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「ミチクサ先生」(伊集院静) [本]

福山小夜364.jpg新聞小説はそんなに読む方ではないのだが、日経の「ミチクサ先生」はいつの間にかすっかり嵌ってしまっていた。昨日最終回だったのでメモしておきたくなった。

ずっと遠くにあった夏目漱石という人が生き返った。こうしてこの小説ができたんだ、というのがリアルタイムのように納得できた。小説世界とは別次元の夏目漱石の実像が私の中で定着した。挿絵も、最初の頃は「なんだかなあ」という感じだったのだが、とびきり美しく描かれた鏡子夫人登場から輝きだした。評判がよかったのだろう。女性の絵が多くなった。挿絵も楽しみになっていた。

作者が渾身の力を込めたと思われる回があった。この回が描きたくて書き始めたのではなかったかと、私には思われた。日経デジタル版からコピーさせていただきます ↓

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伊集院静「ミチクサ先生」(391)
2021年7月8日
福山小夜 画

雛子に続き、池辺三山が突然に逝った。

大切な人の死が続いた。

明治四十五年七月二十日、天皇重篤の号外が東京の町々に舞った。七月三十日午前零時過ぎ、天皇が心臓麻痺(まひ)にて崩御。

金之助は天皇の死去の報を聞き、この年の六月、靖国神社の能楽堂で、その顔を見ることになった陛下と、もう一人の男の顔がよみがえった。

もう一人の男とは、乃木希典であった。

金之助は正岡子規を通じて、この二人をずっと見続けていた。子規は天皇を敬愛し、その臣下の中の乃木希典を尊敬していた。軍人を好むことのない金之助に対し、子規は乃木の業績、人柄を常に賞讃していた。天皇が帝国大学の卒業式に臨席するようになったと知ると、子規は復学したがり、「無事に帝国大学を卒業して、その式で陛下の尊顔を拝めないのが、唯一の慙愧(ざんき)なり」と大粒の涙を零(こぼ)したほどだった。

明治天皇は嘉永五年(一八五二年)、孝明天皇の第二皇子として誕生し、幼名に祐宮(さちのみや)を賜り、親王宣下で睦仁(むつひと)の諱名(いみな)を得た。孝明天皇の崩御の後、第百二十二代の天皇となった。攘夷(じょうい)派の象徴として仰がれ、江戸、明治のふたつの時代を生きた。大政奉還を受けて新政府樹立を宣言し、六百八十年の武家政権に終止符を打ち、王政復古の大号令の下に戊辰戦争を乗り越え、江戸開城から東京遷都を果たした。天皇親政に切り替え、近代国家の君主として新しい立憲国家形成をはじめた。勅諭で征韓論を収めたのち、士族の反乱から始まり日本史上で最後の内戦となった西南戦争を鎮圧した。陸海軍を天皇の軍隊とし、自ら統率する国家の体制を確立した。

睦仁親王の時代から聡明(そうめい)であった明治天皇の波乱の歩みと、実に並走するがごとくに天皇のために死線を生きた軍人が乃木希典であった。

乃木希典は西南戦争に連隊を率いて出陣した。

この戦いで乃木は軍旗を奪われるという大失態をし、自死をはかった。日露戦争でも多くの兵を死なせたことを天皇に詫(わ)び、死んで責任を取りたいと希望したが、これを聞いた明治天皇からたしなめられた。日清、日露という二つの戦争を生きた二人の運命のごとき関係の帰結だった。

「乃木を死なせてはならぬ」

天皇の言葉がまことしやかに国民に伝わった。

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対極に井上ひさしが在ったことが、同郷人として辛い。→「長白山行(2)二百三高地」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-08-02-2


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めい

国際派日本人養成講座LIVE『“和の国”の教育 編』
「乃木希典」
https://in.powergame.jp/isknea_2107?cap=HS1

by めい (2021-07-23 08:10) 

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