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新・mespesadoさん講義(50)安倍総理再々登板? [mespesado理論]

ベーシックインカムに惹かれるのは、「オカネ感覚」からの解放が実現できるからです。「お宝鑑定団」は好きな番組ですが、オカネに換算してはじめてモノの価値に納得するという、まさに現代人が嵌ってしまった本末転倒を象徴する番組です。ベーシックインカムはモノ自体の価値に立ち帰らせてくれるのです。
ナショナリズムとグローバリズムの行ったり来たり、では今の日本はどこにあるのか。深田萌絵さんの立ち位置なども思いあわせつつ、放知技板、飯山師生前の懐かしくも重要な議論を発掘しました。→「いま日本はどういう方向に向かいつつあるか」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-02-07 安倍総理再々登板を期待しなければならないのでしょうか。
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393:mespesado :2021/07/22 (Thu) 13:50:08
 グローバリズムvsナショナリズムの対立が経済問題の本質でないのなら、じゃあ何が本質か。ツイッターで「のらねこま」の名前で呟いている方のブログ↓
ネコでもわかる経済問題
https://noranekoma.blogspot.com

> おカネを有難がって、おカネに振り回されるのは人間だけ。経済の本質
> はおカネではない。大切なのは生活に必要なモノであって、おカネが幾
> らあってもモノが無ければ人は不幸になる。そこを原点に経済のあるべ
> き姿を見つめ直してみたいと思います。

と前口上に書かれていて、いつも私が主張していることと同じなので、注視しているのですが、その中の最新エントリー:
縄文の栗林とベーシックインカムの共通性
https://noranekoma.blogspot.com/2021/07/blog-post_21.html

> ベーシックインカムは縄文時代の、三内丸山遺跡にあったという広大な
> 栗林と同じようなものだと思うことがあります。どういうことか。

>  縄文時代、三内丸山遺跡では、人々が何世代にも渡って集落の近くに
> 栗の木を植え、広大な栗の林を形成していたといいます。何世代にも渡
> って人々が積み上げてきた「資産」のようなものです。この資産は集落
> のすべての人の共有財産です。しかも、ほとんど労働を必要とせず、放
> 置していても勝手に栗の実が大量に収穫できるわけです。【中略】なぜ
栗林は個人の所有物ではないのか?稲作のように、限られた場所で集中
> 的に作業を繰り返さなければ収穫できないわけではないからです。稲作
> のような「人手によって作られる」ものは、作った人がその権利を有し
> たいと考えるでしょう。しかし、栗の実は、ある意味、ほったらかしで
> も勝手に実るわけです。人間は拾って食べるだけ。しかも、人々が生活
> する上で十分な量が収穫されるのなら、喧嘩して奪い合ったり、「この
> 栗の木はおれの木だ」と必死に独占権を主張する必要はありません。

↑ここに「新自由主義」の本質が説明されているように思います。つまり、大した労力も無しに消費のための生産が可能である間は、人々は所有権の主張のような世知辛いことは主張せず、仲良くできるのに、生産に労力が必要になればなるほど、所有欲が強まって世知辛くなる、という話ですね。これは実は現代にも通用する話で、高度成長期は生活必需家電が右肩上がりで勝手に売れたので、儲けも右肩上がりで給料も右肩上がり。これは労力に比べて消費生活の豊かさが大きかったので世の中は世知辛くなかった。これに続くバブル時代も、余ったお金で投資すればするほどいくらでも儲かったから、やはり同じように、世の中は世知辛くなかった。ところが、
その後の低成長下では、働けど働けど、世の中の貨幣が減っていくのだから、一向に儲からないし、所得も下がる。つまりゲインに比べて労力が大きい時代に突入したので世知辛くなってしまったわけですね。その世知辛さを正当化する理論を、現代では「新自由主義」と呼んでいるに過ぎない。
 さて、上でリンクした記事の後半には次のように書かれています↓

>  しかし時代は流れ、すべての資産が誰かに所有される時代になると、
> そんな生活は夢のような話になってしまいました。確かに、生産効率か
> ら言えば、生産性の高い生産主体に資本を所有させたほうが、より少な
> い資本でより多くの成果物を得ることができますので、生産の総量とし
> てはより多くなります。しかし、すべての人々を満足させるための分配
> の仕組みが確立されていないため、争いが絶えることはありません。

> そして、人工知能やロボットのような「完全自動生産機械」が急速に進
> 化しつつある現代、曲がりなりにも分配のシステムとして機能してきた
> 「労働市場」「賃金(労働の代価)」という考え方は、崩壊に向かいつ
> つあります。

 この内容には思わず「おや?」と疑問を感じてしまいます。この文章の筆者は、「皆が資産の所有権を主張するようになった“から”世の中がおかしくなった」と考えているように見えます。しかし、それなら、昔の人間だって、バカではないのですから、それなら「すべての資産が誰かに所有される時代」になんか移行しなければよい。つまり、いつまでも資産は皆の共有財産のままにしておけばよかったのではありませんか?
 私が思うに、縄文時代の「共有財産」の考え方が終焉し、「資産が誰かの所有物になった」ことには必然的な外的要因があるのではないかと思います。その一つの可能性は「気候の変化」です。三内丸山遺跡があるのは東北地方ですが、弥生時代以降の東北地方は、冬になると雪に覆われ、食べ物は無くなってしまう。そうなると、自然の恵みに頼ることはできなくなり、農耕のような、「人為的な労働」によって食べ物を生産するしか生き延びる方法が無くなる。そうなると、この筆者も上で「稲作のような「人手によって作られる」ものは、作った人がその権利を有したいと考えるでしょう。」と述べているように、生産のための労力を提供した人が何らかの特別な利益を与えられないと、集団における生産のためのインセンティブが維持できなくなるわけです。現代のことを考えてみると、「生産の為に、従来以上に労力を提供しないと集団の生活が維持できない」という状況に陥った時に、新自由主義的な発想が芽生え、皆の賛同を得て、その考え方が暴走するように見えます。そして、それまで集団を保護するような集団の掟を守っていたのでは、効果が出て来ないとなったとき、「規制緩和」が推進されることになる。この集団が「国家」であるとき、「規制緩和」が国家の否定、つまりナショナリズムの否定によるグローバリズムになるのだと思います。ただ、科学技術の発展が不十分だった昔は、供給力が不十分ですから、一度「鎖国状態」から「開国」すると、今までの生活では知り得なかった豊かな世界を見てしまうので、欲求が暴走し、グローバリズムが衝突し、その結果闘争になり、闘争疲れで内向きになり、今度はナショナリズムが盛り上がる。ところがナショナリズムを続けていると、市場が閉じているので閉塞感が高まり、再びグローバリズムへ、ということを繰り返していたわけですが、今日ではその前提であった「供給力」に何の不足も無いのですから、このような歴史上のグローバリズムとかナショナリズムを繰り返す必要は最早無く、溢れる供給力の御利益を皆で享受すればよいだけなはずです。
 それにもかかわらず、相変わらず今日の菅政権下でグローバリズムが遂行されるのはなぜか?もちろん「財政赤字は良くない」などという「貨幣観の誤り」が蔓延していることが直接の原因のように見えるけれども、それはあくまで表層的な理解に過ぎないと思います。多くのツイッター上の反緊縮論者が、まるで示し合わせたように全員ワ〇チ〇推進論者であることが、彼らのものごとの表面的で軽薄な理解を表していると思うのですが、この最後の主張はまたまた説明不足ですね。また稿を改めて論じたいと思います。

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