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言葉への向き合い方は、人と人との関係に似ている。(若松英輔) [若松英輔]

若松英輔さんの日経連載「言葉のちから」。12月16日言葉を練り磨く〜マラルメ「詩の危機」」。

《言葉はなるべく丁寧に用いた方がよい。不要に用いられた言葉一つでも、世のなかを大きく動かすことがあるからだ。そんな現実を私たちは日々、日常生活だけでなく、政治や経済の世界でも目撃している。/丁寧に用いるためには、言葉との関係を丁寧に築き上げていかなくてはならない。事情は人と人の関係に似ている。利得で結びついた関係は、利得が無くなれば終わる。だが繊細に深められた関係は、危機においてこそ、いっそう強固なものになっていく。》

言葉を記号だと思っているあいだは練磨することはできない。だが、言葉の本質が、不可視な意味であることを実感すれば、練磨せずに言葉を用いることの方がかえって怖くなる。

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言葉を練り磨く〜マラルメ「詩の危機」 若松英輔

イラスト・西 淑

言葉はなるべく丁寧に用いた方がよい。不要に用いられた言葉一つでも、世のなかを大きく動かすことがあるからだ。そんな現実を私たちは日々、日常生活だけでなく、政治や経済の世界でも目撃している。

丁寧に用いるためには、言葉との関係を丁寧に築き上げていかなくてはならない。事情は人と人の関係に似ている。利得で結びついた関係は、利得が無くなれば終わる。だが繊細に深められた関係は、危機においてこそ、いっそう強固なものになっていく。

現代人は語彙を増やして表現力を高めようとする。語彙力が足りないから文章が苦手だという人もいるが、どちらも言葉との関係をいかに広げようかと苦心している点においては変わらない。語彙は多くてもよい。しかし、本当のことを語ろうとするとき問題は、語彙力とは別なところにある。

どう読むかという方法よりも「読む」とは何かを考える。どう書くのではなく、「書く」とは何かをまず考える。そして「読む」と「書く」を呼吸的に行う。そんな風変りな講座を行うようになってから十年の歳月が過ぎた。

精確に数えたことはないが、その間に市井の人の書いた文章を少なく見積もっても一万篇は読み、添削をしてきた。その経験が教えてくれたのは、文章の本質を決定するのは豊富な語彙力ではなく、言葉との関係の深さだという素朴な事実だった。

もちろん、語彙力がまったく必要ないというのではない。ただ、たとえば宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を理解できる語彙が備わっていれば不足はない。問題は、あの一文を読んで「雨」とは何かを感じ直してみるちからなのである。問われるべきは語彙力とは質を異にする「言葉のちから」なのである。たった一つの言葉であっても深甚な関係を持つ人の語る言葉、書く文章は、それを受け取る者の胸を貫く。

言葉と自分との関係を顧みるのは難しいことではない。言葉とどのような動詞をつなぐかを試してみるとよい。読むと書くは別にしても、言葉を「使う」という人は多いだろう。講演などで訊ねてみるとじつに多様な動詞に遭遇する。「つむぐ」「失う」という人もいる。「添える」「味わう」という人もいる。詩を書くようになってから言葉は、世にただ一つの贈り物になった。言葉を贈るという表現は私のなかでとても大切な語感を持っている。

今、言葉をめぐる仕事を生業(なりわい)にするようになって、そこに付す動詞にも変化が出て来た。言葉は、まず育むものであり、練り、そして磨くものとなっている。

練磨という言葉がある。文字通り、練り、磨くことだが、百戦錬磨というように練り、磨かれるのは、具体的な事物ではなく、私たちの心であり、さらにその奥にある、河合隼雄の表現を借りれば「たましい」と呼ぶべきものである。

言葉を記号だと思っているあいだは練磨することはできない。だが、言葉の本質が、不可視な意味であることを実感すれば、練磨せずに言葉を用いることの方がかえって怖くなる。

その人のなかで練られ、磨かれた言葉は、そうではない言葉とは異なるちからを有する。ある人物、たとえばある詩人が、素朴な言葉を発する。すると、世の人がそれを用いるのとはまったく違った輝きと威力をもって私たちの胸を突き抜けることがある。哲学者の井筒俊彦が主著『意識と本質』で、十九世紀フランスを代表する詩人ステファン・マラルメの「詩の危機」にある次のような一節を引いている。

「私が花! と言う。すると、私の声が、いかなる輪廓(りんかく)をもその中に払拭し去ってしまう忘却の彼方(かなた)に、我々が日頃狎(な)れ親しんでいる花とは全く別の何かとして、どの花束にも不在の、馥郁(ふくいく)たる花のイデーそのものが、音楽的に立ち現われてくる」。

「花」という言葉には、地球の生誕から終末まで、この世に立ち現れるすべての花が含意されている。そればかりか、私の内面に咲く悲しみの花、よろこびの花と呼ぶべき不可視な存在までも意味として包み込んでいる。詩人が詩に「花」という言葉を置く。それは時代的、文化的制約を解き放ち、言葉そのものに宿っているエネルギーを開放しようとする試みとなる。

「音楽的」という表現も見過ごすことはできない。目に見えないが実在し、律動を伴い、調べを有するもの、そして、知性を飛び越え、私たちの存在の深みを揺り動かすもの、それが言葉の本質だと、この詩人はいうのである。


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横山仁

若松英輔さんの日経連載「言葉のちから」、たのしみにしています。
by 横山仁 (2023-12-21 06:54) 

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