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猪爪範子さんの「観光論」 [地方再生]

いあかにして「南陽衆」足りうるか報告書.jpg猪爪範子.jpg昨日の「めざせ! 湯布院、バーデンバーデン」で、湯布院ブレークアウトメンバーのひとりである猪爪範子さんを懐かしく思い起こし、猪爪さんがご自分の来し方を腹蔵なく語ったいい文章を見つけて読んだ。最後のまとめの部分を転載させていただく。観光論を超えて人生論になっている。猪爪さんが目の前に浮かんで、やっぱりそういう風に生きてきたんだ、とよく納得できる。《特別のおもてなしではなく、「自分たちの生活そのものを共有していただく」。このスタイルが好きです。それで、成功の果実も手にしました。いうところの、生活観光地です。》今では当り前のこの感覚、湯布院から広がった。「いかにして”南陽衆”たりうるか?!」では《外からのお客さんを呼んで来るということだけを目的にしているんではなく。やはりお客さんを呼んでくるには、自分たちが住んでいい町でないといけないんじゃあないか》と語っておられる。そしてそのあと、まさに今に通ずる大事な指摘があることに気づいた。もうひとつ湯布院にいて特に思いましたことは、今日も、行政が、住民が、という議論がありましたけれども、その「公共の部門」と言える部分が確かにあった、という感じを持っています。しかし、そこをどういうふうにふくらませてよい形で機能させるかというのは、まだ湯布院でもなんとなく漠然としてよくわからない。よくわからないながらも、行政と住民がお互いに手をさしのべてゆく、というのが湯布院の実情なんです。》頭でなく体で感じ取る人だった。40年前猪爪さんが漠然と湯布院の動きの中で体感していた感覚、最近ようやく私が思うようになった「官民融合」の感覚に通じます。→「「官民融合」(予算委員会)(3)市長に期待!」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2021-03-16

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観光地づくりオーラルヒストリー<第7回>猪爪 範子氏
https://www.jtb.or.jp/research/theme/planning/oral-history/inozume-1/
  
4.「観光」の計画とその実現 
https://www.jtb.or.jp/research/theme/planning/oral-history/inozume-4/
2016.03.08

●観光計画の体系

 観光計画という分野が確立しているという前提で、この質問項目が立てられているのだと思いますが、私は観光計画だけをやってきたわけではありません。思い返せば、持続的な地域のありかたを、主に市町村行政の現場の方々ととともに模索してきたと考えています。

 由布院の草創期と思われる40年前、旅館の奥さんたちは、インスタントでない、本当のコーヒーを楽しみたいと頑張りました。お客さまもさることながら、「私が美味しいコーヒー飲みたかったからよ」という動機。ウエッジウッドのイチゴ模様のカップとソーサーがまぶしく見えた時代です。特別のおもてなしではなく、「自分たちの生活そのものを共有していただく」。このスタイルが好きです。それで、成功の果実も手にしました。いうところの、生活観光地です。しかし、今は外からたくさん資本が入ってきて、コミュニティは変質しています。

 「川が大事だよ」とか「道をきれいにしよう」などの課題を、気持ちのいい顔見知り関係のコミュニティが変質したいま、どういう道筋を辿ることで地域の合意に導けるでしょうか。空念仏の自己満足に終わらない計画とは、誰に向けて、どんなアプローチをすべきでしょうか。ここでも、由布院のケースは生きてきます。それは、ここで、どういう風に生きることが格好良いのか。その姿を、リーダー自身が自分で具体的に示しました。だから、外部から流入した資本も、ここで稼ぐには「木造平屋がよさそうだ」、「家のまわりに樹林が必要だな」、「泊まる人向けだけの施設でなく、ふらりと立ち寄る人たちのための空間やサービスを旅館内に用意すべき」などなど、形の模倣を始めました。

 広島市役所で働いていた時に知り合った人たちが、水上タクシーの会社をNPOで立ち上げて始めました。もう、10年くらいになるでしょうか。市や、河川管理者である国も手掛けようとしましたが、成就しなかった事業です。趣味とボランティアでなければなりたたない。一方、河川での運行の安全、何か起きたときの対応について、幅広く知識を持ち、対応を万全にしておかないと、問題が起きたらすぐに中止勧告を受けることは、明白です。さらにやっかいなことは、一級河川での水上タクシー運行を管理する役所の部署、それに法律や条例もいまひとつはっきりとしていません。

 水上タクシーひとつとっても、観光計画という形で、「こういうことをやったらいいですよ」と書くことの有意性を疑います。パチンコ台を思い出してください。板面に絵がかいてあります。たくさんのポケットがあって、そこに導く釘が打ってある。聞けば、釘師という職業があって、玉を誘導する道筋の釘を動かして調整するという。板面の絵、落としどころとしてのポケット群、そこへの誘導を促す釘、日々調整するその向き。観光計画を、こんな風に整理して学生さんたちに話せばよかったと、今になって思っています。

 幸いなことに、私は、地域振興という観光も包括するところから地域と向き合えました。役所がクライアントだからといって、単年で終わらせずに経年の変化に付き合う体制や余力もありました。トップデシジョンによって対象地域に遭遇するという幸運にも、恵まれました。実に幸運だったと思います。

●地域の人と一緒に作るのが当たり前

 観光計画は、地域の方々の話を聞いて、一緒に作ることが当たり前だと思っています。だって地域の人達が当事者だから。私たちプランナーは一過性の旅人であり、何もしなければ、1年未満で多くの関係が終わります。その間に、当事者の思いを、どれだけ引き出すことができるか立場の違う当事者に、どれだけ計画の内容をインプットしてもらうことができるかが勝負どころだと思っています。

 だから自分が作った計画が実現したか、成功したかということを考えたことがないです。私に与えられたフィールドは、そんなに単純ではないからです。キャンプ場や、野菜の直売場をつくるなど、単体のハード事業なら別でしょうが。

 結果としてこのみち一筋できましたが、長い経験から、私は、正義も真実も多様にあるのが地域社会だと思うようになりました。自分自身の立ち位置によって見えてくるものは違います。だから、外部の専門家として現場に立ちながら、自分は正しい場所に位置しているかどうかを、いつも気にします。正しいとは、地域の持続性にかなっているかどうかにつきます。そうであっても、私たちの考え方は、報告書によって残すことが通常です。すぐにそれがかなわなくても、不思議とその痕跡は残るものです。曖昧ないいかたをしないで、時には、大胆なビジュアル表現で方向を示しながらです。それは独り歩きして、思いがけないところで浮上するケースを、数限りなく体験しました。

 住む人の目線に立った観光。市民型観光。住んでよく訪ねてよい。まちづくり型観光、ムラおこしなどが、いま、違和感なく使われていることに感動しています。

●提案が一人歩きすればいい

 観光計画って、作ってもすぐに実現しないのが常ですよね。事業化までには距離があります。当事者がその気になるまで時間もかかります。ともかく、短年では勝負がつきません。だから、観光計画書のポイントは、意思表示を明解にすることに尽きると思います。そういうことを意識した作り方をしてもきました。

 特に、観光計画などで使っていた言葉や提案が部分的につまみ食いされて、あとで動き出す。洪水の後に中州が三日月型に残るみたいに、前後の脈絡はないにしても、ある形が残る。いつか浮上するような仕掛けをしておきます。提案者の立ち位置が間違っていなければ、できます。そのために、後で浮上しやすいように、将来を見据えた、大胆な提案を残すようにしました。

 地域総合研究所が、墨田区の委託で観光計画を作りました。国技館も江戸東京博物館もできる前の時代です。“都民”のためのレクリエーション行政や外国人の案内だけが観光行政と考えられていた時代です。この時、当時の山崎区長は「下町という言葉を使うのは嫌だ」とおっしゃいました。「下町人情というのは電車にいち早く乗りこんで、後から乗り込む仲間のためにハンドバッグや帽子を置いて席をとるようなこと。そういうのは、心が狭いから嫌だ」と。宿題は下町に変わる別の言葉を考えよう、でした。現代的な下町の再生の意味合いも込めてということで、作ったのが、「川の手」という言葉です。今はほかでも使われているみたいですが、墨田区が一番最初です。当時の荒川区長にヒアリングをしたときに話したら、彼はすかさず河畔の再開発の名称にこれを採用しました。その年の新語大賞も受賞したような記憶がありますが、荒川区と墨田区のどちらが言い出したか、問題になったらしいです。言い出しっぺは、私たちに他なりませんが。

図13 『情報発信都市すみだ』 図13 『情報発信都市すみだ』

図14 『川の手の感覚』図14 『川の手の感覚』

 ちなみに墨田川を水上交通に利用しようという提言は、この時が初めてです。まだ川が汚い時代でした。時間はかかりましたけど、その後に東京都のマイタウン構想に採用されて、今では実現しています。

 広島市役所では、早晩、去る覚悟をしていましたから、何かを残そうと画策しました。それで、勝手に観光計画を作って置き土産にしました。ただパソコンから打ち出した原稿を置いてきただけでは日の目を見ないに決まっているので、自腹で冊子を印刷し、「お世話になりました」という言葉とともに、市長をはじめ、いろいろな方々に配ったんです。あとで、印刷費は戻してもらいましたが。

 「千客万来のまちづくり」というタイトルで、観光を産業として位置づけようという内容でした。国際平和文化都市に観光などそぐわないというのが、当初、つよくありましたね。千客万来という言葉は、かつて市長さんだった方の本が残っていて、そこに広島市はこうあるべきという提言とともに、記述されていました。さらに、私は、観光をビジターズ・インダストリーと言い換えることで、プライドの高いこの都市の、観光への違和感を除くようにしました。負の歴史を背負ったこの大都市を訪問する人たちは多様なので、観光客ではなく、ビジターズと言い換えることもしました。当時の秋葉市長が辞めてから出版した本(『ヒロシマ市長 <国家>から<都市>の時代へ』朝日新聞出版)で、一章分使ってその観光計画の内容について紹介していました。東京都でも、後で千客万来という言葉を使いましたね。そもそものところは書けないにしても、書き物として形を残すと、残骸でもそこから何かが残ります。使われやすいようにしておくことが重要です。だから、自分によって成功がもたらされた観光計画というとらえ方はしたことがありません。

図15 『ビジターズ倍増に向けて-千客万来の広島の実現-』図15 『ビジターズ倍増に向けて-千客万来の広島の実現-』
広島市、平成16年(2004年)5月

5.これからの「観光」・「観光地づくり」・「観光計画」への提言
https://www.jtb.or.jp/research/theme/planning/oral-history/inozume-5/
2016.03.08

  ●『座標軸』を持ってアプローチすること

 社会正義の転換が激しいと感じています。地方救済の切り札として20世紀末に登場した通称「リゾート法」によって、地方の山野は地上げされ、切り刻まれて、目的を達成できないままに放置されている状況にあります。行政が主導した郊外居住の推進によって、都心から遠い土地が大規模に開発され、そこに生涯をかけたローンを組んでマイホームを建てた人は多いです。しかし、21世紀になって、都心回帰、コンパクトシティの政策に風向きが変わりました。交通不便な郊外に、残余のローンを抱え、次世代から同居を断られ、取り残された高齢世帯をどうしたらよいのでしょうか。

 利害関係に捉えられない若い方たちは、学業と同時にボランティア活動を通じて社会に参加し、体験の中から、大人になっていく道を求めてほしい。そして、「何が人びとを『幸福』にするか」を考え、自分の基本的な立ち位置=『座標軸』を定めてほしいですね。社会人となり、何かの事業に関わったとき、あるいは自身の人生の岐路に立ったときにも、その課題を自分白身の『座標軸』に沿って、裁量の範囲が乏しくても乖離を埋める努力をしてほしいと思います。実践の上に立った若者たちの思考の軌跡を共有することは、年齢を重ねても極めて刺激的ですし、実践を通じて自分自身でつくった人生を送るイメージを持てたら、さらに自由になれると思います。

 ●持続可能な社会形成を目途とする

 この道一筋に45年を過ごしました。立場は、政府の外郭団体職員、フリーランス、コンサル会社経営、行政職員、教育者、NGO役員など、時に重複しながらいろいろに変わりました。テーマは、都市、農村、観光地、水、緑、景観、地域産業振興、子育て、介護、行政改革、ゴミ、公共交通機関、ジェンダー、コミュニティなど、社会の要請にしたがって、水平にテーマが広がりました。しかし、それを恐れることなくその道の専門家と渡り合えたのは、持続可能な社会、ひいては人々が不安を感じることなく住み続けられる社会づくりというスタンスがぶれなかったからだと自分では総括しています。旅や体験などを通じて、持続的な地域形成の必要を学べたことも大きかったと思います。

 私の世代は、右肩上がりの高度成長期にあったものの、男女共同参画の助けはありませんでした。でも、悔しくて、こぶしをふりかざした時代は、30歳までに終わったような気がします。女性であるがゆえに、体制や組織から自由であったということも、ここにきてわかったことです。水平にテーマが拡がる中で「何をしている人かわからない」と言われる弊害は常にありましたが、追従する同性の同世代に会うこともなかったですね。つまり、競争にさらされることもありませんでした。

 ●最後に~プランナーへの言葉

 まず、それぞれが面白く生きないとつまらないと思います。面白く生きるには、自分の才覚を働かせることと、人との出会いも含めた「運」をつかむことに尽きると思います。

 才覚を働かせて、運をうまくキャッチして呼び込んでいけば面白い一生になるでしょう。それはお金持ちになるとか、有名になることなどとは別のプロセスですけどね。

 今の時代、70歳を過ぎた私には、女性がどのように働いているかリアルにはわかりません。今でも差別が残っていて、出世しにくい状況があるならば、その分を自分らしく楽しまないと生まれてきた甲斐がありません。人と違うことを恐れず、自分らしさを押し出しましょう。そうすれば、自分らしく、明るく、自由に生きることができます。

 私は組織にはまり切れなく生きてきました。阻害されたとは言いませんが、スタートは愉快ではありませんでした。だから、自分の道を、自分で探さないといけないという思いに立ってきました。私の東京農大の同級生の女性たちは、みんなそうして現在に至っていると思います。結果として得たものは、それぞれの分野のトップランナーとして、走りきることができたということです。

 今の女性プランナーへ向けた言葉はという問いに対しては、自分の才覚と運を活かして面白く生きましょう、ということに尽きます。長いようで短い、短いようで長い人生。陳腐ですが、面白く生きなければ、生まれた価値はないと思っています。

2015(平成27)年9月15日
長野県上田市にて
取材者:公益財団法人日本交通公社観光政策研究部
梅川智也、後藤健太郎


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