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「自らのセンスで価値があるかどうかがひとりでにわかるようになる。」(mespesadoさん) [日記、雑感]

亀さんが、「富永仲基、吉本隆明と重なった」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2021-03-27 の記事にはぐらめいさん、富永仲基についての内藤湖南による講演の紹介、有り難うございました。》183)と反応してくれました。《>>183 亀さん/江戸期の仏教の諸相を思い巡らしていたら、以前から気になっていた富永仲基が浮かんできました。/内藤湖南の講演を読んで、富永仲基はどうやってその認識を得るようになったかを思い、吉本隆明に重なりました。/>>181でmespesadoさんが、《人々の認識のレベルが上がれば、(専門家を含む)他人の評価など関係なく、自らのセンスで価値があるかどうかがひとりでにわかるようになる。/そこまで来れば、人の評価などどうでもよくなり、ましてや外からの押しつけなど無縁の境地に到達する。》と語っておられますが、まさにそういうレベルなのだと思います。》185)と応えてきました。
以前このブログを始めて間もない頃、「原理的思考と関係的思考」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2006-03-19という記事の最後に「原理的思考」と「関係的思考」という言葉が思い浮かんだ。原理的思考といえば私にとってはまず第一に吉本隆明であり、その極北には宮沢賢治がいる。副島隆彦氏はその流れにあると思う。かつて西尾先生に副島氏との対談を願って一蹴されたことがある。「自分のまわりでは信用がない」というものだった。西尾先生は、「藤岡先生と八木前会長との関係を等距離におきたい」と言われた。西尾先生は、その思考において、原理よりも関係が優先するタイプなのだと思う。まずは学者の世界に生きておられるのだ。》と書いたのを思い起こしていたところです。以下は、「原理的思考」で思い浮かぶ吉本感覚です。(「<追悼・吉本隆明さん> あなたのおかげで大人になった」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2012-03-21
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吉本思想の難解さが言われるが、論理の積みかさねを解きほぐしてゆく類(たぐい)の難解さではない。詩人として出発した吉本が、自分の感覚にこだわりつつ繰りだす造語による議論の展開につきあうことはたいへんなことだ。私もどこまでつきあいきれたか、積読ばかりで読者を名乗るもおこがましい。しかし、その向こうには、かならず信頼に足る吉本の<感覚>があった。吉本に惹かれたのはその<感覚>への憧憬であり共感だったのだと思う。
 
 「初期ノート」に次の言葉がある。
 
≪結局はそこにゆくに決ってゐる。だから僕はそこへゆこうとする必要はないはずだ。ここをいつも掘下げたり切開したりすることの外に、僕に何のすることがあるといふのか。≫ 
 
いま自分がいる場所をひたすら深く掘下げることが吉本が自らに課した仕事だった。吉本を読むことは、読者自身が拠って立つ場所を掘下げることを強いられることだった。そしてある時ふと気づく。吉本が言っていたのはこのことだったか、と。そして吉本の言葉は読む者の中で生命が吹き込まれ肉体を持つ。吉本のすごさはそこにある、そう思えた。 

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