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mespesadoさん講義(4)井筒俊彦ワールドへ [mespesado理論]

mespesadoさん、井筒俊彦ワールドへ参入! 

私の場合は若松英輔さんの『井筒俊彦 叡智の哲学』が導きとなった。2013年の夏に求めていた。小田仁二郎からのリンクだった。先だって「宮内よもやま歴史絵巻」について語らせていただく機会があったのだが、「井筒俊彦による小田仁二郎評価を『よもやま絵巻』で知った人が、詳しく調べてくれたらうれしい。」と話した。実はそのとき思いつきでそう語ったことが自分にはねかえってきた。寂聴さんが「どこがどう素晴らしいのか聞いておけば良かったんですけれども・・・あ、そうですか、そうですかと言ってしまって聞いて置かなかった」と言われている問題を自分なりに納得したくて、井筒俊彦に関心が向くことになりました。その答えを求めておそるおそる井筒俊彦をのぞいてみたら、そこにはすごい巨峰がそびえていました。いま井筒俊彦―叡知の哲学』(わからないなりに)ゾクゾクしながら読んでいます。》https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2013-09-10と書いていた。この本がきっかけとなって、若松氏の本はだいぶ読んだ。だいたい積読が多い私なのだが、手元の若松氏の本はほとんど読みきっている。

その一年後、月報ほしさに井筒俊彦全集第4巻を無理して買って井筒俊彦夫妻と小田仁二郎・瀬戸内寂聴さんとの交流」を書いている。いい加減な私は、『意識と本質』も『神秘哲学』もまだ読みきっていない(ただし、読むのをあきらめたのではなく、いつかゆっくり読める時がくるにちがいない、とすぐ手に取れるところに置いてある。『モモ』がそうだったように)。

mespesadoさん、《彼らの本を詳細に読む前から、直観では何が本質なのかがちょっと見えてきている、もう答は見えている、という気持ちがあるのも確かだ。》とも本来なら言語で表現することが困難な対象を無理やり言語で説明せざるを得ないことから来る著者から読者への「情報伝達」の困難さ》とも言う。井筒ワールドを論理や知識で理解しようと思うと大変だが、まさに「井筒ワールド」、その世界が確実にそこに在る。井筒俊彦の文章を「読む」ということは、その世界を「生きる」ことと同義のように思える。その世界体験は、「ゾクゾクする」ような体験であることを若松氏が教えてくれた。

mespesadoさん、亀さんの挑発(?)に乗って、新たなmespesadoワールドへの展望もひらいてくれている。若松さん同様、わけのわからない無縁な世界と思っている世界も、mesさんにかかると身近かになる。「数学」世界がそうなるかもしれない、という期待を抱かせてくれている。

*   *   *   *   *


87:mespesado     2019/11/21 (Thu) 07:14:08
飯山陽著『イスラム教の論理』についての感想↓
    
みたま@int_independent
> 唐突ですが、お礼を述べさせてください。
> 井筒先生の「意識と本質」を出版とほぼ同時に読み、深く感動しました。
> しかし、なぜその後、井筒先生の世界にハマらなかったのか自分でも謎
> だったのですが、飯山先生の前著とツイッターを読んで腑に落ちた点が
> 多くスッキリしている次第です。(新著予約済)
 ↓ ↓ ↓
飯山陽『 イスラム2.0: SNSが変えた1400年の宗教観』 11月26日刊行予定‏
> 井筒俊彦先生の関心がひたすら「内」へと向かうのに対し、私の関心は
> ひたすら「外」に向かうのが特徴です。私が分析対象としているものは、
> 世界のあちこちで誰でも確認することができますが、井筒先生の方はそ
> うではありません。「誰にも認識できないものをオレだけが知っている」
> 的研究です。

 私はもともとスピリチュアルの世界で「外向き」より「内向き」の方が実は本質で、やがては後者に向かうのが必然の流れだ、という認識でいたので、この飯山さんのコメントは意外でした。というのも、飯山さんの前掲著書を読んで納得し、その後のツイッターにも共感しているからです。
 となると、この井筒さんの本に何が書いてあるのかが大変気になってきたので、早速注文して読んでみることにしました。
 読み終わったら感想を書いてみたいと思っています。

97:mespesado     2019/12/04 (Wed) 06:59:26
 ここに4つの証言がある↓

> 言語学者、哲学者、思想家として世界に名を響かせた井筒俊彦(1914
> ~1993)。子供の頃、父から禅を学び、その後イスラム哲学に傾倒
> したが、西洋とイスラム世界の衝突を目の当たりにし、その解決の糸口
> として東洋哲学を確立した。「多様性」や「他者との共生」を訴える井
> 筒の思想は、不寛容と憎悪が増す今、再び注目を集めている。イラン出
> 身の女優サヘル・ローズが、井筒ゆかりの土地や人を訪ね、独自の世界
> 観を体感する。
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/2443/1878344/index.html

> みたま@int_independent

> 唐突ですが、お礼を述べさせてください。
> 井筒先生の「意識と本質」を出版とほぼ同時に読み、深く感動しました。
> しかし、なぜその後、井筒先生の世界にハマらなかったのか自分でも謎
> だったのですが、飯山先生の前著とツイッターを読んで腑に落ちた点が
> 多くスッキリしている次第です。(新著予約済)
https://twitter.com/int_independent/status/1196773431288590336

> 飯山陽『 イスラム2.0: SNSが変えた1400年の宗教観』 11月23日刊行
> @IiyamaAkari

> 井筒俊彦先生の関心がひたすら「内」へと向かうのに対し、私の関心は
> ひたすら「外」に向かうのが特徴です。私が分析対象としているものは、
> 世界のあちこちで誰でも確認することができますが、井筒先生の方はそ
> うではありません。「誰にも認識できないものをオレだけが知っている」
> 的研究です。
https://twitter.com/IiyamaAkari/status/1197042724366536705

> つくづく、言葉は怖いものだと思った。飯山陽女史の『「誰にも認識で
> きないものをオレだけが知っている」的研究』という言葉、同女史が西
> 田幾多郎や井筒俊彦の云う無の世界に、無知であることを赤裸々に示す
> 言葉になっているだけではなく、この二人の知の巨人には到底及ばぬ器
> であることが一目瞭然となっている。
http://toneri2672.blog.fc2.com/

 ↑これらだけ読んでると、どの発言が本質を突いてるのかわかりにくいが、飯山陽氏の新書『イスラム2.0』と井筒俊彦氏の『意識と本質』を買って読んでいるが、まさに知の世界には何重にも仕掛けられた罠があるのを感じていて、奥が深いのがわかる。しかし不思議なのは、彼らの本を詳細に読む前から、直観では何が本質なのかがちょっと見えてきている、もう答は見えている、という気持ちがあるのも確かだ。
 感想は、上記2冊を読み終えてからじっくりここに書き込みたい。

98:mespesado :2019/12/09 (Mon) 07:20:49
>>97
 ようやく飯山陽氏の『イスラム2.0』の方を読み終わりました。
 これは、「ある種の思想/ドグマ/イデオロギーについては、原理主義が大変な影響を及ぼすことがある」ことに対する現実社会への警告書である、と理解しました。そういう意味では、この本は非常に大切な啓蒙書になっていると思います。
 一方の井筒俊彦氏の『意識と本質』の方ですが、全417頁のうち、まだ34頁までしか読み終えていませんが、これは読むのに頭がとても疲れます。そんな中で「おお!」と思った部分に差し掛かりました↓

> およそ概念とか概念的・抽象的思惟とかいうものを極度に嫌った本居宣
> 長は、当然のことながら、中国人のものの考え方にたいしてほとんど本
> 能的とでも言いたいほどの憎悪の情を抱いた。

 この本は東洋の哲学、主として中国やインドの哲学の「無」の哲学の観点から、今のスピリチュアル(=西洋人が東洋哲学に類似する思想に目覚めて広めた汎宗教的思想)の世界にも通じる思想を紹介しているわけですが、言われて見れば、本居宣長ってそういう意味で「唯物的」なんだな、と改めて感じ要るところがあり、そして飯山陽氏もそういう観点からすると、まさに本居宣長的な人なのだろうな、ということが見えてきたような気がします。

99:mespesado :2019/12/09 (Mon) 07:23:45
 単なるメモです
http://www.keio-up.co.jp/kup/sp/izutsu/doc/x11y7.html

100:亀さん:2019/12/09 (Mon) 07:53:07
>>98
> 『意識と本質』

本当に同書に取り組んだのですね、凄いなmespesadoさんは…(唖然)

井筒俊彦は多くの著書を和漢洋で著していますが、日本語の本で井筒俊彦その人の本質を識るには、『神秘哲学』と『意識と本質』の二冊は欠かせないでしょう。しかし、両書とも難解であり、一度読んだくらいでは殆ど理解できない性質の本であり、繰り返し読む必要があると言われている本ですね。

ともあれ、この二冊さえ読めば井筒俊彦の他の本は、読まなくても差し支えないとすら言われているほどで、しかも確か両書とも日本語以外に訳出されていないはずです。その意味で、日本語が解る我々は両書を世界に紹介する〝義務〟がありそうです。

小生の頭では理解は難しいので、『意識と本質』を読了した後のmespesadoさんの読後感というか、解説を今から期待しております。

亀さん@人生は冥土までの暇潰し

101:mespesado :2019/12/10 (Tue) 07:10:28
>>100

> しかし、両書とも難解であり、一度読んだくらいでは殆ど理解できない
> 性質の本であり、繰り返し読む必要があると言われいてる本ですね。

 繰り返し読むどころか、1回目の読みで先に進むのすら大変。まるで数学や理論物理の論文を読み解いているような感じです。
 これは、書いてある内容が難解だから、ということではなく、本来なら言語で表現することが困難な対象を無理やり言語で説明せざるを得ないことから来る著者から読者への「情報伝達」の困難さから来るものと思われます。これは例えて言うと、異国の旅で初めて見る大変珍しい景観を写真を使わず言葉だけで説明する困難に似てるかな?という感じ。
 まあ、それはともかくとして何とか読み通していきたいと思います。

102:mespesado :2019/12/10 (Tue) 07:22:24
>>98
 飯山陽さんの本が「警告の啓蒙書」であることの証拠みたいな、最近のツイート↓
https://twitter.com/IiyamaAkari/status/1203686822825492481

飯山陽『 イスラム2.0』増刷決定、みなさまありがとうございます!@IiyamaAkari
> イギリス外務省はイギリス国民に対し、「モロッコではテロリストが攻
> 撃を試みる可能性が非常に高い。常に警戒する必要がある」と渡航情報
> を更新。一方、日本の外務省はモロッコについては変わらず「十分注意
> してください」。渡航の危機管理について日英ではこれだけ差がある。

 実は『イスラム2.0』にも出てきますが、1991年7月に起きた『悪魔の詩』翻訳者殺害事件。当時イランのホメイニ師が、英国のサルマン・ラシュディが著した『悪魔の詩』がイスラムを冒涜するものだとして著者や出版に関与した者に“死刑”宣言をした結果、著者のみならず、世界中の同書の翻訳者が命を狙われ、日本語の翻訳者である五十嵐一氏がイスラム式の死刑の方法で喉を切り裂かれて殺害された事件ですが、Wikiによれば、日本でも翻訳者の身辺の護衛を当局が申し出たのに本人が断っていたようですね。
 結果として、五十嵐氏は不意を突かれて暗殺者に殺害されてしまったわけですが、当の著者の方は英国で手厚い警護により暗殺を免れています。
 多分、彼女の上記のツイートは、今も変わらない日本のテロ等に対する認識の甘さに対する警告として行われたものと思っています。

103:mespesado :2019/12/12 (Thu) 22:18:21
>>102
 飯山陽さんが唯物史観の持ち主であることはわかったけれど、同じイスラム研究者の中田考さんのことが彼女のtwitterで話題にされてるから、どんな考えの人かと思って読んでみた↓

http://s-scrap.com/3523
第四書簡 タイのイスラーム事情

 このサイトは飯山女史と中田氏がそれぞれ自分の立場から独立に同じテーマについてエッセイを書いてホチキスしているだけのようなサイトだが…
 前半の飯山女史の文章は、既に読んだ2冊の本とほぼ同じトーンの記事で、とりたてて意外性はない。
 一方の後半の中田氏の文章は…

> 日本のイスラーム化は妄想、あるいは夢想の類でしかありませんが、日
> 本によってインドネシアを含むマレー・イスラーム世界が軍事的に占領
> され植民地化され、神道の天皇崇拝を強制されたのは、古老たちの記憶
> に残るリアルな「事実」です。私たちは、東条内閣の閣僚としてA級戦犯
> の被疑者になり公職追放になった岸信介の孫で、彼を尊敬すると公言し、
> 靖国神社に参拝し、戦争放棄と戦力不保持を定める憲法九条の改正を目
> 指すと公言する人物が首相を務める国の国民であることの意味をよく考
> えてみる必要があるでしょう。精神分析では、自分自身に認めたくない
> 欲求や感情を無意識に他者へと転嫁して自己正当化することを「投影」
> と言います。イスラームが過度に侵略的で危険だと見える者は、自分自
> 身の姿を相手に投影しているのではないか、とまず自分自身を疑ってみ
> るとよいでしょう。個人であれ集団であれ、自己の実像を直視するのは
> 誰にも難しいものですが。

 うわ~~。もろ自虐史観の塊りだぁ!!しかも典型的な「アベガー」ww
 中田さんよぉ、人のことを「とまず自分自身を疑ってみるとよい」とか言う前に、自分がWGIPに洗脳されてんじゃないかと疑ってみた方がいいんじゃないですかねぇ。
 飯山女史がツイートで、従来のイスラム学者が飯山女史のことをイスラム差別主義者だと主張している、と仰っていましたが、これじゃあ、さもありなん。経済学界と同じで、従来学派が(この場合は差別は良くないという)ポリコレのイデオロギーのバイアスがかかった分析をしてるってことでしょうね。だから、そういったイデオロギーに毒されない飯山女史の唯物的な議論が彼らのイデオロギーに反するから差別的に見えるんでしょう。
 亀さんも言うとおり、飯山女史は唯物的過ぎて、人間の精神の内面の哲学がわからないという弱点があることは間違いないですが、その唯物史観の人にすら批判される従来学派ってほんっと何なんでしょうね。

104:亀さん:2019/12/13 (Fri) 03:15:38
>>103
> 飯山女史は唯物的過ぎ

このあたりは、現在ウォッチャーさんが瞽女について、日本各地で調査を進めており、そのあたりを詳細に書きたいのは山々なんですが、現在は仕事に追われているので、またの機会にさせてください。
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-1643.html

最近は、西田幾多郎、鈴木大拙、井筒俊彦といった、先達が遺してくれた書籍に接する機会が増えてきた小生ですが、何故なんだろうかと思っていたところ、昨夜読み進めていた西田の著作に回答がありました。これは、西田の『或教授の退職の辞』という小品であり、それを読んだ若松英輔氏は以下のような感想を述べています。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/43655_22317.html

「人生は何らかのちからによって動かされていた」

小生が日ごろ漠然と感じていることを、あの西田も感じていたことを若松氏の言葉を通じて知り、あたかも西田という先達と語り合っているのでは、という錯覚に昨夜は陥ったほどです。

現在の仕事が一段落する来年二月以降、気が向けばこのあたりをブログ記事にしたいと思います。いわゆる、最新記事「無」の続編です。

亀さん@人生は冥土までの暇潰し

105:mespesado :2019/12/13 (Fri) 10:53:28
>>104
或教授の退職の辞 西田幾多郎
https://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/43655_22317.html

> しかしそれに関らず私は何となく乾燥無味な数学に一生を托する気にも
> なれなかった。自己の能力を疑いつつも、遂に哲学に定めてしまった。

 ここに「乾燥無味な数学」と書いてあります。
 私は数学科出身なので、この件について一言(にかこつけて実は重大宣言)。
 大半の数学好きは、実は「パズル好き」なんですね。専門の数学者だって実はそうです。彼らは当世の未解決問題を解決したいという猛烈なインセンティブに突き動かされて、とにかく数学の未解決問題というパズルを解こうとする。そして、彼らの世界の住人はみなそうだから、彼らにとって興味深くて難しいパズルを解いた人が最も評価される。
 しかし、そこまで数学の世界に興味が無い人は、「この世の物質世界や逆に精神世界」にも無縁な数学の世界に何をそんなに血眼になってるの?と感じるのではないでしょうか。このような現実の物質にも精神世界にも無関係ということが、上述の「乾燥無味」という印象に集約してくるのでしょう。
 ところで数学という学問には、学問それ自身における深刻な「黒歴史」があるのです。それは、20世紀の冒頭に、カントールという天才が「集合」という概念を追求することにより、すべての数学の分野がこの「集合」という概念を使うと、すべてその「集合論」の一分野として統一的に理解することができることを示しました。
 ところが、この「集合論」の中に「ラッセルのパラドクス」という矛盾が見つかり、更にこれがキッカケとなって、数学全般に共通する純粋な「数学的推論」の世界にすら、次々に深刻なパラドックスが発生してきてしまったのです。これを数学史では「数学の危機」と呼んでいます。「我々の自然な感覚に合った概念をそのまま使って論理的に推論していくと深刻な矛盾が生じてしまう」。このような衝撃の事実を知った数学者は、これに懲りて、矛盾が絶対に生じないように、ガチガチな「形式主義(数学の世界では、この言葉にネガティブな意味は無く、むしろ現代数学の基礎として従わなければならない基本中の基本という位置づけにさえなっている!)で数学を行うことがデファクト・スタンダードになってしまったのです。
 ちなみに、この「形式主義」とは、「公理的集合論」という、本当に無味乾燥な論理式の羅列で書かれたいくつかの「公理」というものを、証明抜きに正しいものと認め、それのみを基本にして、これに「推論規則」とよばれる、これまた無味乾燥な論理式を並べたルールだけを使って数学の議論は行われなければならない、という方法論このことを言います。
 こうしておけば、あとは機械的に記号の羅列に関する性質を調べることによって、形式主義で記述された数学に矛盾が生じないことを確かめれば、パラドクスから逃れられるぞ~、と当時の数学者たちは楽観的に考えたのです。
 ところが、ここで衝撃的な事件が発生します。なんと、ゲーデルという超天才数学者・論理学者が、「どんなに形式主義を採用して数学を厳密化しても、数学が矛盾しない(パラドクスが発生しない)ことを証明することは絶対に不可能である」ということを、カントールの「集合」のような「素朴に扱うとパラドクスが生じてしまう」ような「危険な」概念を一切用いずに、小学校で習うような「数(それも整数だけ)」の足し算や掛け算のような、初等的な道具だけを使って、論理的、厳密に証明してしまったのです!
 この結果、数学者はパラドクスが生じないことを保証するという取り組み(ヒルベルト・プログラムという)は諦め、この「数学の基礎付け」問題からは一切手を引き、再び「パズルの解決」に専念することとなったのです。
 ところで、そもそもこの「形式主義」というのは、驚くべきことに、しかしまあ「矛盾が生じないことが最優先の課題だ」という動機で発生した主義なのですからある意味「当然のこと」でもあるんですが、そこで採用された「公理」とか「推論規則」には、具体的にそれらを選択した理由となる客観的な根拠というのが、実は「何もない」のです!
 「ええ?!」とびっくりするかもしれませんが、これらの「公理」や「推論規則」を選択した理由は、それが正当化される客観的な理由があるからではなく、単に「形式主義を採用する前の素朴な時代に確立した昔の数学上の成果を、そのまま形式主義の下でも正しいことにして生かすために、昔から無意識に使われてきた素朴な推論方法をそのまま正しいということにできるような公理や推論規則を選んだだけ」という、単なる「ご都合主義」「対症療法」として採用されただけなんです(本当ですよ!)。
 実は私も大学に行くまでは、数学というのは「すべての学問に利用できるほど、他の学問のように学問固有の前提を何も仮定せずに客観的な事実と方法論のみに従って得られる結果だけを証明していく高尚な学問」なんだ、と素朴に信じ込んでいました。ですから、そのような「汎用性」を持つためには「無味乾燥」であることは致し方ないことだ、必要悪なんだ、と信じ込んできました。
 ところが大学で「数学の基礎付け」に該当する分野に取り組んだ結果、上に書いたような事実を知ってショックを受けたのです。何か、大げさなようですが、そのことを知ったとき、「生きる意味を失った」と真剣に思うくらい「絶望感」に打ちひしがれたんです。実は私は他の数学好きと違って、パズルを解くことにはあまり興味は無く、ただ「(抽象世界も含む)世の中のカラクリを知りたい」というだけの、まあいわゆる「夢見る少年」だったので、このような数学界の「パズル解決の成果を競う」だけの、その大元の根拠については「ご都合主義」を貫く現実には満足できず、それからは、自分で思考の羽を伸ばして考え悩むことウン十年、なんと、数学の「公理」とか「推論規則」には、実はある意味で、客観的な根拠が存在するという事実を「発見」してしまったんです(妄想かもしれませんがw)。でも、それを文字にして書き起こそうとすると、どうにもモヤモヤしていて、これを数学の世界で許されるような論文の形にまとめることができず、今日に至っているのですが、しかしその内容は、自分にとっては明晰で、しかもあまりにも平凡で何のトリックも含まれないにもかかわらず、結論が衝撃的な事実だったので、この話を家人にすると「そんな重大な事実を発見したなら早く論文に書け」と背中を押されているので、何とか論文にまとめたいと、ずっと思ってはいたのですが、生来の wimpy な性格が仇となって、なかなか論文に着手できないでいました。
 そこで、いよいよ背水の陣ではないですが、この放知技に、このような宣言をして、逃げがきかないように自分を追い詰めることにしたわけですw
 というわけで、このスレの趣旨にも合わない「自分語り」をダラダラと書かせていただき、スレ汚ししてしまいました。悪しからずご了承ください。


106:亀さん:2019/12/13 (Fri) 12:24:30
>>105
メスさん! ついに、「重大宣言」…


それにしても、今日は凄い日だ。ハリー今村先生のスレで「九州の変人」さんという読者が、オートファジー体験という大変貴重な投稿をしていた。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16474298/157/

早速、ハリー今村先生がボツボツとレスを書いているが、今後のお二人のやりとり、これは見逃せない。
一方、メスさんは重大宣言を、大勢の放知技読者の前でした!


それは…
数学の「公理」とか「推論規則」には、実はある意味で、客観的な根拠が存在する
これを論文に書いて世に問うと♀さん…、ではなくてメスさんは云う。さぁ、もう逃げられんで…(笑)。
その意味で、皆さん、メスさんの今後に注目しませう。まぁ、尤も小生も「飯山史観を後世に遺す」と、世間に向かって宣言している手前、仕事の合間に纏めているものを、一部ブログ記事に公開、今日まで丁度60本公開したが、最終的には150本前後になると思うので、あと90本前後www 頑張らねば…
メスさん、お互いの尻を叩き合いながら、各々完成を目指していきましょうぞ。


ちなみに、西田幾多郎の小品『或教授の退職の辞』の他、主著の『善の研究』について解説した若松英輔氏の『100分de名著 禅の研究 西田幾多郎』、大変優れており、無論、『或教授の退職の辞』についての言及もあります。
しかし、同氏に関して云えば、やはり『井筒俊彦―叡知の哲学』(慶應義塾大学出版会)だな…

では、仕事に戻ります。

今日は両手両足に花とはいかず両手に花で、残念な亀さん@人生は冥土までの暇潰し

107:mespesado :2019/12/13 (Fri) 14:28:16
>>106
 おお!そうでした。亀さんも正しい日本史どころか正しい世界史を世に広める活動をやると宣言していたんでした。しかも3分の1以上既に完成している…。やばい!亀さんの方が先に完成する!これは私にとっても尻に火が付く絶好のシチュエーションだ。亀さんに感謝!



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