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アル中流・乱暴さんを偲ぶ [日記、雑感]

mespesadoさんが、『悪魔の詩』を翻訳して何者かに殺された五十嵐一氏の名前を出されたことで、アル中流・乱暴さんを思い出し、どうしておられるかと検索して、昨年亡くなられていることを知って驚いた。(【追悼】渡邊 博先生)奥さんの桜子さんとともに正気煥発掲示板の常連で、私と同年だった。同じく同年の五十嵐一筑波大助教授は東大数学科から文科系への転身だったがアル中流さんも物理学科からの転身、二人は学生時代から親しかったのだろう、事件を知って、アル中流さんはすぐ現場に駆けつけられた時のことを書かれたことがあった。また、私の全く知らないうちに熊野大社においでになり、貴重な印象記を記していただいたこともあった。それを今掘りあてたので下にそのまま転記しておきます。熊野大社についてはかなり辛辣ですが、神社の若手のがんばりで、今は当時とは見違えるように活気づいています。正気煥発板ももう見れなくなっていますが、この記録だけはとってあってよかった。貴重な記録です。そのほかには、この「移ろうままに」を始めてから、アル中流さん関連記事をいくつか正気煥発板から転載しています。本名を名乗られたわけではなかったが、やりとりしているうちに中央大学の哲学科の先生とわかって驚いたものでした。なんといっても中央大学の哲学科といえば木田元先生のおられたところだったから。以下はアル中流さん登場記事。

・ターニングポイントとしての9.11  https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2006-04-06

西尾先生と副島先生 https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2006-06-20

・イエスの実在について(1) https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2008-04-13

・イエスの実在について(2) https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2008-04-13-1

いろいろ勉強させてもらったが、アル中流さんの主張には異和を感じることが多かった。それは「新しい歴史教科書をつくる会」への異和と軌を一にしていたと思う。奥さんの桜子さんとは、平成13年9月のつくる会総会の席で偶然隣り合わせた。正気煥発板のマドンナ的存在だった桜子さんは着物姿が決まっていた。いまどうしておられるか。アル中流さんのご冥福を衷心よりお祈り申し上げます。

*   *   *   *   *

投稿日: 2003/09/26(Fri) 09:30
投稿者: アル中流・乱暴

タイトル:山形で出合ったこと

管理人様

今回、山形市で催されたパネル展を拝見しに山形に伺いましたが、これまで山形を知らなかったので大変勉強になりました。気分転換のための旅行を兼ねていましたので、その夜は蔵王温泉に泊まりました。蔵王には学生の頃、宮城県の方から入って、お釜を見てきた経験はありますが、蔵王温泉は初めてです。東京には見られない、素朴で優しい人々に接したようでもあり、またのんびり流れる時間を久し振りに味わった感じでもあります。でも、本当に印象深く感じたのは、そういうことでもなく、山形に纏わる歴史でした。

蔵王温泉街を山の方に坂を上っていくと、神社の急な長い石段があります。これを上るのはちょっとスリルがありますが、この手のものが私は好きです。で、上って行ったのですが、登り詰めると車道に出合います。あ、またこれか。最近はこういうのが多いのですね。でも、これは、面白みを減じる車社会を嘆きたくなったという余談です。この神社は酢川温泉神社という古い由緒のある神社です。蔵王温泉は強い酸性の温泉で、この温泉が流れ込む川は酸っぱいので、「酢川」と言ったのでしょう。「蔵王温泉」という名称は、昭和になってからのもので、それ以前には、幾つかの名が使われ、その一つに、「酢川温泉」というのがあったようです。その神社の入り口に、言い伝えのある大きな石が置かれています。その脇に掲げられた説明によれば、桃山時代から徳川時代の初期に生き、山形城主で名君の誉れ高い、最上義光(よしあき)が、この温泉に逗留していたときに盗賊に襲われたが、これを見事に打ち破った。190kgもあるその石は、その折、彼だけが持ち上げることができたものだということです。へえ、と思った訳です。190kgを持ち上げることができる人がいるのは事実だと思いますが、その石を見ると、どこを持って、どういう姿勢で持ち上げたのかという謎が心に生じました。それが最上義光との最初の出会いでした。

昨日蔵王温泉を降りて、帰京する途中で、山形市を少しだけ勉強しようと思って、霞城跡に行って、喫驚致しました。堀と土手、そして石垣の一部が見事に残っているのですね。残っているのは、二の丸の堀と土手・石垣だというこをやがて知りました。勿論、嘗ては、その内側に、本丸の堀と土手・石垣があり、その外側には三の丸の堀と石垣があったということで、その大きさは、江戸城を幾らか下回っているだけです。平城で、高い天守閣のようなもは最初からなかったらしいというのも興味深い点の一つです。現在、その残っている、二の丸の土手が公園として、といっても、足下が狂えば、堀に転げ落ちかねない細い通路として、開放されています。その土手に上って、かなりの距離を古を忍びながら歩くことができ、感激致しました。よくぞ、これほどのものを造ったという思いです。築城者の思いがひしひしと伝わっても来るのです。勿論、東京には、江戸城の名残である皇居が現存しています。しかし、堀を土手に立って内側から眺めることは、普通の人には許されてはいない訳です。ランニング・コースとなっている皇居の堀の外側からは、私は駆けながらぐるりを何度も眺めていますが、内側から見る光景はやはり、その精神性において別物でした。

ところで、これを造ったのが、最上義光だというのです。この堀の外側になりますが、平成元年に創られたという最上義光歴史館があり、そこを訪ねて見ましたが、興味深い展示が数々ありまして、興味深く眺めてきました。またここで、この歴史館の事務局長をされていた片桐繁雄氏の著書、『北天の巨星、最上義光』が販売されていましたので、これをもとめて、帰りの電車の中で読み耽りました。確かに、歴史書ではなく、割り引いて読む必要があるようなスタイルで書かれてはいますが、それでも文武両道に秀でた大変な人物であったことが分かります。

で、感じたことを言えば、山形市は、単なる郷土史というスタイルを越えたところで、自分達の「国」の過去の英雄・偉人の記憶を甦らせ、それを、新たな「国づくり」に役立てようとしている気配が感じられます。それは、今、地方の時代と言われ、「三位一体」で中央から地方への権限委譲が言われているのですから、時流に適っているとも言えます。また、江戸時代は幕府の地方管理の手法も巧妙だったとは思いますが、地方はそれぞれ「国」として、誇りを持って精一杯頑張っていた面もあるように思いますから、目下、起こっていることは、明治維新以来の、中央集権制指向から徐々に解放され、ヴェクトルが江戸時代の方を向き始めていると見ることもできるように思われます。それを、私は良いことだと思いますが、そのためには、歴史をもっと真剣に掘り起こす必要があるように思います。勿論、未来指向も必要ですが、それだけで、行政を分割するのは社会設計の思想の実践に過ぎないようにも見え、地方の歴史との繋がりを欠くなら、実体を伴わない、何か空しい掛け声であるような気もするからです。しかし、多くの歴史上の資料が失われてしまっており、地方の歴史の再構築も難しいようだということも、上記の本を読んで、思い知らされました。

それに、次のような問題もあるように思います。山形市は、最上家の国造りと結び付けて歴史を理解することができそうですが、同じ山形県でも、その周辺地域はもっと複雑な歴史を持っており、それを理解するのはもっと難しくなるということです。例えば、管理人様が住んでおられる置賜地方は、時代によって、上杉、伊達、最上家等の、支配もしくは争奪の地になってきたようです。とは言っても、それも細かに明らかにした上で、地方、例えば、山形県全体の歴史を、周辺地方との結びつきをも含めて理解していく必要があるでしょう。

管理人様が住んでおられる南陽市も見てみたいと思い、新幹線を赤湯で途中下車して少し眺めてきました。農業を産業の中心とする地方の小都市の典型的な姿なのかも知れないと思いました。史跡を観光の目玉としていることは、市のホームページを見ても分かります。1200年の歴史を持つという熊野大社を見てきました。確かに古いものであることが実感され、本殿の周りに、幾つもの小さな社殿を持つ姿は、出雲大社を思い出せてくれました。私が携帯した、昭文社の『まっぷる ぽけっと 山形・米沢』にも、写真入りの紹介があり、「日本三熊野のひとつに数えられる『東北の伊勢神宮』。7月の例祭では室町時代から伝えられる、稚児舞や舞楽が奉納される。境内にある樹齢約900年の大イチョウも見もの。」と記されています。ところが驚いたことに、地元にも神社にも、史跡として大事にし、観光資源として重んじるという姿勢が殆ど見られないのです。これにはガッカリ致しました。赤湯の駅から乗ったタクシーの運転手は、熊野大社に近づくと、結婚式場ですか、と尋ねました。違うと答えると、次に、社務所に付けますか訊きました。境内も何となくさびれた雰囲気で、由来や歴史を記した文書の掲示もなく、ビラも置かれていません。天然記念物の指定を受けている大イチョウには解説が付されていましたが。神社も教育委員会も何をやっているのでしょうか。1200年を記念して参道の入口に、大きな石の大鳥居を建てたのですが、何時建てたのかは付近のどこにも記されていません。大鳥居に刻まれているのは、寄進者の名前と寄進した金額だけです。そこから100メートルほどの参道の両側にもそれらしい雰囲気は殆ど見られない訳です。まるで無視されているという感じです。

単に余裕がないということではなく、考え方に問題があるように感じました。旅の終わりに、妙な光景を見て、つまらない気分で帰途に就きました。

投稿日: 2003/09/26(Fri) 11:29
投稿者: アル中流・乱暴

タイトル: 訂正と付け足し

「二の丸の堀と土手・石垣だというこを」は、「二の丸の堀と土手・石垣だということを」の誤りです。
「興味深い展示が数々ありまして、興味深く眺めてきました」は、「興味深い展示の数々をじっくりと眺めてきました」の誤りです。推敲し直そうとしたときのミスです。

一つ、単に目に入った印象的な光景に過ぎませんが付け加えます。霞城の二の丸の土手を歩いていると、内側の眼下に、勿論、新しいものですが、弓道場が現れました。一人の坊主頭の中年の男が、矢を射るところでした。固唾を呑んで見ていると、ブスッという快い音がして、的の中央を僅かに外した位置に矢が刺さっていました。お見事という感じでした。

もう一つ感想を記しますと、最上義光歴史館の前に角張った岩(自然の岩ではないかもしれません)を周りに配した池と噴水の大きなオブジェがあり、その中に裸体の女性像が二つ置かれています。これが歴史館とは何とも不似合いなのです。どちらが先に作られたのか知りませんが、そのようにしてしまったセンスを疑います。

その隣に山形美術館があり、優れた作品を数々収蔵・展示しているという情報を得ていたので覗いてきました。ミレーから始まって、フランスの印象派の絵画、更に、ルオー、ブラマンク、シャガール、ピカソなど、60余点からなる「服部コレクション」と呼ばれているものがありました。これは山形新聞・山形放送社長であった服部敬雄氏が中心となって作った財団法人の美術館で、公立のものではなく、服部氏の趣味を反映しているものです。良くこれだけ集めたものだと感心する反面、このフランスかぶれと、悪態をつきたい気にもなりました。私は、子供の頃、フランスの近代絵画を好みましたが、今見ても、余り心が動きません。中では、ピカソをやはり面白いと思って眺めてきました。もっともこの美術館には山形銀行の長谷川吉郎前会長が集めた「長谷川コレクション」もあり、こちらは与謝蕪村、谷文晁、渡辺崋山、川合玉堂等の日本の優れた絵画からなるもので、私はこれにより惹かれました。ところで、不愉快だったのは、NHKが取材・撮影に来ていて、ライトで照らし、絵の前で司会と解説者(館長でしょうか)が話すところをビデオ撮影する訳で、照明の位置が悪かったのでやり直したりして長々と続き、一般客の鑑賞を妨げていたことです。普通そういうのは、時間外にやるものだと思いますが、どういうつもりなのかと疑問に思いました。公立の美術館ならそんなことはやらせないだろうと思いますが。

投稿日: 2003/09/27(Sat) 07:19
投稿者: 管理人
タイトル: Re: 山形で出合ったこと

アル中流さんがすぐ傍まで来られていたのを知り、驚きました。今朝読んだ付け足し分も含めて蔵王温泉、山形市についてのあれこれ、知らなかったことばかりで大変参考になりました。霞城公園内にはこれまでほとんど入ったことがなかったので、今度あらためてじっくり足を踏み入れてみようという気にもなりました。それにしても、わが熊野大社をめぐる容赦ないご感想には恐れ入りました。町の空気を読み取られたような気がしています。

>単に余裕がないということではなく、考え方に問題があるように感じました。旅の終わりに、妙な光景を見て、つまらない気分で帰途に就きました。

重く受け止めています。

投稿日: 2003/09/27(Sat) 16:02
投稿者: アル中流・乱暴
タイトル: 熊野大社について、くどいようですが、もう一言

管理人様

>それにしても、わが熊野大社をめぐる容赦ないご感想には恐れ入りました。町の空気を読み取られたような気がしています。

ちょっと口、いや、筆、いや、キーボードが軽すぎたかもしれません。長い歴史を持つ神社は先祖代々、日本人の心が通う場所であった筈ですし、熊野大社は日本国内に3000以上あると言われる熊野神社を代表する神社であるという思いから、辛口になってしまいました。

私が小学生の頃2年ほど過ごした東京都新宿区十二社(じゅうにそう)(現在は西新宿2丁目)にも熊野神社があり、ときどきその境内で遊びました。ここは600年の歴史を持っているようです。そばに淀橋浄水場という東京の水瓶がありましたが、これが移転したため、跡地が新宿副都心になり、昔の面影は今まるでありません。でも、熊野神社は新宿中央公園の片隅に、良く整備された形で残っています。

私が現在住んでいる所からほど遠からぬ板橋区熊野町(昔は板橋3丁目だったそうです)の、山手通りと川越街道が交わる交差点の北西の角に、小さな熊野神社があります。ここの歴史も600年だそうです。重要文化財がある訳ではありませんが、板橋区教育委員会が札を立ててその歴史を説明しています。その狭い境内の端に。戦没者の碑が建てられています。旧板橋3丁目の住人で、支那事変から大東亜戦争にかけて戦死された方々を慰霊し、記憶を後世に伝えるために作られたものです。大きな石にきざまれた碑文は、久邇宮朝融殿下の御手によるもので、昭和32年3月3日の除幕式には、同殿下も参列されたとのことです。

ネット上で調べて見ましたが、南陽市役所は市のホームページの中に熊野大社を紹介するかなり詳しいページを設けています。

http://www.city.nanyo.yamagata.jp/WEBS/SEEING/KUMaNO/TOP.HTM

そして、南陽市は熊野門前町景観整備を平成11年から12年に掛けて行ったことも分かりました。      http://www.city.nanyo.yamagata.jp/WEBS/SUBJECT/Tosiseibi/keikan/001.htm

整備以前の写真もアップされていますが、それと見比べれば、現在の光景は随分良くなっていると思います。市が一所懸命やっているのは評価できますが、問題は地域住民と神社の意識にあるような気がします。

熊野大社については、ネット上に、4ページも使って紹介しているものがあります。こういう熱心なファンもいる訳です。

http://www.mikumano.net/zenkoku/yamahama/yamagata/nanyou01.html

これには、「パンフレット」よりと注された紹介文があります。ことによると、熊野大社で作られたものがあったのかもしれません。私の目につきませんでしたが。拝殿と向き合って、お札、お守り等を売る広い窓口を持った建物がありますが、ガラス戸を皆閉めていました。寒い季節に締め切るのは分かりますが、私が参拝したときには、小雨こそ降っていましたが、寒い訳はなく、これでは、気軽に声を掛けてみる気にもなりませんし、第一「売れ行き」に響くと考えざるをえません。それに位置が悪いと思います。窓口の方を向くと、拝殿に背を向けることになりますから。江戸時代の絵を見るとその位置に建物はありません。貴重なものでも何でもないので、あれは撤去して、もっと小さなものでも別の所に設けた方が良いと思います。正月等、参拝客が多いときには、どこでもやっているように、仮小屋を作れば済むことです。余計なお世話を、つい、記してしまいました。

投稿日: 2003/09/29(Mon) 08:07
投稿者: 管理人
タイトル: Re: 熊野大社について、くどいようですが、もう一言

アル中流様、重ねてありがとうございます。

>>それにしても、わが熊野大社をめぐる容赦ないご感想には恐れ入りました。町の空気を読み取られたような気がしています。
>
>
>ちょっと口、いや、筆、いや、キーボードが軽すぎたかもしれません。長い歴史を持つ神社は先祖代々、日本人の心が通う場所であった筈ですし、熊野大社は日本国内に3000以上あると言われる熊野神社を代表する神社であるという思いから、辛口になってしまいました。

実はいつから「大社」と言うようになったのか定かでありません。先代宮司が今も語り草の傑物で、戦前まだ鉄道を使った団体旅行などなかった時代に近隣から始まって東北や北関東の各駅に参宮団体を募集して回り、衰退していた神社を一気に盛り上げたという歴史があります。その参宮の目玉にしたのが、宮司が皇學館出身であったことから伊勢神宮から直伝していただいた大々神楽。そこから宣伝コピー「東北の伊勢」が生まれたわけです。「大社」と言うようになったのもその先代宮司の営業政策だったようにも思えます。そんなわけで、私には「熊野大社」というのも「東北の伊勢」というのもちょっと気が引けるところがあるのです。といって、それ以下に考えているかと言うとそうではなく、それ以上かもしれないように考えているところもあります。妄想と笑われるかもしれませんが、10年ぐらい前書いたものをアップしておきますので読んでみてください。

   *   *   *   *   *

●祭りの本義

 本年の熊野大社例大祭は一、一八八回目であった。一、一八八年という、幾千幾万の祖先のこの土地への思いの深さがこめられている途方もない歴史に対しあたうかぎり謙虚にならねばと思いつつ、目先の損得勘定にばかり振り回されがちな現代のわれわれを圧倒する重さがこの数字にはある。せめて五十年百年ぐらいの単位で物事を考えたいという気持ちが起きてくる。
 祭りとは何か。戦後日本人の祭りに対する認識には大きな変化があった。
 昭和十六年発行の広辞林によると、「祭」は「神に奉仕してその霊威を慰め又は祈祷、祓禳、報賽のために行う儀式の総称とのみある。平成五年の新明解国語辞典ではどうか。「①神霊に奉仕して、霊を慰めたり祈ったりする儀式。また、その時に行う行事。②記念・祝賀などのために行う行事。〔広義では、商店がある時期に行う特売宣伝をも指す。〕」
 ふるさとまつり、健康まつり、さくらまつり、菊まつり・・・これらから「神への奉仕云々」を連想するのはもはや不可能である。祭りから連想されるのは先ずもって「賑わい」であり、したがって現代における祭りの成否は、ひとえに賑やかさの如何にかかっているといっても言い過ぎではない。そこでは祭りは、かつてそれ自体が目的であつた本来の意味は背景へと押しやられ、国語辞典の広義に挙げられるがごとく、往々にして経済効果を第一義とする手段にまでもおとしめられてしまったのである。すなわち、祖先への敬意もまたそれに連なる神霊への畏敬も、祭りを盛り上げる単なる道具立てのひとつに過ぎないとする本末転倒が時代を制しつつあるかに見える。いずれ将来、辞書においても第一義と第二義との交代がないとも限らない。
 いったいこれはどういうことなのか。この流れにそのまま身を委せていいのだろうか。
 思えば、戦後日本の思想界の主流ともなり、何よりも公教育の現場でわれわれにたたき込まれることになったいわゆるヒューマニズムなるものが祭りの本義とは相容れないものなのではなかったか.
 ヒューマニズムあるいは人間中心主義と言えばややもするときれいごとに彩られて聞こえはいいが、言ってしまえば「今生きている我れが第一」の個人主義思想。まずは「我れ」があつての物種、我れ以外の一切は常に第二義、極論すれば先祖から子孫までをも含めた他者のすべて、さらに自然存在のすべてを我れにとっての手段にまで貶めて恥じることなき、日本古来の感覚からすれば実にうとましくもおぞましき唾棄されてしかるべき感性に立脚するところの考え方ではなかったか。他者との、自然との、ひいては神々との心の通じあい、心の融和交流をもって本義とする祭りとは相容れようもなかったのである。
 たかだか二、三百年、貨幣経済の伸展に歩調を合わせていまや世界を凌駕しつつある西洋に端を発した外来近代思想に、太古以来万世に及んで脈々と伝えられてきた祭り本来の意義を絡めとられてしまうようなことがあっては決してならないのである。このことは祭りを考える際の基本である。

●われわれにとっての熊野大社

 産土(うぶすな)の神の霊(みたま)のなかりせばひとの産業(なりはひ)いかにかもせむ
 何神も吾産土の神祭り祭りて後に祭るべきもの
 前の世もこの世も後の世のことも産土神ぞ主宰(つかさど)ります
 産土は眼に見ゆる神産土は耳に聞く神信(たの)め世の人
 産土の神許(みゆるし)ありて天地(あめつち)の神は諾(うべな)ひ給ふべき也
                              (本田親徳 産土百首より)

 日本人を日本人たらしめるゆえんはなにか。それはまずもつて生まれた土地、今住む土地への思いの深さであろう。その思いは産土信仰と表裏一体をなすものであり、それこそが祭りを支える精神的基盤である。産土の神様はその土地土地にゆかりある人の生死を含めたすべてを主宰守護しておられ、その土地毎の祭りはそのことへの年に一度の感謝の場であり、また神人和融をあらためて確認する機会でもある。
 産土信仰はその土地土地の神様への全幅の信頼の上に成り立っている。祷らずとても神や守らん、神の道は言挙げせぬ道、さかしらなる知恵の介在の余地はない。自他の区別を超えた融和の感覚こそが始まりでもあり終わりでもあり全てである。それは身の回りから全宇宙へと及んでゆく。現在から悠久の過去未来へと及んでゆく。そのための型代(かたしろ)としての社(やしろ)である。われわれは熊野大社という名実ともに秀れた神社を産土神社とすることを誇らしく思う。

●熊野大社とは

 大津家に伝わる熊野神社縁起によると、当社は「大同二年、紀州熊野郡有馬村峯ノ神社ヲ遷シ玉フ」とある。そして実は、この有馬村こそは熊野信仰にとっての一大聖地なのである。では一体、その地の神社をはるかこの陸奥に遷すとはどういうわけがあったのか.古事記、日本書紀の原典ともされ、熊野信仰についての言及も多く近年研究の進展著しい「ほつまつたゑ(秀真伝)」に即してひとつの仮説を提示してみたい。

一書に日く、伊奘冉尊(いざなみのみこと)火の神を生みたまひし時に、灼かへて神去りましき。故、紀伊の国の熊野の有馬の村に葬めまつりき。土俗(くにひと)この神の魂を祭るには、花ある時には花以ちて祭り、また鼓吹幡旗用ちて、歌ひ舞ひて祭る。(「日本書紀」巻一)

 イサナミは 有馬に納む 花と穂の 時に祀りて ココリ姫 族(やから)に告ぐる. (「ほつまつたゑ」五紋)

 現在、和歌山県熊野市有馬には洞穴を含む一大巌塊を御神体とする花の窟(いわや)神社があり、御祭神として伊奘冉尊、併せて伊奘冉尊が亡くなる原因となった火の神様軻遇突智神(かぐつちのかみ)が祀られており、日本書紀の記述からこここそが伊奘冉尊がお隠れになつた場所であり御陵の地であるとされている。しかし古事記には「神避りし伊邪那美神は出雲の国と伯耆の国との境の比婆山に葬りき」とあることから古来紀州出雲両地の関係が種々論議されてきた。ところが、日本書紀成立の養老四年(702)をさらに六百年も遡る景行天皇の時代(126年)に天皇に奉呈されたとされる「ほつまつたゑ」に「イサナミは有馬に納む」とあることによって有馬は、熊野信仰の最重要聖地としてあらためて脚光を浴びつつあるのである。
 熊野信仰はこれまで、いわゆる熊野三山・熊野三所権現、すなわち現在の本宮・新宮・那智へと向った中世院政期上皇方による熊野御幸や庶民の熊野詣を中心に、神仏混交的観点からのみ論じられてきた。しかしなぜ中世の人々が、幾多の困難を圧しての熊野詣へと駆り立てられることになったかについての明解な理解は見いだされてはいなかった。「熊野詣はいまもって歴史の謎であり、宗教の謎でもある」(豊島修「死の国・熊野」講談社現代新書)とされてきたのである。しかるに以下に述べるように「ほつまつたゑ」によってわれわれは熊野信仰の淵源を知るに至り、そのことでおのずと熊野信仰の持つ意味が明らかになってきた。

 スサ国に生む スサノオは 常に雄叫び 泣きいざち 国民(くにたみ)挫く イサナミは 世の隈(くま)なすも わが汚穢(おえ)と 民の汚穢、隈 身に受けて 守らんための 隈の宮。(「ほつまつたゑ」三紋)

<現代語訳(鳥居礼「完訳秀真伝上」八幡書店)>
 素盞の国(熊野)にてお生みになつた素盞鳴尊(すさのおのみこと)は、伊奘冉尊が月の汚血(おけ)のときにはらまれた御子であつたため、常に荒々しい叫び声をあげ、泣きわめいて人々を困らせていた。伊奘冉尊は、素盞鳴尊が世の隈となっているのも、もとはといえば、月の汚血にはらんだわが身の過ちであると思召しになり、民の汚穢隈を御みずからの身に受け、民を守ろうと熊野宮(隈の宮)をお建てになった。

 「ほつまつたゑ」の発見者でその研究に心血を注ぐ松本善之助氏は、世の中の禍を全部一身に受けて国民を守るために熊野宮を建てたイサナミノ神は大乗心の権化であり、その贖罪の精神はイエス・キリストに比されると言う。そして、仏教導入と共に、大慈大悲にして地獄の苦悩を救う千手観音がイサナミノ神に当てられたのももっともであるとされるのである。思えばわが熊野大社にも、明治の排仏棄釈によって仏の一掃が図られたにもかかわらず、なぜか千手観音のみは頑として鎮座在すのは、神様の御計らいとして故のあることなのであろう。
                      
 さて、かくのごとく紀州熊野有馬の地に淵源を持つ熊野信仰、その地にあつた神社が遠く陸奥のこの地に遷座され、そしてそれが熊野神社として、1200年にわたって信仰を集めてきたその所以は何なのかということになる。
 
 「ほつまつたゑ」によれば、当時の日高見の国、すなわち仙台多賀城を中心にしたこの東北地方こそが日本の中心であった。そしてイサナミノ神とは代々東北を治めてきたタカミムスピノ神の五代目にあたるトヨケ神の娘であった。つまりイサナミノ神のふるさとはこの東北なのである。
 そもそもイサナミの父トヨケ神とは今の伊勢外宮の御祭神豊受大神である。晩年裏日本の乱を鎮めるため東北から丹後宮津に出向き、今も元伊勢の地名の残るその地で崩御、その後東北の何処かに祀られたと「ほつまつたゑ」には記されている。そこで松本氏は、トヨケ神の御本霊が祀られたその有力候補地は出羽三山ではなかったかと考えておられる。というのは、今から1400年前、崇峻天皇の第三皇子蜂子皇子が出羽三山を開山したのは、古来豊受大神と同神とされる倉稲魂神(うがのみたまのかみ)の導きによってであると伝えられるからである。つまり、蜂子皇子による三山開山以前に豊受大神はその地に祀られていたことになる。このことからトヨケ神の娘であるイサナミも、その御霊代はふるさと陸奥に帰っていると考えることはできまいか。そしてその地が他ならぬわが熊野大社であると考えることはできまいか。紀州熊野有馬村峯ノ神社ヲ遷シ玉フ。実にこの一文は、熊野大社が伊奘冉尊の御本霊の鎮まり賜う場所であることを告げているのだ、と。
 荒唐無稽、誇大妄想と思われるだろうか。実はこのことを納得するには、熊野大社のある場所が、人知を超えたとしか言い様のない精緻に計算され尽くした位置にあることを知らねばならない。

   *   *   *   *   *

で、ここから例の神社と山岳配置の不思議http://bbs1.parks.jp/11/newtext/bbs.cgi?Action=kiji&Base=5561&Fx=0につなげるはずだったのです。

投稿日: 2003/10/01(Wed) 10:58
投稿者: アル中流・乱暴
タイトル: イサナミの謎など、面白いですね

先代宮司殿が取られた行動の話、大変興味深く読ませて頂きました。活気を失ったのは戦後のことではないかと思っていましたので、意外という印象もあります。でも、神社の周囲に漂う、妙に冷たい空気には、もっと古い歴史的背景があると考えると納得できる部分もあります。あれほどの由緒を持つ神社がなぜ衰退していたのか、そのことを今度は謎と感じざるをえません。

管理人様がお書きになったエセー、とても面白く読ませて頂きました。私も、古代史・超古代史に強い関心を持つ者の一人です。与えて頂いた情報が今後私の頭の中でどういう考えに結び着いていくのか、まだ全く予測できませんが、例えば、素盞鳴尊は、長い間何だろうと考えてきた神格の一つでもあり、フーンと考え込んでしまう面もあります。「ほつまつたゑ」は、真贋問題もありますが、その解釈が大変難しいということもあって、等閑にしてきてきました。今、本が入手し難いということもあります。紹介して頂いたものによれば、「熊野」の語源は「隈」ということになる訳です。本居宣長は「古事記伝」で「隠り」を語源としているそうですが、両者が語源的に繋がるのかどうかも含めて問題として頭の隈ではなく、隅に置いておきたいと思っています。「イサナミは 世の隈(くま)なすも わが汚穢(おえ)と 民の汚穢、隈 身に受けて 守らんための 隈の宮」と関連すると思いますが、「熊野の神は浄不浄をきらはず」受け入れるということに関して、和泉式部に纏わる話が、下のサイトに紹介されています。 http://www.mikumano.net/setsuwa/fusiogami.html


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