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叔母の死 [弔辞]

女学校時代.jpg見合い写真.jpg「ほんとうに世話になったし心にかけてもらった」と、物心ついた時から思い続けてきた東京に住む叔母が88歳で一昨日(19日)亡くなった。これまでのがんばりからして盛大な葬儀になるはずだった。しかし、コロナ騒ぎが落ち着いたらあらためてとのことで、10人ぐらいのごく内輪の家族葬、私の参列も叶わない。

コロナ危機後の新しい時代、不要なものがどんどん切り捨てられるにちがいない。葬儀のあり方もまったく変わる。そう思いつつ19日、毎月この日の月例祭延期を竹さんに伝えて、叔母への思いを書きつづり送った。

そしたら昨日(20日)、「コロナの影響で「葬儀」はどのように変わるのか」の記事に出会った。https://toyokeizai.net/articles/-/344663
《新型コロナウイルスの影響で、それ以前から縮小化・簡素化が進んでいた葬儀が、ますます小さく簡易なものになろうとしている。》《2000年頃から都市部を中心に、限られた近親者だけで行う家族葬や、火葬場で簡単な読経を行うだけの直葬(火葬式)が急増。その背景には、核家族化や少子高齢化、地縁の崩壊など、さまざまな社会的変化や要因が絡み合っている。しかし、実はそのどれよりも「伝統的な葬儀に、現代人が価値を見いだせなくなった」ということが大きいかもしれない。》で始まるこの記事、「お別れ会」についての言及の後、《このコロナ禍で、働き方や価値観など、さまざまなものが大きく変化するだろう。しかしグリーフ(悲しみ)は、変わらず存在し続ける。これまで当たり前だったことが当たり前ではなくなっても、「自分にとって本当に必要なものは何か」という基準で物事を判断し、自分らしく儀式を執り行うことで、悲しみと折り合いをつける工夫をしてほしい。》で締めくくられていた。

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 昨日電話越しにおばちゃんの声を聞いて、「まだ大丈夫」と思っていたところでした。昨夜祐子の所に行ったら「おばちゃん、私のことわかってくれた」と喜んでいました。ただ、今朝七時ごろ電話が鳴った時、「もしや」と思い受話器をとりました。
 新コロナウイルスが引き起こしたこの事態の中で、駆けつけることもできずどうしようかと思いつつ、とりあえず書き始めたところです。
 おばちゃんが私の心の中に残してくれた、高岡家に生まれてからこれまでの物語を思っています。生まれもって備わった「やさしさ」が、その物語をふんわりつつんでくれています。やさしさといえば、私が物心ついて間もない頃だったか、もう少し大きくなってからか定かではないけれども、私を膝の上にのせて、私のために涙を流してくれたことがありました。たまにかんしゃくを起こして私にあたることのあった父から私を取り上げて二階の部屋に連れてゆき、一緒に泣いてくれたことが、私にはものすごく大事な思い出で、ずっと心の中にしまいつづけていました。(何かの折、おばちゃんに語ったような気もします。)そのことでよねこおばちゃんは、私にとって「特別なおばちゃん」でありつづけました。
 おばちゃんのやさしさといえば、きりばばちゃに対するやさしさもすごかったです。深いところでばばちゃの気持ちとふれあっていたのだと思います。一生の間には口に出せない哀しみがあります。おばちゃんはきりばばちゃのそこのところに思いやっていっしょに哀しんでくれているように思えました。そっちの世界でばばちゃと会って手を取り合っている光景が目に浮かびます。もちろんそばにはじじちゃもいます。
 宮内幼稚園(今は宮内認定こども園)に寄せてくれたやさしさもありがたかったです。私がこの三月まで学校法人南陽学園の理事長を務めることになったのも、もとはといえばよねこおばちゃんが昭和二十七年五月一日の創園時から宮内幼稚園の先生になったことに始まります。それまで通っていた双葉保育園から転園させられたのです。最初の登園時、てるこおばちゃんが自転車に乗せて連れて行ってくれたのですが、行くのがいやだと抵抗して、てるこおばちゃんの足に歯型がつくぐらい噛み付いた記憶があります。そうやってできた四歳の時からの宮内幼稚園との縁でしたが、結局その後七十年にもわたって関わることになってしまいました。
 よねこおばちゃんにとって、幼稚園の高岡先生時代の思い出は格別のようで「〇〇ちゃんどうしてる?」とよく聞かれたものでした。ひろしちゃんとせいじちゃんがつくったエヌデーソフトという会社は、今では南陽市でいちばんの企業になって、サッカーJ2モンテデュオのホームグラウンドを「エヌデーソフトスタジアム」と呼ばせるほどの会社になっています。
 私が理事長になってからは、いつもチューリップや時にはカサブランカの球根を送っていただきました。今もこども園のまわりを明るくしてくれます。そろそろ咲きだす頃でしょう。クリスマスの頃になると、子供達に何かやって、とお金を送っていただくこともありました。認定こども園に変わって新園舎建設時にはたくさんの寄付もいただきました。四年前の法事の後、親族のみんなといっしょに新しくなった園を見ていただいたのも、私にはほんとうにいい思い出です。今、十五年間の理事長在任中、卒園文集に寄せた文章を冊子にまとめる準備をしています。「よね叔母に捧ぐ」と記したいと思います。
 最近昔を思い出して大学時代書いていた記録(日記のようなもの)を引っ張り出して見ることがあったのですが、昭和四十七年の五月におばちゃんと恵子ちゃんで岡山に来てくれて、岡山の外れにある狭くてきれいでもない借家に二晩泊まってもらったことが書いてありました。大学紛争で二年留年して卒業、就職もなくてぶらぶらしている時でした。後楽園、倉敷、鷲羽山、小豆島へ行きました。最初は雨ふりだったけど、小豆島では晴れたようで「今日は晴れて喜んでもらえたようだった。」と書いてあります。そういえば大学三年の時、山形から戻る途中だったかおばちゃんに映画に連れていってもらい、その映画が強く印象にあって、寮祭の劇の脚本ができたことがありました。「幸福」というフランス映画でした。「四季」という題で私のブログ「移ろうままに3」にそっくりアップしてあります。寮祭で最優秀賞をもらいました。学生時代のかけがえのない思い出ですが、この話はこれまでだれにもしたことがありませんでした。おばちゃんは、いつも東京のあちこちに連れていってくれました。中学生の時、初めて連れていってもらった三越(多分)で買ってもらった大きな爪切り(G馬場が同じものを使っているのをテレビでみたことがあります)は今も使っています。使うたびにおばちゃんを思い出します。
 いろんな思い出がつぎつぎでてきます。私の人生のだいじなところのかなりの部分が、おばちゃんの人生と重なっていることを今あらためて思わされています。ほんとうに心にかけていただきました。言い尽くせない「ありがとう」です。
 それから、おばちゃんの俳句と歌の作品集、ばたばたせずにみんなに喜んでもらえるように作りたいと思いますので、しばらく待っていてください。
 お別れにゆけないのがかえすがえすもくやしいですが、あっちの世界のおばちゃん、よっこらしょっと大きな荷物をおろしながらホッとしておられるようにも思えます。どうか安らかにお休みください。こっちの世界はこれからまだまだ大変です。どうかこれからもずっと私たちを見守ってくださいますようお願いします。
 ほんとうにおつかれさまでした。そして、ほんとうにありがとうございました。

   令和二年四月十九日

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