
> 世界戦略情報誌『みち』で安西正鷹さんが、映画「楢山節考」について
> の考察を最近発表しています。その前半部を小生はOCRで読み取り、
> 渡邉氏の記事に投稿した拙コメントに転載しています。
http://kotodamayogen.blog.fc2.com/blog-entry-13260.html#comment-top

 読ませていただきました。それで、その中で一番大切だと思った下りがコレです↓
「もうやり残したことがなかったのではないか」

 来世を信じるか信じないか。人それぞれだと思います。確かに4歳くらいまでの子供が、生まれる直前に、雲の中にいてどこに生まれたい?という神様(?)の質問を受けたと証言したとか、あるいはそのくらいの歳までの子供は普通に直前の前世を覚えているが、ある年齢を超えたところですっかり前世の記憶を失ってしまうだけなのだ、とかいう報告もあり、これもまた、信じる人信じない人それぞれだと思います。
 でも、思うに我々が何かを考えたり感じたりしているときというのは自分が生きているからであり、今の自分の死後、もし何かを考えたり感じたりしている自分が自覚された、とすれば、それは前世とは記憶のつながりが無くても、「自分の続き」と見做すこともできるわけですから、前に書いた「人間原理」(682 https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-08-16 「私たちという知的生命体が存在することが、この物理定数が“この値”を持っている理由」 )じゃないけれども、何度死と誕生を繰り返しても、そこに「自分の意識」というものが存在している限りにおいて、これは「来世が存在する」というのと同じことじゃないかと思うのですね。
 そうなると、前世は前世で一区切り、そこから新たな人生が始まるとなると、前世の「やり残したこと」は次の世に引き継げないのだから、一つの人生が終わる前にやり残したことが無いようにしておこう、というのは実は最も自然な感情だと思うし、還暦を過ぎた今、まさにこれは至言だと思っています。自分の場合、まさにそれが「数理哲学でのささやかな発見を論文にして公表すること」だったりするんですが、なかなか筆が進まず、現実逃避ばかりしています。←オイコラ、ジブン、シッカリセィ!
 ところで「安楽死」ですが、今私の母が介護施設に居て、自分の意思を口で伝えられなくなって久しくなっているのですが、今まで2度、医師に親族の意思を表明しなければならなかった出来事がありまして、一度目は食事を飲み込むことができなくなったときに胃婁(いろう)の手術をするかしないかの選択を迫られたとき、そして2度目は肺炎で呼吸困難に陥ったときに万一これが悪化して人工呼吸器を装填しなければならなくなったときどうするかの選択を迫られたときです。
 これは私だけの一存で決めるわけではなく、私には弟が一人いるんですが、相談して決めました。母は元気な時生命維持装置を装填してまで生きたくないという意思を表明していたのですが、最初の胃婁のときは、もし装填しなければ栄養が取れなくなって衰弱して死ぬのを待つことになるが、もし胃婁を選べば、腹に穴をあけて栄養を流し込むという状態になる、ということでした。このとき私も弟も、意識はあるかもしれないのに、栄養を取れるようにすれば生きられるのを、それを断ち、「餓死」するのを放置するという選択はあまりに残酷に感じ、本人はもしかして不本意かもしれないとは思いつつも胃婁の手術をする方を選びました。次の人工呼吸器の方ですが、具体的な内容を医師に確認すると、首に穴をあけて管を挿入し、とにかく肺に酸素を強制的に送り込んで生命を維持するだけだ、と聞き、今度は逆に首に穴を開けてまで無理やり生かされる、という姿を生々しく想像し、その方が残酷だ、と思わず涙してしまい、万一人工呼吸が必要になっても、人工呼吸器装填という延命措置はしないで欲しい、という結論になりました。
 考えてみれば不思議な話で、第一の場合と第二の場合では生かす方が残酷か、延命を諦める方が残酷かが180度違うのに、いずれの場合も、私と弟の意見は当たり前のように一致したことです。で、幸いにして、現在のところ肺炎による呼吸困難は回復し、人工呼吸器が必要な状態ではなくなっています。ちなみに医師によると、人工呼吸器の選択をしなかったのは賢明だ、なぜなら最近は親の年金をあてにしてとにかく親が不本意であろうがかまわず年金支給のために生かし続けて欲しいと願う親族が多いとのことで、唖然としました。私は逆に人工呼吸器の選択をしない方が死亡保険金狙いと誤解されることを気にしていたのですが、最近の世相の浅ましさに結構ショックを受けました(まあ、財務省のデフレ政策のせいで国民の生活がカツカツになってるのが根本原因なんでしょうけどね)。
 私は、この経験があることから、国による「安楽死法」なるものが、どこまで親族の↑のような微妙な意思決定と整合性がとれるのか、はなはだ疑問に感じています。こんなもの、経験者でなければわからない。私たちとて、もっと究極の選択が必要な状態が発生したら、どう迷うかもわからない。そんな大きな問題を、コロナであんなに迷走した思慮の浅い中央官僚や政治家が判断できるはずがないと思い、>>846 のようなことを書くに至ったのです。


852 名前:mespesado 2020/09/12 (Sat) 22:33:42
>>850
 安楽死法の話はもうやめようと思っていたのですが、何と、経済ネタを探そうとして反緊縮ツイートを覗いていたら、たまたま↓の記事を見つけてしまいました(泣)。
https://note.com/w_tanahashi/n/n713c950b8cf5

 改めて、正次郎氏の言わんとしていた気持ちが重くのしかかる。
 でも、だからこそ言いたいんです。緊縮財政は本当に罪作りだからやめろ、と。頼むから、若い人を介護のための犠牲にして平気でいるような世の中にするな、と。それを悪魔のような安楽死の悪用で解決するんじゃなくて、早くカネをジャンジャン撒いてロボット介護が万民に使えるような方向に方針転換しろと。でないと、この高齢化社会で国民すべてが不幸になりますよ、本当に。

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