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mespesadoさん講義(125)安倍さん、まだまだこれから [mespesado理論]

将棋界における藤井聡太二冠出現の意義と照らしつつ、堺のおっさんとも絡みながら、封建制における名君の存在についても検証した上で、「民主主義の政治」の可能性、そしてそれに対する希望までを展望するという壮大な議論です。

戦後叩き込まれた「民主主義相対化」のあまり、名君頼みの「封建制優位」に走るのも考えもの。《いつでも名君が存在してくれるわけではないし、それに名君にいつまでも依存することで個々の人の霊性の向上が阻害されるのもやはり大きな問題》です。堺のおっさん、本筋は国民が同じ国家観を共有するときリーダーはその本領を発揮できる》。その国民の共通意思を育てるのもリーダーなわけで、安倍総理はその資質(可能性)を十分備えていた。あと一息のリーダーだった。それをうけてmesさんは、封建制だと民衆は政治を権力者に丸投げしているために、いくら民衆が賢くなっても権力者が賢くない限りまともな政治にならないのに対して、民主制であれば、民衆が賢くなれば、権限を委任されただけの政治家を理屈上は選挙や地元での議員への訴えなどによって民意によりコントロールすることができる》とする「民主主義」の意味もふまえ、「民主政治」の意義について《①優れた為政者が的確なビジョンを示す、②これに感化された民衆が次の為政者をこの新しい視野の下で選挙で選び、監視する、という二段構えになっていることこそがカギ》と考えます。①と②のダイナミズムを通して「時代」は確実に変わってゆく。そこに「希望」があると見ます。決め手はリーダーの本心に根ざした「ビジョン」の如何です。安倍総理にはそれがある。それゆえのマキアベリズムなのです。安倍さん、まだまだこれからです。

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760 名前:mespesado 2020/08/30 (Sun) 09:04:11
 今までは明らかに本スレの話題としては相応しくないと思って別スレに書いていたプロ将棋界の話ですが、あえてここで2つの記事を紹介したいと思います↓
(1) https://note.com/nagaifuuka/n/n8dcfe6d1ce49
将棋ファンがなぜ藤井聡太にこれほど熱狂するのか、将棋ファン自身がわかりやすく解説してみた
(2) https://note.com/yumaendo/n/n5ad67377c06a
藤井聡太二冠が将棋界を救った(救える)わけではない。救えるのはきっと、一人ひとりの将棋ファンのはず

↑(1)の方は、純粋に感動もの風な記事です。実際、筆者自身が感動にむせびながら書いた風なところがありますし、読んだ私も確かに感動しながら読ませていただきました。
 一方、(2)の記事は、冒頭にもあるように、(1)の記事を受けて書かれたものです。(1)の記事の問題点を指摘しながら、冷静になって書かれたものに見えます。
 まず(1)を読んで、はぐらめいさんが自身のブログで上杉鷹山公について書いた内村鑑三や飯山一郎さんの言葉を重ね合わせてしまいました↓
https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-08-30-3
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《徳がありさえすれば、制度は助けになるどころか、むしろ妨げになるのだ。
・・・代議制は改善された警察機構のようなものだ。ごろつきやならず者は
それで充分に抑えられるが、警察官がどんなに大勢集まっても、一人の聖人、
一人の英雄に代わることはできない》《本質において、国は大きな家族だっ
た。・・・封建制が完璧な形をとれば、これ以上理想的な政治形態はない》
(内村鑑三『代表的日本人』上杉鷹山公の章)。 《 国家も,政府も,地域
社会も,企業も,家も…,「長」(トップ)の意向・意志によってカタチや
方向性が決まってくる!・・・ 国家社会の大きな枠組みを最終的に決めるの
は,「長」(トップ)の意志と決断なのだ.このことは『政治過程論』とい
う最先端の政治学の常識だ.》
(飯山一郎 http://grnba.jp/more99.html#aa07081
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 つまり、斜陽化産業視されてしまっていたプロ将棋界に、藤井棋士が将棋界の救世主として突然現れた話が、上に参照した「一人の聖人、一人の英雄」あるいは「「長」(トップ)の意向・意志によってカタチや方向性が決まってくる」に重なるのです。なぜ(1)の話が感動を呼ぶ系の話になるかというと、おそらく様々な組織を含む「社会」というものが、一人の図抜けた才能によって激変するというのが、霊長類の本能、というか、もっと高次元の「霊性」とかかわってくるからではないかと思います。
 一方で、(2)の方は、そういうヒーローというか、特定の個人の才能に依存する仕組みというものの脆弱性を論じた冷静、というか、ある種冷酷な議論であり、そういう意味では感動とは無縁な、というか、逆に感動に「水を差す」ような議論ではあるものの、確かにヒーロー的存在は必要かもしれないけれども、そのヒーローを迎える側の大多数(将棋なら「ファン」、政治なら「一般大衆」)は、そのヒーローに依存してしまって(それも無自覚に)、そのヒーローが突如いなくなってしまった時にとてつもない虚無感に襲われる。それではいけないんじゃないの、という警告と理解しました。まさに政治の世界の名言である「民主制は最悪の政治形態である。ただし今までに存在したすべての政治形態を除いて。」が言わんとしているところだろうと思います。
 政治の世界なら、名君が治める封建性が、そりゃ、その時点だけを考えれば実は最も合理的なのかもしれないし、それを昔の野蛮な習慣だと断じたり民主制が絶対みたいに教える戦後教育はよくないことかもしれないけれど、しかしいつでも名君が存在してくれるわけではないし、それに名君にいつまでも依存することで個々の人の霊性の向上が阻害されるのもやはり大きな問題だな、と思うわけです。
 最近の皇室を巡る議論と、安倍総理の辞任記者会見を見てつらつらと思った次第です。

761 名前: 堺のおっさん 2020/08/30 (Sun) 09:48:13
>>760 メッさん
本筋から外れた話題ではないと思います。
将棋界には藤井8段以前にも羽生名人の時代にもブームがありました。
この二人に共通するのは…
二人とも詰将棋が大好きで、そこから将棋にのめりこんで行ったと。
詰めるという作業は、いわば結果を出すということですが、
詰めることのできる局面を想定しながら
詰める局面に如何にもっていくのかという戦略が必要でもあります。
そうした発想の下、今までにない勝負が展開される。
将棋ファンがうなるのも当然でしょう。

政治に置き換えると…
詰将棋はどんな国家にしていくのかと言うことと同じではないかと思います。
本筋は国民(将棋で言えばファン)が同じ国家観を共有するとき
リーダーはその本領を発揮できるのだろうと。
今ようやく、敗戦後の洗脳から冷めつつある過程ですが
その道を安倍総理が切り開いたことは間違いないことです。
千日手もはさみながらまだまだ長い将棋になりそうですが。

765 名前:mespesado 2020/08/30 (Sun) 14:37:10
>>761
> 将棋界には藤井8段以前にも羽生名人の時代にもブームがありました。
>>758
> 日本の役割を果たそうとしてきた安倍戦略は

> いやでも継承せざるを得ないところまで来ている。

 藤井二冠と、その30年前の羽生永世七冠。いずれも将棋界のヒーローですが、彼らの役割は、もちろんヒーローであることがその第一の存在意義ですが、それとともに、彼らの出現で、ファンだけでなくプロも含めた将棋への見方、棋士の在り方を一変させてしまったことにあります。
 羽生永世七冠の場合は、それまでのプロ将棋の世界が「将棋道」だったのを「将棋はゲームである」と言い放ち、一人前の勝負師になるには徒弟制度で修業を積んで云々とかいう浪花節の世界から、そんな住み込みの下働きとかいうのはもういいから、将棋を一つのボードゲームとして、そのルールのもとでの最善の手を理論的に探求するのがこれからのプロの役割だ、という方向に棋士の世界をすっかり激変させてしまいました。
 一方の藤井二冠は、AIの発達でコンピューターの方がプロ棋士より強くなってしまい、将棋プロの存在理由自体が大問題になっていたところに、AIでも何でも使って盤上の物語を作ることがその意義だという趣旨のことを述べた、ということであり、これはちょっと抽象的なので私なりに解釈すると、AIは確かに個々の指し手で人間には読み切れないほどの手の中から最善手を選ぶことはできるかもしれないが、それがどのように凄いのかということを人に語ることは無いのに対して、プロ棋士は、そういったAIによる発見をうまく身に付けながら、そのAIによって発見された手の画期性のブラックボックスをうまく“見える化”して「人間に理解できる手」に翻訳して、将棋ファンにもそれを理解できるようにする、それが藤井二冠が「物語」という言葉を使って言わんとした趣旨だと思うのです。
 ここで政治の世界に話を転じると、封建性の下でも民主制の下でも、名君、名政治家は現れることがあります。そして、いずれの場合も、人材不足で後が続かなくなることは起きる。その場合、封建制だと民衆は政治を権力者に丸投げしているために、いくら民衆が賢くなっても権力者が賢くない限りまともな政治にならないのに対して、民主制であれば、民衆が賢くなれば、権限を委任されただけの政治家を理屈上は選挙や地元での議員への訴えなどによって民意によりコントロールすることができるわけです。
 で、戦後教育によると民主政治のメリットはこれで終わり、これに尽きている、ということになっている。しかし、これだと、要は民衆が賢ければ誰を国家元首にしても政治がうまくいくはずですよね。ところが実際はそうなっていません。なぜか?
 それは、社会環境は時代とともに変化していきます。そのような中で、正しい方向性を持った政治を行うためには、社会環境の変化を的確に観察し、そんな中で最適なビジョンを誰かが示さなければならない。しかしこれは政治を専門に行っていない一般人にはムリであり、かと言って、どこの馬の骨かわからない立場の人が何か言っても大衆がそれに注目することは無い。やはり国家運営を任せられた人物がそれを示さなければならない。これは、封建性でも民主主義下でも同じです。そして、この新しいビジョンを示された民衆は、それが常識になり、次の政治家にバトンタッチするとき、その常識を踏まえた政治をする政治家を選ぶようになるし、力量が足りなければ、その方向に進むように自然と圧力をかけるようになる。ここからが封建制と民主制の違うところで、封建制だと民衆の意向を無視することも可能だけれども民主制なら選挙による洗礼がある。民主政治の意義は、まさにこの2つの重大なポイント、つまり、①優れた為政者が的確なビジョンを示す②これに感化された民衆が次の為政者をこの新しい視野の下で選挙で選び、監視する、という二段構えになっていることこそがカギだと思うのです。今までの戦後教育では①の視点を軽視していました。だからこそレベルの低い政治が続くと「所詮政治なんて」と政治に無関心になる向きが多かったのですが、今回の安倍政権のように、失業率円高の是正や外国元首との友好などで①を見せつけられると、今度は次が居ないことに焦り始める。でも今度は②があることを忘れている。つまり選挙は単なる衆愚政治ではなく、①で「名君」が示したビジョンに感化された分だけ大衆は「進歩」している。だから、その「名君」が退場した後も、名君登場前の悪い状態に単に戻ることはないんですね。それが堺のおっさんの >>758 の発言の引用部分の意味だと思うのです。だからこそ、将棋でも羽生七冠が全盛期を過ぎても羽生登場以前の体質には戻らなかったし、おそらく藤井二冠の場合もそうなるだろうと思うのです。民主主義に過度な期待を持つのは考えものですが、しかし「名君」はそのビジョンを実際に示すことで知らないうちに大衆を感化させているのだ、ということを忘れてはならないと思います。そこにこそ我々の希望がある。

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