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I さんからNさんへの手紙 [若松英輔]

親しい人に速達で届いたある方からの手紙を紹介したい。昨日預かった。一読ここに書き留めておきたいと思った。お二人から諒解は得ているのではないが赦していただけると思う。

*   *   *   *   *

拝啓
 私が庄野潤三の本を読むようになったのは、昭和五十一年朝日新聞の広告で、庄野潤三作『鍛冶屋(かじや)の馬』という書名に惹かれて、これを入手して読んだのです。
 話の順序がわるくなりますが、庄野潤三は、大阪の住吉(すみよし)中学で伊東静雄に国語を教わりました。伊東静雄は、大阪で無名の詩人でしたが、東京では名の知れた詩人でした。やがて、庄野が作家を志したとき、伊東静雄は、平明なことばで深い考えを表現するのは、すぐれた文学であるとさとしたのです。右の「鍛冶屋の馬」は、私は今まで五回読み返しました。本当にすぐれた文学書は、何度読み返してもあきません。
 この小説は、幼稚園へ行く前の五歳くらいの子供がいる店子(たなこ)の親子の交流を主題にしています。この借家には六世帯の家族が暮らしています。そしてこのうち「和子」はこの小説の主人公です。つまりこれは庄野の長女です。和子はあるとき蛇(へび)の話をします。その一節を援用しましょう。

  だから和子、蛇は神様というから殺さない方がいいわ。それに大家さんは
  農家の人だから、蛇を殺さない。蛇はおとなしくて、決して人に向かわな
  い。もし蛇がこわければ、たか子ちゃんのようにたばこのすいがらをまい
  ておけばいいのよ。  

 これを読むと、和子は、蛇を慈しんでいることがわかります。つまり作者は、蛇を慈しんでいると読者は考えます。私の知るかぎり、このような 慈愛というよりも「慈悲」を考えるのは、実に貴とい考え方であると思って、深い感銘を受けたのです。私は「愛」などより「慈悲」を貴く思うように成りました。
 伊東静雄は、平明な言葉で深い考えを表現することが大切なのだと、若き庄野潤三にさとしたのです。

 そして伊藤は、一篇の詩を書きあげたとき、二じょうの書斎で、庄野にこれを朗読しました。この二じょうの書斎は、ことばの本質的な意味で「あわれ」です。

 後年庄野は、仏壇は買わずに、ピアノの上に両親の写真や人からいただいた菓子や果物をそなえて暮らしました。
 『鍛冶屋の馬』をつい昨日読み返して、蛇に対する作者の考えはどんなにほめたたえてもほめすぎではないと、しみじみ思いました。

 あなたはお手紙で「文学がわからない」とおっしゃっています。
 それに対してわたしに言えることは、努めて名作に親しんで、心を豊かにしていただきたいと思っています。俳句は近ごろは詠(よ)まないのでしょうか。それができたときは、ご披露下さい。
 今日はこれでペンを措きます。

不一

     七月十四日

*   *   *   *   *

書き写しつつ、意識が頭から胸のあたりにすーっと降りてきたような気がする。

この手紙を書かれたIさんは80歳を過ぎ、新潟県の高齢者施設で過ごしておられる。受け取ったNさんは昭和19年生。IさんとNさんは、学生時代、東京在住の時からの友人で、数年前からおびただしい数の手紙での交流が始まった。Nさんには神道天行居の月例祭に来ていただいているのだが、直会の席でいつだったか、若松英輔さんが東京に出る前、わざわざ特急列車で2時間もかかる英語の先生のところに通っていたということを若松さんの本で知っていて、吉本隆明と今氏乙治の関係を思いつつ、その先生というのはどういう人なんだろうとかねがね思っていたのだが、その人と目の前のNさんがごく親しく交流していると聞いて、ほんとうにほんとうに驚いた。その後、Nさんの奥さんがきちんと整理された箱いっぱいの手紙をあずかって、神棚の横においてある。まだごく一部しか読んではいないが、いずれなんらかのかたちで紹介する責を感じていたところへ、昨日この手紙を預かったのだった。あらためて今朝読んで書き写した。庄野潤三の師として伊東静雄が登場したのにも何か言い知れぬ縁を思わされた。→「『神やぶれたまはず』再々読(7)」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2022-05-17-5

折も折、マドモアゼル愛さんの最新動画がよかった。→「次の時代のたったひとつの可能性」https://www.youtube.com/watch?v=BqLGMdCRpqI
あらためて熊野秀彦先生の言葉。
《「人は自己の真十日神身の明確な自覚に基づかぬ場合、その祈願は汚濁を免れず単なる顕在意識による高次世界への、低次元の要請となり、時として魄特有の勝佐備(かちさび)の気線も含まれて、敬虔な霊的営みとしては受容されぬ宿命をもつものであります。」/「魄特有の勝佐備の気線」が世の中を覆い暗闇にしてきました。しかし、多くによってこのことが自覚されつつあります。自覚とは相対化の謂いです。光は見えています。》(「熊野霊学(2) 宗教行為の根源https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2012-10-08



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