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東京・三重行(2)苗代神社(三重県朝日町) [日記、雑感]

虹.jpg5日、私が生まれた時から亡くなるまでずっと心にかけてもらった叔母の霊前にようやく拝すことができ、お盆を前にきれいに掃き清められた気持ちのいい寺の新しい墓に参り、午後は従妹、妹たちとアルバムを見ながらゆっくり思い出話をした後、17時の新幹線に乗る。名古屋が近くなったところで虹を見た。

歩き出した姿を見るのは初めての孫と十分興じて眠り、夜半の雨も一段落したので6時ごろ外へ出た。娘が調べて教えてくれたのは小向神社(おぶけじんじゃ)だったが、社名婢.jpgその前に「延喜式代 郷社苗代神社」の立派な社名碑に出会った。娘夫婦、この地に住んで2年ぐらいになるはずだが、すぐ近くのこの神社、まったく知らない。土地の人との交流もない。町内会も隣組も関係ない。軽自動車に作業着で乗り込む人たちの姿に何だろうと思ったら、「8時から草取りと溝掃除を予定通り行います」との放送が流れた。娘に聞いたが、無関係の風だった。このギャップ、これからどんどん大きくなるのか、それとも縮まるのか。「縮まる方向に世の中は動く」と思いたい。
参道口.jpg苗代神社ご祭神.jpg社務所.jpg御由緒.jpg苗代神社社殿のコピー.jpg拝殿内部.jpg拝殿から.jpg神馬.jpg

樹々がほどよく雨に濡れて気持ちのいい神社だった。だれとも会わなかったが、地元の人にしっかり守られているのが伝わった。この辺、関西本線沿いにほぼ同間隔で移田神社井後神社(いじりじんじゃ)、小向神社(おぶけじんじゃ)、苗代神社が並び、小向神社以外の三社については、オオタマサユキという方の参拝記があり参考になる。オオタ氏は「このあたり一帯の神社は多くの謎を秘めていて分からないことだらけだ。」としつつ、移田神社から350mほど南東の穂積神社(御祭神:饒速日命)との関連から、物部氏の支配地ではなかったかと推量しておられる。オオタ氏の苗代神社についての考察、天武天皇との関わり等もあり、大変興味深いので転載させていただきます。

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 朝日町はかつての朝日村で、近くから弥生時代の遺跡が見つかっていることから古くより人が暮らす土地だったことが分かっている。
 縄文時代は気温が高く、海面が上がって(縄文海進)海岸線は今よりもずっと内陸寄りだった。現在は小山が連続する丘陵地の縁あたりがかつての生活の場所だったと考えられる。南の国道23号線は海抜0メートル地帯で、その北の国道1号線も海抜2-3メートル、近鉄伊勢朝日駅が海抜4メートル、JR朝日駅が海抜6メートルなので、近鉄線とJR関西本線の間あたりがかつての海岸線だっただろうか。
 JRの南を旧東海道が通っており、朝日村は北の桑名宿と南の四日市宿の中間に当たる。東海道は江戸時代に入ってから整備された道ではあるのだけど、元になる道はかなり古くからあったようで、壬申の乱のとき大海人皇子(のちの天武天皇)がここを通ったという伝承を残す。朝日村の由来は、この地で大海人皇子が伊勢を遙拝して戦勝祈願をし、そのとき朝日が昇ってきたという故事から来ている。おそらくその頃はまだ伊勢の神宮は整備されていなかっただろうけど、斎宮はいて小さな社くらいはあったのではないかと思う。
 今昔マップの明治期のものを見ると、東海道沿いに家が建ち並んでいるだけで集落といったものはなかったようだ。それ以外は田畑が広がっている。
 東海道の少し北は丘陵地で、その間を幾筋もの川が流れている。朝日村のあたりは、北を流れる員弁川が運んだ土砂によってできた土地だ。

 この場所にいつ誰が神社を建てたかということが問題となる。
 東から苗代神社、井後神社、移田神社とほぼ直線上に並び、この三社はいずれも『延喜式』神名帳の朝明郡に載る式内社とされている。苗代神社と移田神社は丘陵地の縁に近い高台にあり、井後神社は明治に移されるまでは平地の田んぼの中にあった。
 付け加えると、移田神社の350メートルほど南西にある穂積神社(四日市市広永町)とそこから1キロほど北西にある布自神社(四日市市山村町)も式内社の論社とされている。
 古墳についてはあまり見つかっていないようなのだけど、苗代神社がある天神山でひとつ確認されている。
 この天神山には縄生廃寺跡があり、見つかった瓦などから白鳳時代(673-710年)に建てられた寺院と考えられている。それと同じ時代に、この苗代神社は創建されたと社伝はいう。
 672年の壬申の乱の際に大海人皇子一行がここを通ったことは充分に考えられる。吉野を出た一行は、名張、伊賀を通って鈴鹿の峠を越え、鈴鹿関を突破し、その後進路を北に変えて美濃の不破へと到った。その間、東国各地から味方を集め、伊勢の国司も大海人皇子側についた。
 苗代神社が建てられたとされる白鳳時代というのは、壬申の乱の翌年に大海人皇子が天武天皇として即位してから平城京に都が移されるまでの期間をいう。なので、苗代神社の創建は天武天皇と何らかの関わりがあったとも考えられる。

 苗代(なえしろ/なわしろ)は、田んぼに苗を植える前段階の苗床を作るための小さな田んぼのことだ。だから、稲作に関係する神社であろうとは思うのだけど、そうではない可能性もある。
 というのも、このあたりの地名を縄生(なお)といい、近くには埋縄(うずなわ)という地名もあり、苗ではなく縄が社名の由来かもしれないからだ。この縄が何を意味しているのかはよく分からない。
 現在の祭神は少彦名命(スクナヒコナ)と菅原道真となっている。菅原道真は室町時代に天神社を勧請したからなのだけど、少彦名命を祭神とした理由がよく分からない。
 少彦名命は大国主が国作りをしているときに海の彼方からやってきて国作りを手伝った小さな神で、途中で常世国に去っていってしまった。薬の神とされたり、酒造りの神とされることもある。
 社伝は伊賀国一宮の敢國神社(あえくにじんじゃ)から少彦名命を勧請したというのだけど、これは信じていいことなのか。
 敢國神社は伊賀国唯一の名神大社で、現在は別表神社になっている格式の高い神社だ。
 創建は658年(斉明天皇4年)で、主祭神は第8代孝元天皇の第一皇子、大彦命(おおひこのみこと)とする。
 敢は阿拝郡(あはいぐん/あえぐん)から来ているとされ、もともとは阿閇氏(敢氏/阿閉氏)が氏神もしくは地主神を祀ったのが始まりと考えられている。
 少彦名命と金山比咩命(カナヤマヒメ)を左右に祀る。
 少彦名命を祭神とするようになったのは平安時代末とされるのだけど、もともと秦氏一族が伊賀にいて、創建時から祖神として少彦名命を祀ったという話もある。
 金山比咩命を祀ることになったのは中世以降のことで、南宮山の南宮大社(美濃国一宮)との関係も指摘される。敢國神社は南宮山の山頂に創建されたとされ、伊賀の南宮山は美濃の南宮山から名づけられたともいう。
 苗代神社が最初から本当に少彦名命を祀ったというのであれば、朝日のこの地にも秦氏が勢力を持っていたということになるかもしれない。
 ただ、式内とされる神社の由緒や祭神はばらばらで統一感がないことからすると、大きな勢力が牛耳っていたというより小さな集団がそれぞれの神を祀っていたような印象を受ける。

 時は流れて戦国時代、神社裏手の天神山に縄生城が築城された。城主は北畠国司家の配下だった栗田監物と伝わる。
 1576年、信長家臣の滝川一益に攻められて落城した。
 江戸時代に入り、1617年に桑名城主となった松平隠岐守定勝は菅原道真の末裔ということで苗代神社を大事にして寄進などを行った。
 明治2年に明治天皇御東幸の際に勅使の奉幣があった。どういう経緯でそういうことになったのかは分からないのだけど、式内の苗代神社として比定されたのはこの後のことだった。それまでは天神宮などと呼ばれていた。
 明治末の神社合祀政策を受けて、近くにあった須佐之男社、八王子社、愛宕社、稲荷社、両大神社、蛭子社が合祀された。

 白鳳時代創建というのは疑わしいというのはあるのだけど、近くに白鳳時代に建てられた縄生廃寺があったことを考えると神社も同時代に建てられた可能性は考えられる。大海人皇子(天武天皇)との関係もあり、このあたり一帯が式内社密集地帯となれば古くから有力な氏族がいたことはまず間違いない。ただし、その正体は見えてこない。
 今後、朝日町を訪れる機会があるかどうかは分からないのだけど、もし行くことがあれば周辺の神社も回ってみたいと思う。

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