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白頭山(長白山)行 [神道天行居]

あっという間に大晦日です。ついこの前、年が明けたような気がします。ふりかえれば中身の濃い一年でした。思いがけない白頭山(長白山)登頂がありました。ここに13回にわたって書きましたが、その後1本に整理したのがありますので、アップしておきます。
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白頭山(長白山)行
◎二百三高地
 実際のところ家を発つまで、ほんとうに行けるのだろうかと信じられなかったのだが、現実に白頭山(中国では長白山)天池を眼前にすることができたことは、夢とも紛う体験だった。
 私ども(私と鹿又源典さん)の産土社である宮内熊野大社祭礼の日程に合わせていただいて、慰労の酒も醒めやらぬ7月26日夕刻の出発。鹿又氏とともに赤湯駅17時28分発山形新幹線に乗り込み、大宮で群馬の小野寺専統氏と合流して羽田に前泊。翌朝7時過ぎの始発便に乗って、関西空港で九州からの阿部滋氏、古森繁樹氏と合流。10時に大連へ向けて発ち、中国に3泊4日、7月30日午前10時(現地時間)瀋陽を発ち、午後2時(日本時間/所要3時間)成田に着く旅だった。
 大連空港には吉林省海外旅游有限責任公司の艾(あい)生地さんが出迎えてくれていた。白頭山を訪れる天行居同志にとってはお馴染みのガイドさんで、旅の最後までほんとうによく行き届く案内をしていただいた。60代前半だが、われわれ5人の平均年齢77歳からするとずっと若く、先頭に立って惜しみなく動いていただくことになる。
 清冽なイメージで大連の街がある。空港を出て目に入る光景が、黄砂のせいなのかうっすら曇って見え、持っていたイメージと重なった。小柳ルミ子の「アカシヤの大連」は満州生れのなかにし礼作詞、「・・・街のあちらこちらに 日本の匂いが かすかに残る 夢のふるさと ・・・希望の小鳥が 飛び交うような 微笑む街よ ・・・誰か愛する人と ここで暮らしたい そんな気がする 夢見る街よ」、ゆっくり眺めてきたわけではないが、その街に触れてきたというだけでうれしい。そもそも鹿又氏の名が父親の源治と乃木希典に由来する「源典」ということで「二百三高地」訪問を切に希望したことからの大連着だった。
水師営会見所.jpg
 最初に案内されたのが、当時の建物をそのまま復元した「水師営会見所」跡。 佐佐木信綱の作詞で文部省唱歌 「水師営の会見」の歌がある。「旅順開城約成りて 敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の 所はいずこ水師営」で始まり、「『さらば』と握手ねんごろに 別れて行くや右左 砲音(つつおと)絶えし砲台に ひらめき立てり日の御旗」の九番まであり、かつてはこの歌によって、二百三高地の戦いから水師営の会見に至る歴史が、くっきりとイメージづけられていたに違いない。
 三、四十代の案内女性の説明は見事で、二百三高地訪問に先立っての水師営見学は本当にありがたかった。日本人に対しても非常に好意的な説明で、売店兼資料館にはよく今まで保存してくれたと思える多くの資料が展示されており、とりわけ満鉄時代の栄光を偲ぶことができたのはうれしかった。会見の場所には乃木希典「金州城外作」の碑があった。「山川草木轉荒涼 十里風腥新戦場 征馬不前人不語 金州城外立斜陽」、阿部氏と鹿又氏と私で不十分ながら吟じさせていただいた。最初の見学場所だったが、「満州」が一挙に身近に思えたことだった。
 日本側6万人、ロシア側2万7千人の死傷者を出すことになった旅順要塞をめぐる攻防の最終戦場二百三高地は、今は「桜花漫舞 春悦旅順」をテーマに旅順桜花園として観光客を集めている。
 乃木大将はこの戦いを征するも二人の愛息を失った。戦後「乃木希典愚将説」が広まったのは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』によってであった。わが町の隣り川西町小松出身である井上ひさしの戯曲「しみじみ日本・乃木大将」は、それに拠ったのだろう。平成3年にその舞台の感想を書いたことがある。
 《舞台も大詰め、半ば茶化して演じられる明治天皇からの御言葉をいただいた乃木大将、万感の思いをこめて「天皇陛下万歳」と叫んだとき、あろうことか期せずして、観客席の一部から万歳への共感の拍手が沸き起こったのである。その拍手は、それまで舞台上で積み上げられた乃木大将像を全く無化してしまったといってもいい拍手であった。しかもその拍手が決して場内に異和を感じさせた風もなく、むしろ安堵の波紋が広がっていったように思えたのはなぜだろうか。それまでの舞台に言いようのない苛立たしさを感じさせられていたことも確かなのである。・・・日本の軍旗が踏み付けられ、雑巾がわりに使われ、逆さに立てられるのを眼のあたりにすることの、劇という虚構上のこととはいえ、言いようのない不快感。井上氏はその「不快感」こそが虚構上のことなのだと訴えたかったはずである。しかし少なくともこの日の舞台では、井上氏の訴えが観客に届くことはなかった。井上氏の観念は、現実を超えることができずに、いわば現実からの逆襲にあったのである。》
 ねじれた井上の心性に比して、わがふるさとの感性の健全性を思ったものだった。これを最後に井上ひさしの舞台は観ていない。この度二百三高地に実際に足を踏み入れたことであらためて多くを知ったが、司馬史観は完全に論駁されている。「しみじみ日本・乃木大将」はもう見向かれる事のない舞台だろう。

 乃木大将とステッセル将軍の交流については、「国際日本人養成講座 」のサイトにこうあった。
 《日露戦争後、ステッセルは旅順開城の責任を追及されて、重罪に処せられんとした。それを知った乃木は、当時パリにいた元第三軍参謀・津野田是重少佐に対して、ステッセルを弁護するよう依頼した。
 少佐は仏、英、独の新聞に投書して、開城はやむを得ざるものであり、ステッセルは立派に戦い抜いたことを詳しく述べた。これが奏功して、ステッセルは死刑の判決を特赦によって許され、モスクワ近郊の農村で静かに余生を送った。
 出獄したステッセルは一時、生活に困窮したが、それを知った乃木は名前を伏せて、しばしば少なくない金額を送った。逆に、乃木が明治天皇崩御の後に殉死した際、ステッセルは皇室の御下賜金に次ぐ多額の弔慰金を「モスクワの一僧侶」とだけ記して送った。
 ステッセルは晩年、「自分は乃木大将のような名将と戦って敗れたのだから悔いはない」と繰り返し語っていた。》「水師営の会見 ~ 乃木将軍とステッセル将軍」
 百聞は一見にしかずというか、とにかくその地に足を踏み入れる事で、多くのことを学ばせられるということを実感した「二百三高地」訪問でした。

◎白頭山(長白山)へ
 その日(7月27日)、大連空港出発予定時刻が午後9時、長白山空港到着予定時刻が10時過ぎ、私は席に着くなり夕食での52度白酒が効いてすぐ熟睡、着陸したところで目覚め、飛行機が2時間遅れたことを知った。3時間近くぐっすり寝たことになる。それから30分近く迎えの車でぶっ飛ばし、宿の藍景戴斯酒店に着いたのは日を越えて0時40分だった。そこは長白山の西、直線にして20キロぐらいの位置。
 機中でぐっすり寝込んだので、翌朝4時前に目覚めた。北緯42度ということでもうだいぶ明るい。外に出ていい天気に安心。10時出発に合わせ8時過ぎに朝食場に入ると、早い者勝ちでもう食い散らかしの状態、嵐の後だった。翌日から朝飯はスタート同時の6時に決めた。神事を控えての潔斎食、種類は豊富なので豆類を主食に選択に不自由なく腹を満たした。
 スタート地点はホテルを出て歩いて5分ほど。この日の登山は西坡(西坂)山門コース。
 以下、『中國紀行CKRM Vol.08』より。ちなみに、水師営の売店で「白頭山」と言っても書いても全く通じなかった。中国ではあくまで「長白山」なのだ。
「北坡山門」の画像検索結果
https://www.saiyu.co.jp/itinerary/new/GCCN98/images/map.gif
 《長白山(朝鮮名:白頭山)は吉林省東南部に位置する標高2744mの名峰だ。清朝を興した満洲族や朝鮮民族の聖地とされるこの霊山には「天池」と呼ばれる美しいカルデラ湖がある。(南北約4.4km、東西約3.5km、面積10k㎡ほどの巨大なカルデラ湖。湖水面の海抜は2194mもあり、最大水深は313m)原生林に覆われた山麓は、野趣あふれる温泉や高山植物の宝庫として知られ、国内外から多くの登山客が訪れている。日本からのアクセスも悪くない。北京経由、同日着で山麓まで行ける。》
 《天池にはこんな伝説がある。天女の三姉妹がこの湖で水浴びをしていたところ、神の使いのカカサギが赤い実を運んできた。その実を食べた三女は身ごもり、男子を産む。その彼こそ清朝を興した満洲族の始祖だという。朝鮮民族にもこの山麓を民族のルーツと結びつけた伝説がある。いずれも両民族の建国神話として伝わっているが、その舞台がかぶっているのは、いかにも大陸らしい話といえる。長白山系は中朝両国にまたがり裾野を広げているからだ。天池の半分は北朝鮮領でもあるのだ。長白山は休火山で、歴史上何度も噴火している。特に大きかったのが約1000年前で、吹き飛ばされた岩石や灰は日本にまで届いたという記録も残っている。》
 《神話の山にも時代の波が押し寄せている。長白山が今日のように大きく変貌するきっかけとなったのは、2008年夏の長白山空港の開港である。
 長白山の観光開発は1980 年代後半から始まり、特に92年の中韓国交樹立以降、多くの韓国人が訪れるようになった。その後、2000年代中頃になると、豊かになった中国の国内レジャー客も大挙して現れるようになった。
 登山シーズンは6月中旬から9月中旬の3ヵ月間。この時期、山麓のなだらかな草原に群生した高原植物が一斉に花を開く。北緯42度は北海道の駒ケ岳の緯度にあたるため、オダマキやオヤマエンドウ、キバナシャクナゲ、ツガザクラ、ヒナゲシなどが見られる。
 長白山には北坡(北坂)、西坡(西坂)、南坡(南坂)の3つの外輪山から天池を望める登山コースがある。このうち最初に開発されたのは、長白山の北側に位置する北坡山門コースだ。山門からは長白瀑布に向かう道と、途中から中国側最高峰の天文峰に登る道に分かれている。原生林を散策する林道もあり、ショートトレッキングに最適だ。
 長白山空港から最も近いのは西坡山門コース。近年本格的な開発が進められ、登山を楽しんだ後にくつろげる温泉付きの国際的な山岳リゾートホテルが続々と誕生している。朝1時起きで展望スポットまでの長い階段を上ると、天池越しにサンライズウォッチングできるのは西坡だけだ。
 最近開発されたのが南坡山門コース。山門から頂上に向かう登山道に見られる高原植物の豊富さは随一。鴨緑江の源流となる長さ10kmの大峡谷の絶景もある。コースによってそれぞれ異なる景観や体験が楽しめる。》「聖なる高原リゾート、長白山に登る」

◎西坡(西坂)口より
 実は、ひっそりとした登山を思い描いていた。バス乗り場に来て人の多さに驚いた。この日は夏休み中の土曜日、年間でも最も賑やかな時期なのだろう。どこにも行列ができている。ただ87歳の阿部氏を筆頭に79歳、76歳、72歳、71歳、しかも上の二人は杖をついた老人グループとあって、どこへ行っても優先的に乗車させてもらえた。艾さんの交渉力に負うところも大きかったと思う。行列による時間ロスからの解放のありがたさは計り知れないものだった。
 曲がりくねった道をバスで1時間ぐらい揺られて登山口到着。1400段の階段を登ることは前日初めて知らされた。10年前の心筋梗塞以来、主治医から「産土社の石段も登るな」と言われている身、聞いていたら来れなかった。鹿又氏も案じてくれたが、とにかく前に進むしかない。自分のペースを守れば大丈夫、毎年のお祭りで自信をつけてきた。前夜阿部氏から祝詞を託されていたが、朝目覚めて目を通して感銘した。この祝詞を奉じる使命がある。
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 バスの窓から空を眺め、龍の気配を感じていた。朝の晴れた空を過信してリュックの中に雨具を入れていなかった不安がよぎった。登りはじめるころ、案の定、下から霧が上ってきた。200段ぐらいにさしかかったころ雨が落ちだした。本降りになったのはそれから間もなくだった。雹まじりの冷たい雨だった。私はリックからジャンパーを出してまとったが 、竹さんは何もない。「どうする?」と顔を見合わせたが、「下りる」の選択肢は二人にはなかった。私は私のペースを守らねばならないので、鹿又氏には先を急いでもらった。古森さんはその先を行っている。阿部氏と小野寺氏は上らずに下で待っている。この時の艾さんがありがたかった。「下の休憩所まで下りて雨具を買ってくる」と言って下って行った。300段ぐらいまで来ていたと思う。50段ごとに段数が表示されている。心臓には「キモム(気を揉む)」のがいちばん悪い。先の見えぬ雨の降りっぷりにその兆候が出始めていた。無理すればとりかえしがつかなくなる。雨の中でじっとうずくまるしかなかった。天音八化辟災要妙祕唱を念じたと思う。ふと見上げると私に傘をさしかけてくれる妙齢の女性がいた。さらに中学生か高校生ぐらいの丸顔の女の子が心配して声をかけてくれた。夢中のうちに「ジャパニーズ・・・」とか言いつつ「心配ない」ことを伝えた。気持ちを落ち着けたところで、女性の傘に頼りつつ上に進む。ありがたいことに500段ぐらいのところから50段ぶんぐらい屋根があり、みんな雨宿りしていた。そこまでたどり着いたところで女性の傘から出た。ほんとうにありがたかった。わかれぎわに名刺を渡して写真を撮らせてもらった。私には女神さまのように思えた女性だった。宿に戻ってからこの経緯を小野寺氏に語りつつ写真を見せたら、「齋藤さんに似ている」と言われて「エッ」と思った。このころ東北の同志たちによって、御神事の無事斎行を念じての対応修法が行われていたのだった。
 屋根の下で艾さんが調達してきてくれた雨具を身につけた。鹿又氏はずぶ濡れを覚悟、開き直っていた。しかし二人ともそれからの900段はほんとうに大変だった。50段進んでは座り込み、また50段進んでは座り込む、いつか1400段には必ずなる、それを支えに前進した。1000段の表示を鹿又氏が指差した写真があり、のぼりはじめから50分が経過しているのがわかる。頂上の展望台までそれからさらに25分を要している。
 10m×50mぐらいの板敷きの展望台は押すな押すなの賑わい。もう雨はすっかりあがっていた。そして目の前に白頭山天池があった。まさかここにこうして立つことになるとは思ってもいないことだった。それがいつのまにかこうなっていた。自分の意志とは思えない。その感慨はともかく、目的の神事にかからねばならないがこの場でいったいできるのか。
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◎神事斎行
 展望台の端10数メートルのところにロープが張られ立入禁止になっている。できればそこを祭場に定めたい。ゴミ拾い兼監視人が絶えず往き来しており、交渉したが立ち入りはできない。そのロープ際の後方の一角に空きが出来ているのでそこでの挙行を決断。「土の美多麻」で清める。われわれ以外踏み込めない空間ができる。グッショリ濡れたリックから白布を出して広げ、熊野大社宮司から預かった米、酒、塩、阿部さん用意の種種(くさぐさ)の味物 ( ためつもの)を並べ、神法鉢巻を締める。何事が始まるのかと視線が集まる。眼鏡をかけた30代前後のインテリ風の男性が問いかけてくる。「今から86年前の昭和8年(1933)、この土地が日本の統治下にあった時代、アジアの安定・世界の平和を願って、豊岡姫の神様(豊受大神)をはじめとするの御神霊(神儀・神璽)をお鎮めしました。その御神霊のためのお祭りをこれから始めるところです。」と艾(アイ)さんを通して伝えた。これまで何度も同行経験のある艾さん、祭事中の質問攻めにもそつなく答えてくれていたようだ。

 古森さんは後方に控え、私と鹿又氏は靴を脱いで正座した。波板のような板敷きだが、正座したことで気持ちは定まった。数十年来の竹さんとの神前奉仕はこの時のためにあったのか。もうそこからは何の迷いもなく事は運んだ。

 修祓(天津祝詞奏上)、献饌、祝詞奏上、白頭山天池遥拝秘詞奏上(遥拝ではない!眼前にしての奏上はいつまでも続けたかった)、撤饌、大祓詞奏上、十言神咒、退下。終わって思いは実に晴れ晴れとしていた。凸凹板に長く座っていたのに足の痛みもなく、このままずーっと続けていたい、こんな気持ちになった神事体験は初めてではないか。片付け終えたその場所で写真に収まった。玉串奉奠をしなかったのは画龍点睛を欠いたが、御神饌を天池に向けて撒布した。
 以下、神道天行居元総務阿部滋先生による「白頭山天池神璽八十六周年祭祝詞」。
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長(とこしな)へに白雪積むという白頭山の天津巓(あまついただき)に天之真名井(あめのまない)なす天池を瑞の神殿(みずのみあらか)として永久(とこしなへ)に鎮坐(しずまりま)す掛巻くも綾に畏き豊岡姫大神(とよおかひめのおおかみ)を始め諸々の神々等(たち)の大前並(また)大神璽(おほみしるし)と共に鎮坐す我が教祖(おしへのおや)気玉彦神(おきたまひこ)の御前に今日の斎主(いはひぬし)仕へ奉る○○○○斎廻り潔廻り(ゆまわりきよまわり)恐み恐みも白さく、今年はしも御鎮座(みしずめ)の年より指折り掻き数ふれば八十六年(やそまたむとせ)、平成の大御代より令和の新(あらた)大御代に遷り目出度き年に當るを以ちて、天行居有志者(あめのかりとこのこころざしあるもの)諸々阿部、小野寺、鹿又、高岡、古森、天の八重雲押し別くる空の長路(ながじ)は言ふも更なり、伊往(いゆ)き渡らむ陸路(くがじ)遥らに大御許邉(おほみもとべ)に参上(まいのぼ)り、今日の生日の足日に禮代(いやじろ)の御饌物(みけつもの)供へ奉りてやまとをひらきていはとをひらく事の状(さま)を大御心も霽(はる)けく神諾(かみうづな)ひ所聞食(きこしめ)し給ひて、一日(ひとひ)も速(すむや)けく御光(みひかり)美(うるは)しき新世(あらたよ)の大御代と成し幸(さきは)へ給ひ殊(こと)には古(いにしへ)ゆ未だ例(ためし)無き神分(かみあかち)の大機(おほとき)の眞中(まなか)に當りて禍津源(まがつみなもと)を為す穢(きたな)き赤魔共(あかこごめども)の皇大御國(すめおおみくに)を窺はむとするにおいては大神等の大御神振(おほみいぶり)を以ちて防ぎ守り、悉(ことごと)に討罰(うちきた)め神遺(やら)ひに遺ひ給ひ、天關(あめのいはと)の速(すむや)けく打開けて亜細亜の国々を始め萬(よろづ)の国々和(やはら)ぎ睦(むつ)び皇大朝廷(すめおおみかど)の大御稜威(おほみいづ)を仰ぎ奉り、萬有和合世界霊化の甘(うま)し大御代と成し幸へ給へと集待(うごなわ)れる同志等(まめひとら)と共に忌(ゆ)知り厳(いづ)知り畏み畏み諸祈(こひの)み奉らくと申す。
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 この日(28日)は、錦江大峡谷観光も用意されていた。1400段の上り下りでくたびれ果てた身にはかなり辛かったが、渓谷に沿った木道を1500メートルほど、ところどころ奇岩を下に望みつつひたすら歩いた。天池体験のあとでは色あせた感じで、書き留めるほどの記憶もあまりないが、根っこで松と樺がくっついて生えている「松樺恋」が、わが町の「妹背の松(相生の松)」を思い面白かった。ただし、松はよく見ると折れて枯れかかっていた。

 朝出たホテルに戻って荷物を持ち、チャーターした車で翌29日の北坂(北坡)口からの登拝を目指して二道白河の宿へ。車はベンツのワゴンで、運転は若い女性のリュウさん、これが見事な運転で一同しきりに感心させられた。さりげなく追越し、追い越されることはほとんどない、スピードはずっと一定に保たれていた。瀋陽の空港まで彼女の運転だった。風邪気味だったのが気の毒だった。

◎西坡(西坂)口より

 二道白河の街は元来林業が中心だったが、最近は長白山観光の基地として賑わうようになったという。気持ちのいいエネルギッシュな街の印象だった。28日の宿は長白山王朝聖地温泉酒店。なんとも中国の勢いを感じさせられた新しいホテルだった。入ると正面に金ピカの布袋様。金を惜しまず最高を目指す、そんな心意気を感じさせる。男女混浴、パンツを穿いて入る温泉も楽しい。パンツを求めるのに一悶着あったが、日本語のできるスタッフは一人もいないようで苦労した。しかし次々繰り出す若いスタッフの対応は我々とのやりとりを楽しむ風もあって好感が持てた。そういえばこの旅、日本人とは瀋陽の空港に来るまで一度も会わなかった。


 部屋は南向きでゆったりと気持ちのいいつくりだ。この日の白酒は39度のだったが、疲れもあってシャワーする元気もなくすぐ寝入った。北緯42度4分とあって3時過ぎに目覚めるともう空は白みだしている。二十七夜の細いお月さまが上ってきて、朝日が昇り出したのは5時27分。この日は昨日よりずっと天気がいい。今日も大丈夫、綺麗な天池に会える。神事を終えて、ずっと気持ちに余裕がある。いい朝だった。前日の学習を生かし、この日は6時前に朝食場に入った。 
 この日(29日)は北坂(北坡)口からの登拝。2度登拝というのは、晴れて天池を見れる確率が30%ということからの配慮だったが、2度とも晴れ渡る天池を拝することができほんとうにありがたかった。


 朝から暑い日だった。バス乗り場まで、リュウさん運転のベンツで。「長白山」門で現地のバスに乗り換える。炎天下長い列ができていた。ここでも途中まで並んだところで優先してもらった。ヘリコプター観光を誘う若い業者たちがいた。10〜15分で10,000円ぐらいとか。見ていた限り申し込む人はいなかった。昨日ぐしょ濡れの帽子をホテルのどこかに干したまま忘れて来たらしい。帽子を売っている。「長白山登頂記念」と記された帽子を、帽子を持って行かなかった鹿又氏と共に求めた。家までかぶってきた。いい記念になる。


 ジープ基地まで30分ほどバスで走る。この周辺、どこへ行っても道路に沿って黄色い花が咲き乱れているのが気持ちいい。日本の除虫菊を黄色に染めた感じの花だ。時折紫や赤の花も混じる。人工的に植栽されたもので、100キロ以上に及ぶという。長白山観光歓迎への意気込みを感じたのだが、日本では繁殖力の強さで在来種に悪影響を及ぼすということで特定外来種に指定されている「オオキンケイギク」なのかもしれない。。


 ジープ基地に着く。30人乗りぐらいのバスがほんの数分おきに出るのに、そのお客を10人足らずのジープで山頂まで運ぶ。小野寺氏が前回来た時に問うたら450台ジープがあるとのことだったという。今はもっと多いに違いない。屈強な、荒くれ男風の若者の姿がある。彼らが運転手だった。なぜそういう風体の運転手なのかは乗ってわかった。すれ違うのがギリギリの急坂な山岳道路を50キロぐらいのスピードで駆け上がり駆け下りるのだ。一台とてノロノロすることは許されない。お互い気合を入れ合うかのように、すれ違うたびにクラクションを鳴らし合う。体を張った仕事であることが乗客にも伝わってくる。崖下を見てハラハラしても始まらない。車中は、もう笑って、身を任せるしかない、そんな雰囲気になった。ここでも中国の途方もないエネルギーを感じさせられた。
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 ジープを下りると山頂はすぐ見える。山頂に立って天池を眺める人たちがズラリ並ぶ。1400段の石段のことは聞いてなかったが、こっちの方、5分ぐらいで山頂に行けると聞いていたのでこの旅参加に同意したのだった。昨日神事を終えていたのでこの日はゆっくり余裕を持って天池に相対すことができた。
天池DSC_1807#1.jpg

 湖面の色は前日の西側からの方が輝いていた。しかし昨日は無我夢中だったのでじっくり向き合うことがなかった。ただ前日の天池との別れ際に目に飛び込んだ湖面の輝きがものすごく印象に残っている。それは、雨の中うずくまる私に傘を差し伸べてくれていた女性をふと見上げた時、女神様のように見えた印象とも似ている。それに比べ、この日の北側から見る天池は、ゴツゴツした岩の間から望む天池で、男性的な印象だった。ともあれ西と北、二方向から拝すことができたのは僥倖と言っていい。

◎白頭山神璽奉斎の意義
 昭和64年1月7日昭和天皇崩御の日は奇しくも、日月潭神璽第五十五周年例祭の日だった。白頭山天池に神璽が鎮まったほぼ半年後の昭和9年1月7日、日月潭に神璽が鎮められ、その55周年を挙行すべく熊野秀彦先生を団長とする30数名で台湾日月潭に在った。熊野先生にその報告記事を命ぜられ、その際「東亜圏主要地点相関図」を「古道」紙上に発表した。その意味するところはともかく、白頭山天池に関する位置関係を列挙してみる。
https://oshosina.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_e75/oshosina/E69DB1E4BA9CE59C8FE4B8BBE8A681E59CB0E782B9E79BB8E996A2E59BB3-58da1.jpg
・白頭山と富士山と宗谷岬を結ぶと正三角形

・上記正三角形頂点白頭山からの角二等分線は十和田湖に至る

・白頭山から見て白馬岳と手箱山のなす角が30度

・白頭山から見て手箱山と日月潭のなす角が45度

・石城山から見て白頭山と衡山のなす角が90度

・石城山から見て白頭山と出雲大社のなす角が45度

・石城山から見て白頭山と恒山のなす角が45度

・石城山から見て出雲大社と恒山のなす角の二等分線上に白頭山

・手箱山から見て石城山と白頭山のなす角が45度

・手箱山から見て白頭山と十和田湖が等距離

・十和田湖から見て白頭山と石城山が等距離

・十和田湖から見て手箱山
・日月潭と白頭山がなす角が60度

・泰山から見て白頭山と衡山が等距離

・日月潭から見て白頭山と泰山のなす角が30度

・日月潭から見て白頭山と嵩山のなす角が45度

・日月潭から見て白頭山と白馬岳が等距離

(以上は、17,530万分の1の世界地図と1,500万分の1の日本地図に線を引いて見つけ出した相関関係なので、緯度経度からデジタル的に算出してどこまで厳密なのかは今後の検証をまつ。)
 その報告文に《いったいなぜそうなのか、その神慮のほどは到底計りかねることではあるけれど、しかし少なくともこの日月潭が東亜圏内重要神域との関連においてまさに南の要をなすということは、凡そいかな唯物的頭脳を以ってしても、いやむしろ、唯物的頭脳であれば尚更のこと、一笑には付しかねるのではあるまいか。》と記したが、そのまま「日月潭→白頭山天池」「南の要→北の要」としてもよい。また、「唯物的」は「現世的」と言い替えてもいい。
 白頭山天池鎮斎神璽について、《神儀は第一殿と第二殿とから出来て居り、第二殿は御主神天照大御神を始め奉り皇典に明記してある文武の大神十幾柱の神々が斎き奉ってある。然るに第一殿は豊受姫神一柱が斎き奉ってあるのである。》(『古道神髄」)
 一方、白頭山天池遥拝詞には《掛巻くも畏き白頭山天地に斎い奉る豊岡姫大神をはじめ・・・》とある。豊岡姫大神と豊受姫大神とは同神である。
 原典ともいうべき書簡がある。
《拝啓 御多忙中誠二恐れ入り候得共御都合よろしき日を以て 豊受大神宮へ代参して頂き度 大々神楽奏上 お手続き被下度候 願主 友清歓真
   願意要領
 今より三十余年前 丹後元伊勢宮境内発掘の砌(豊受宮の雄略朝迄鎮座の霊地)天平甍等十数個土器発掘 京都の古代土器通にして敬神家又祭祀の古典に精しき堀天龍齋翁(鳥尾子爵の紹介にて)一見して何れも正しく二千年前のものなるを知りしも 大部分破損せる故完全なるもの三四個のみを譲受けたるその中の一器珍らしき品にて 球形の神器也大いにあやしみて清水にてよくよく洗ひみるに多くの穴あり 又 タスキがけあり 且つ稲實あまた出て来れり実二是れトヨウケ大神の地下の御霊代なる事を知る
 地下に御靈代を鎮めその周囲に天平甍等に供物を盛り足らはし之を清砂を以て蔽ひ その御霊代の真ッ直ぐ上ニ斎柱を立てて地上ニあらはし之を中心として神殿を築く事古代の神法也(斎柱、忌柱、心の御柱とも云)於茲、堀翁、驚き潔斎して之をひそかに奉安し 時節を待ちて三十余星霜 今秋當方ニ改めて豊受大神として祭祀する事となれり
今日二至る迄ニハ當方ニモ種々此事ニツキテ不思議極まる奇蹟あり 今言挙げせざるのみ
倭姫命の霊感ありたる雄略様の二十一年丁巳より今年實ニ千五百年也
 山田へ遷宮は其翌年故明年が千五百年乎 (朱書)
右の事情に有之候間右御霊代を当方ニ祭祀仕候事につき可然奏上を得度 小生参拝すへき筈なれ共只今旅行ニ差支へ候事情も有之何卒大人御代拝被下度奉悃願仕候
 当方に祭祀せるは去る十月一日也
 改めて十月九日に祭典執行せり (朱書)
 神部署の規定等小生不案内ニ御座候処不取敢四十円也封入いたし置候 不足の時ハ追送申上候間
一、豊受大神宮ニ大々神楽奏上の事 当方に御霊代あるを以て大麻は不要なるべし  その辺当局と御相談被下度候
一、豊受大神宮へ御饌奉奠の事
一、倭姫宮ニ可然方法にて右の事情奏上の事
一、倭姫宮の守祓劔祓各一体拝受の事
 大人右御代行被下候日時決定の上ハ御電報被下度候
 誠ニ何共御手数の儀恐縮千万なれ共特ニよろし九おたのみ申上まゐらせ候
    十月十三日   歓真
 篠田大人 侍史  》(友清歓真「大正15年10月13日 篠田幸雄宛書簡」)


 堀天龍斎翁のお働きが要である。友清先師が1888生(-1952)に対して堀翁は1856生(-1930)。神器出現は大正15年(1926)の「30余年前」ということなので明治29年以前(1896)か。紀州の神人沖楠五郎(?-1890?)の霊統を継ぐ40歳前の堀翁、直ちにその重大性を察し、太古神法一千日大潔斎をもって豊受大神の御霊代を謹修。御霊代鎮齋の場を求めて天行居に接近、約30年後の昭和2年5月、神示によって御霊代は堀翁から友清先師のもとに。先師、その年11月石城神社において大山祇大神より「十の神訓(山上の天啓)」の神示。神に命ぜられるまま昭和3年石城山の麓に本部神殿建立。そして昭和4年、石城山頂に「太古神法」によって謹修された大神璽が地下に御鎮座の日本(やまと)神社が創建された。堀翁、それを見届けるようにして昭和5年登仙。そして白頭山天池神事が昭和8年(1933)。


 実は冒頭の文には次の文章が続いている。《第二殿の神儀は畏れながら終始私が奉仕したのであるが、第一殿の神儀は四十年前に於て堀天竜斎先生が殆ど諸儀謹修奉仕を完了しておかれたもので、その一二の最後の御儀だけを堀先生の命令通りに私が奉仕したものである》(全集③149p)ここから白頭山天池に鎮まった神璽も明治26年(1893)頃に謹修されたものだったことが推し量れる。すなわち堀翁は、明治29年以前に元伊勢から出現の神器から豊受大神の御霊代を少なくとも二体謹修、一体は石城山の日本神社の地下に、そしてもう一体が白頭山天池に鎮まったということだ。白頭山天池神璽鎮斎の昭和8年(1933)7月30日、その年「古道」8月号に「天關打開の準備成る」と題する先師友清歓真名の布告が載る。《天關打開の根幹的準備は今回の白頭山天池神事を以て成就したり。これは昨年秋井口宗主の霊感提示に出づるも昭和二年夏に於ける堀先生の一大委託と合符するところにして、更らに神示を仰ぎつゝ密々計画を編成し、萬艱を物ともせず達成をみるに至りたるを天行居の一員としてのみならず日本國民の一員として余は満腹の感激を抱くもの也。更らに井口宗主が今春来雲霧の中にかくれて奉仕せられ、某神山に隠栖せられ居る或る高士の熱誠と努力とによりて完了せられたる大神事は一切厳秘の大事にして、其の消息の一片をも語るを得ざれども皇國の霊威の為めに文字通り全國民に大感奮を興ふるところの畏るべき大神事にして、今や幽顕両界にわたる天關打開の準備は遂に完成せられたることを先づ全國同志諸君に報告し得る機曾に到達したることを茲に謹んで言明するものなり。》



 『神道古義』の「天行居の出現が正神界の意志たる理由」の章、そこに記された第一の理由が「神道天行居の中心とも申すべき御霊代」の存在である。それが「丹波元伊勢の豊受姫大神様の御霊代」であることは言うまでもない。実はその御霊代は二体あり、その二体が鎮まるべきところに鎮まることではじめて天行居は天行居たるべき存在の責務を担いうる。なぜ天行居にとって白頭山天池神事が重要なのかが見えてきた。なりゆきのままに白頭山に行って帰って、そしてあらためて白頭山に関して書かれたものを眺めつつ、このたびの自分の行動をたどってみて、そして今、白頭山天池に鎮斎の大神璽が日本神社に鎮斎なる神璽と同等なることに気づかされて粛然としている。まさに石城山と白頭山天池とは表裏一体なのである。
 では、なぜ豊受姫神なのか。
 『古道神髄』より。《豊受姫神は愛の女神であり、仁慈の女神であり、平和の女神である。この大神を天行居で地上霊的気線の要点の一たる白頭山天地に奉斎したのは天行居の大理想が皇道の大義に基く世界恒久平和にあるからである》。さらに、《人間世界に於て極めて尊いものの一つに愛といふものがある。その愛の中でも母の愛ほど純真で崇高なものはあるまい。母の愛は全く犠牲的な愛であり無条件の愛である。それを詳しく語れば一大冊子を成すであらうが実に母の愛といふものは底の知れないものである。/ 私は其の母の愛を考へる毎に、必ず畏れながら豊受姫神様の犠牲的な、無条件な大きな神愛を思はざるを得ぬ。豊受姫神様の愛が、地上の人々の母の愛としてあらはれて居るのではないかと考へる。》そして伊勢の内宮、外宮を鑑み、《畏れながら天祖天照大御神の思召しによって豊受姫神の御宮を皇大神宮に並べて造営せしめられ、祭儀の如きも殆ど皇大神宮同様に奉仕せしめるやう神勅を下し給へる神慮は吾吾如きものが彼れ此れ評議すべきことではないが、天祖の大神徳の愛の方面の御表現が豊受姫神の愛の御神徳で地上の生類みな其の洪大なる恩頼を蒙らざるものはない。》
 さらにその後につづく文が《内宮と外宮との或る霊的交渉が太古神法の根幹をなせるものであるが、そのことは其のことの輪郭だけでも到底語るわけには行かない。》で、豊受姫神様は、地上に於いて母の愛として顕現する愛の女神である。
 要するに、天行居信条(及心得)第三条「豊受姫大神様は特に愛育慈養の犠牲的愛の神様であらせられ私ども日常の衣食住を恵み玉ふ愛の神様であらせられることを敬信いたしまする」に尽きる。
 余談になるが、記紀とは別に『秀真伝(ほつまつたゑ)』という古代文書がある。この文書において、豊受大神の存在が明確に位置付けられており、天行居における豊受姫大神とも重なる。ただし、豊受神も天照神も男神である。馬野周二著『人類文明の秘宝「日本」』から引いて参考に供したい。
 《『秀真』『三笠(みかさふみ)』から得られる情報から判断すると、三千年前の日本列島は、すでに十分政治的に組織され、通信、交通手段も整備されていた。天照神の父伊佐諾は北陸から出て列島の西半部の君となった。この尊は伊佐冉と結婚するのだが、その父高皇産霊は、本貫が日高見の国で、これは現在の仙台地方であろう。/当時の東北は縄文晩期の最盛時を過ぎ、下り坂に向かう時期にあった。東北の君高皇産霊尊が娘を列島中央部の王家に嫁がせることは、大いに政治的意味があったと見るべきだろう。この高皇産霊尊は五代目で、伝世したすべての教学を孫天照神に伝えているし、晩年には白人、胡久美の乱で荒れた山陰地方を治めるために宮津に留まり、今日の元伊勢外宮(京都府加佐郡大江町)の地で崩御した。今日では伊勢皇大神宮の外宮に祀られている。豊受というのはこの人の諱(いみな)である。今日でも天皇、勅使が伊勢神宮に参拝する時に、外宮から先にする理由は、豊受が天照神の外祖父であり、師父であったからだと思われる。そして、日本の政治、社会の根元律の伝持者であったところからきていよう。》《『秀真伝』および『三笠紀』は神代以来の皇室の原典であり、代々の天皇と廷臣たちの修養書として作られている。そしてその背骨をなす思想は〈天なる道〉である。では天なる道とは何なのか。/天照神は十六歳まで富士山麓酒折の宮で成長されたが、以後三十年間日高見の高皇産霊尊の下で勉強された。その場所は山手宮と言い、これは現在の仙台(多賀城か)に当るであろう。高皇産霊=豊受神は代々東北に住した高皇産霊の五代目で、タニハ(現在の丹波)の朝日宮(京都府加佐郡大江町の元伊勢外宮か)で崩御された。/・・・・当時の東北、奥羽は先進文明地域で、洗練された縄文晩期土器を出して、その影響は中部以西にまで及んでいると考えられ、思想的にも高度に達していた筈である。おそらく豊受神は、当時の最高の祭司、学者、霊格者だったのであろう。山手宮に若き天照神を迎えた彼は、 威儀を正してこの客殿に通い、熱心に教授したと『秀真伝』に伝えている。》
 つまり『秀真伝』によれば、「豊受神(トヨケ)ー伊佐冉神(イサナミ)ー天照神(アマテル)」の系譜があり、天照神の外祖父豊受神の本貫は日高見(宮城県多賀城辺)であるが、その行動は全国に及び、終焉の地は元伊勢であった。戦後『秀真伝』を世に広めるのに中心的役割を果たした松本善之助(1919-2003)が、その本霊の鎮まる場所を出羽三山に比定しておられる。それを承けて次のように書いたことがある。


 《「ほつまつたゑ」によれば、当時の日高見の国、すなわち仙台多賀城を中心にしたこの東北地方こそが日本の中心でした。そしてイサナミノ神とは代々東北を治めてきたタカミムスピノ神の五代目にあたるトヨケ神の娘、つまりイサナミノ神のふるさとはこの東北なのです。そもそもイサナミの父トヨケ神とは今の伊勢外宮の御祭神豊受大神で、晩年裏日本の乱を鎮めるため東北から丹後宮津に出向き、今も元伊勢の地名の残るその地で崩御、その後東北の何処かに祀られたと「ほつまつたゑ」には記されています。そこで松本氏は、トヨケ神の御本霊が祀られたその有力候補地は出羽三山ではなかったかとの考えを提示されました。というのは今から千四百年前、崇峻天皇の第三皇子蜂子皇子が出羽三山を開山したのは、古来豊受大神と同神とされる倉稲魂神(うがのみたまのかみ)の導きによってであると伝えられるからです。つまり、蜂子皇子による三山開山以前に豊受大神はその地に祀られていたことになる。さらにこのことから、トヨケ神の娘であるイサナミも、その御霊代はふるさと陸奥に帰っていると考えることはできまいか。そしてその地が他ならぬわが熊野大社であると考えることはできまいか。熊野大社縁起の一つに「紀州熊野有馬村峯ノ神社ヲ遷シ玉フ」とある。実にこの一文は、熊野大社が伊奘冉尊の御本霊の鎮まり賜う場所であることを告げているのだ、と。》「宮内熊野に探る「祭り」の意味」
 平成29年大晦日から30年元旦にかけてのNHK「ゆく年くる年」、宮内熊野大社から暮れと年明け二度の中継があった。新年早々の熊野大社中継は、拝殿での大祓詞奏上だった。昭和20年12月15日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による神道指令が発せられてこのかた、この時ほど堂々と大祓詞が世界に向けて発信された事はなかったのではないか。70数年来の封印が解かれたのです。そしてこの日、思いがけなく北朝鮮の金正恩委員長による平昌冬季オリンピックへの参加表明演説、ここから世界は一挙に転回し始めます。情理に背く世の中から自然の摂理に則った明るい世の中へ向けて、東アジアが、そして世界が変わり出した!そう思えたものでした。

◎帰途へ
 西坡山門からと北坡山門、2コースから白頭山に登り、2度とも晴れた天池を拝して十分満足しきっていた。しかしさらに、この日は長白瀑布行が組まれていた。一旦ジープで北坡山門まで下り、バスに乗り換えて平行する西側の道路を登って瀑布登山口に着く。そこから1500mぐらいあるらしい。せっかくここまで来たからにはと、長老二人には下で待ってもらい、艾さんに同行してもらって3人は出発。しかし私も鹿又氏も400mぐらい登った聚龍泉温泉の休み場まで来たところでダウン。元気のいい古森氏一人先に進んでもらうことにした。瀑布を遠くに望める場所もある。艾さんに缶ビールを買ってもらって、昨日の晩餐の残りのピーナッツを取り出して腰を下ろす。ここからちょっとした日中交流が始まった。
https://oshosina.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_e75/oshosina/E3818AE38197E38299E38195E38293E5AEB6E6978FE381A8DSC_1816-5b947.jpg

 すぐそばのベンチに腰を下ろした初老の男性に、いうに言われぬ親しみというか懐かしさのようなものを感じ、多少のアルコールも手伝って艾さんを介して声をかけてみた。ニッコリ答えてくれて、我々が昨夜泊まった二道白河の郊外の農家で、観光に来て娘さんと孫さんが瀑布まで行ったのを待っているという。1949年生まれで奥さんと農業をやっている。1.3haの畑にトウモロコシを栽培し22トンを収穫。機械化で仕事は楽になっているが、4人の子供も独り立ちしているのでもうそろそろやめようかと思っている。毎月100元(約1,600円)の年金がもらえる。「日本についてどんなことを思いますか?」と聞いたら、息子の親戚に残留孤児がいて、今は日本でいい暮らしをしているらしい。戦争中日本がどうしたこうしたについては、戦後生まれなのでよくは知らない、ということで日本に対する悪感情は何もない風でした。そうこうしているうちに、娘さんと孫さんが戻ってきたので、一緒に写真を撮らせていただきました。一目見ても思ったのですが写真であらためて見ても、二人とも大変いい感じの女性です。図々しく握手をさせていただいて別れました。白頭山での最後となるいい思い出になりました。名前も聞かなかったけど、ありがとう。



 活気溢れる二道白河の街に戻り空港へ向かう。昼の時間はもうとうに過ぎていた。下で待ってる方はなにかかにか口に入れているが、古森氏は何も食べていない。飛行機搭乗まではまだ十分時間があるので、飛行場まで5キロぐらいの店で昼食。もう5時になっていた。隣接して売店もあったので入ってみたら、長白山土産に混じってロシア産の菓子も売っていた。飛行機は7時45分発瀋陽行。所要時間55分の予定。しかし往路同様やはり遅れて瀋陽についたのが9時半過ぎ。
 宿の機場賓館で出迎えてくれたのがNさん。この人と小野寺氏との交流があって天行居同志のこれまでの白頭山天池登拝が実現してきた。ずっと年配の人を想像していたのだが、61歳という若さに驚いた。実に流暢な日本語で、しかも受け答えに一々そつがない。「大人(たいじん)」とはこういう人を言うのか。60歳で定年退職、今は翻訳等の仕事に従事とのこと。北京から5時間かけて駆けつけて待っていてくれたのだった。ホテル内の食事はもうできない時間なので外へ出て、交渉して閉店の食堂へ入れてもらう。隣のテーブルでは麻雀が始まった。一日終わっての仕上げの習慣なのか、30分ぐらいで終わっていた。Nさんが入ってさらに楽しい中国最後の宴席となった。Nさんは日本に友人も多い。しばしば家族で日本にを来られるとのことで、日本での再会を約した。

◎最後に
 「もしどこへでも行けるとして、どうしても行ってみたい場所はどこですか?」と問われたら、「白頭山」と答えていたかもしれない。実際にその場所に行ってみるまで行くことが信じられなかった今回の旅だった。行って帰って、とにかく出来る限り記録しておかねばならないと書いてきた。書いてる中で、「なぜ白頭山なのか」も腑に落ちた。旧参の同志にはわかりきったことなのかもしれないが、このことがわかって、友清先師の文章がまた別の輝きを発し出したように思える。


 この度選ばれて鹿又氏と私とで、白頭山天池を眼下にする場所で祭典奉仕できたことをほんとうに光栄に思う。三十数年間二人でやってきたのはこの日のためであったか、と心底思った。その神事、振り返れば至らないことだらけではあるが、それはそれ我々の出来る限りがそれだった。至らなかったことの意味も、この先わかることがあるかもしれない。毎月15日朝の産土神社月例参拝、鹿又氏と熊野大社拝殿前で語ったのは、「つなぎ」の役割は果たしたのでは、ということだ。これまでの先導役小野寺氏が「これが最後」と言うのもやむを得まい。悪い足を引きずりながら杖をトントン響かせつつ最後を追う姿によくよく頭が下がった。このたび我々が行くと言わねば、あるいはもう小野寺ルートでの白頭山行は絶えていたかもしれないと思うと、それだけでも我々が「行く」と決断した意義はある。


 2回目北坡口からの登拝の時、鹿又氏、昨年亡くなった弟源司郎さんの形見の黄色のチョッキを付けていた。源司郎さんも一緒のような気がした。何度も誘われたはずなのに、なぜ源司郎さん、一度も行かなかったのか。あっちの世界に行って、あらためてきっと後悔していたに違いない、その思いが後押しして我々が行くことになった、そんな気がする。行ってきたよ、源司郎さん、ありがとう。

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