黒江太郎宛茂吉書簡発見(山形新聞) [宮内]
今朝の山形新聞です。黒江太郎と茂吉との関係があらためてわかります。黒江哲郎さんのところでの発見です。(全集には収録済み。黒江太郎さんが弟の三郎さんに渡していたものです。)
宮内小創立百五十周年記念誌に用意した原稿です。↓
* * * * *
斎藤茂吉がすっかり心を許していた黒江太郎(1910-1979)
地域の文化や歴史は、記録されることで後世に伝えられます。宮内においてとりわけ大きな役割を果たしたのが黒江太郎でした。昭和 37 年には「宮内文化史研究会」を結成。「宮内文化史資料」を 30 集まで出しつづけ、その間に 40 年「宮内町の文化財」を、51 年「宮内熊野大社史」なども出版しました。いずれも宮内の歴史、文化を語る上で欠かせない貴重な資料です。
黒江の業績は、宮内という一地方レベルにとどまらず、幸田露伴の高弟漆山又四郎や、若き斎藤茂吉を導いた佐原窿応和尚の著書は、文学史的に高い評価を受けています。
黒江太郎は、小学4?年の担任田島賢亮先生によって文学への想いが植えつけられることになりました。とりわけ斎藤茂吉への敬慕の思いは深く、「赤光」全 832 首を暗記したほどでした。
昭和7年日本歯科医学専門学校を卒業後、仲の丁で歯科医院を開業。戦後は宮内小の歯科校医も長く務めていただきました。 20 年 10 月には上山市金瓶に疎開中の斎藤茂吉を訪問し、以来 2 年にわたり親しく指導を受けます。食糧難の時代の茂吉に尽くしたことで 茂吉からもたいへん愛されました。疎開先が大石田ではなく、宮内になる可能性もあったといわれます。
茂吉は、黒江との縁で2回宮内を訪れています。
茂吉は、最初の訪問時のことを日記にこう記しています。
《(昭和二十二年1947)五月十七日、土曜、ハレ、クモリ、・・・ (上山駅で)一時五分汽車が来タノデソレニ乗リ、赤湯デ降リタ。 結城哀草果、西村モ同車デアッタ。 徒歩ニテ宮内町ノ黒江太郎方二著イタ。 ○ソノ夜、女流ノ骨折ニテ鯉ヲ主二シタ イロイロノ料理ガ出タ、酒、ぶだう酒、 ○黒江氏の蔵ニ臥、入浴》
この時の会話の様子を黒江が記録しています。
《先生は目をつむって、「いい歌作ったす。 『道のべに蓖麻(ヒマ)の花咲きたりしこと何か罪深き感じのごとく』、 どうだ、『何か罪ふかき感じのごとく』はいいだらう。 それからこんな歌も作った。 『少年の心は清く何事もいやいやながら為ることぞなき』、 何事もだぞ。 『いやいやながら』はいいだろう。 こんなあたりまへの事だって、苦労して苦労して作ったものだ。 苦労した歌はいい。」と仰言った。 「おれは天下の茂吉だからな。」 先生は一段と身をそらして、恰(あたか)も殿さまのやうに 両肱(ひじ)を左右に張って見得をきった。 》
茂吉は、黒江の前では素(す)のままにふるまったのでした。
5月18日には、蓬萊院で宮内アララギ会38名が参会 して歌会が催されました。昼食はその場で打った蕎麦。「先生は大へん賞美され、三杯も召上った。」とあります。
地域の文化や歴史は、記録されることで後世に伝えられます。宮内においてとりわけ大きな役割を果たしたのが黒江太郎でした。昭和 37 年には「宮内文化史研究会」を結成。「宮内文化史資料」を 30 集まで出しつづけ、その間に 40 年「宮内町の文化財」を、51 年「宮内熊野大社史」なども出版しました。いずれも宮内の歴史、文化を語る上で欠かせない貴重な資料です。
黒江の業績は、宮内という一地方レベルにとどまらず、幸田露伴の高弟漆山又四郎や、若き斎藤茂吉を導いた佐原窿応和尚の著書は、文学史的に高い評価を受けています。
黒江太郎は、小学4?年の担任田島賢亮先生によって文学への想いが植えつけられることになりました。とりわけ斎藤茂吉への敬慕の思いは深く、「赤光」全 832 首を暗記したほどでした。
昭和7年日本歯科医学専門学校を卒業後、仲の丁で歯科医院を開業。戦後は宮内小の歯科校医も長く務めていただきました。 20 年 10 月には上山市金瓶に疎開中の斎藤茂吉を訪問し、以来 2 年にわたり親しく指導を受けます。食糧難の時代の茂吉に尽くしたことで 茂吉からもたいへん愛されました。疎開先が大石田ではなく、宮内になる可能性もあったといわれます。
茂吉は、黒江との縁で2回宮内を訪れています。
茂吉は、最初の訪問時のことを日記にこう記しています。
《(昭和二十二年1947)五月十七日、土曜、ハレ、クモリ、・・・ (上山駅で)一時五分汽車が来タノデソレニ乗リ、赤湯デ降リタ。 結城哀草果、西村モ同車デアッタ。 徒歩ニテ宮内町ノ黒江太郎方二著イタ。 ○ソノ夜、女流ノ骨折ニテ鯉ヲ主二シタ イロイロノ料理ガ出タ、酒、ぶだう酒、 ○黒江氏の蔵ニ臥、入浴》
この時の会話の様子を黒江が記録しています。
《先生は目をつむって、「いい歌作ったす。 『道のべに蓖麻(ヒマ)の花咲きたりしこと何か罪深き感じのごとく』、 どうだ、『何か罪ふかき感じのごとく』はいいだらう。 それからこんな歌も作った。 『少年の心は清く何事もいやいやながら為ることぞなき』、 何事もだぞ。 『いやいやながら』はいいだろう。 こんなあたりまへの事だって、苦労して苦労して作ったものだ。 苦労した歌はいい。」と仰言った。 「おれは天下の茂吉だからな。」 先生は一段と身をそらして、恰(あたか)も殿さまのやうに 両肱(ひじ)を左右に張って見得をきった。 》
茂吉は、黒江の前では素(す)のままにふるまったのでした。
5月18日には、蓬萊院で宮内アララギ会38名が参会 して歌会が催されました。昼食はその場で打った蕎麦。「先生は大へん賞美され、三杯も召上った。」とあります。
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