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新・mespesadoさん講義(24)価値観の相転移 [mespesado理論]

mespesadoさんによる、2回にわたる「相転移」論。昨日1回目(178 )を読んで思ったのが、昨日「『コロナ騒ぎ』批判本」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2021-03-25 新型コロナ発生から1年たち、その正体も少しずつ見えてきた。新型コロナが「インフルエンザより怖くない」ことを示すデータも出てきている。それなのになぜ、政府は経済を止め、自由を制限し、人々を苦しめるのか。さらに、多くの人がそれを歓迎するのはなぜなのか。どんな答えが示されているか楽しみです。》と書いたこと。案外、今の状況を世の中全体望んでいたのではないか、という可能性も頭に置いてこれからを考えなければ・・・、ふとそんな気がしていたのだが、今朝2回目(181)の方を読んで思ったのが、一昨日書いた「『江戸の歴史は隠れキリシタンによって作られた』を読む」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2021-03-24 《隠れキリシタンの根底にあったのは、人間にとってごくあたりまえな「共感に基づく自然感情」であったらしいことに気づかせてくれた。江戸期以降の「権力第一義の仏教(寺請制度)vs.自然感情第一義のキリスト教(隠れキリシタン)」という基本構図ができた。新しい視野を得た気がする。》と書いたこと。というのは、この時思っていたキリスト教感覚というのが「勉強が出来なくても保育者にはなれる」「知識より子どもに寄り添う気持ちが大切」》感覚に通じているように思う。つまり、戦国乱世の何が何やらわからなくなってっる時代に、「お互い寄り添う気持ち(共感に基づく自然感情)」をとっかかりにして日本人の気持ちを掴んだのがキリスト教だったのではないか、ということ等々、自分の気持ちに照らし合わせながら思わせられたのだが、・・・それはそれとして、mesさんの議論の大事なところはその後で、「勉強」を、「生きていくために必要な最低限の教養」と「学問」の2種類(2段階)を踏まえた上で、既成の感覚とはまた別のところに見えてくる「価値の世界」、他人の評価など関係なく、自らのセンスで価値があるかどうかがひとりでにわかるようになる》、そのレベルが在るということ、そこでは人の評価などどうでもよくなり、ましてや外からの押しつけなど無縁の境地に到達する。》今「相転移」が起こりつつあるとすれば、視野はそこまで及んでいる。そうして思うのが、宮沢賢治の「ほんたうのほんたう」。→「追悼・吉本隆明さん(5) 「ほんたうのほんたう」の到達点」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2012-04-08 まだまだじっくり醸成してみなければならない、人間存在の根底に関わるmespesadoさんの今回の議論です。まだまだ書き足りませんが、とりあえずはmesさんの議論についての、今の気持ちをメモったところです。
*   *   *   *   *
178 名前:mespesado 2021/03/25 (Thu) 07:27:56
中学受験「偏差値40台」目指した子の最後の結末
https://toyokeizai.net/articles/-/416788

↑一般庶民の「貨幣観の誤り」と同じことが「教育観の誤り」でも起きていることがわかる典型的な記事(つまり記事の方も誤ったまま、という意味)。
最後の方に↓

> 偏差値上位校に入ることこそが“受験の成功”と思っている人にとって
> は、来夢さんのこの合格に価値は感じられないかもしれない。 

> しかし彼女には、まぎれもなく価値ある勝利だったといえる。3年以上、
> 受験勉強生活で抱え続けた劣等感を払拭することができたようだ、と美
> 佐子さんは感慨深そうに振り返る。

 いやいや、問題はそこじゃないからw
 どうも世間は何事も根本の「そもそも論」のところからボタンを掛け違えているとしか思えない。
 ただ、貨幣観の方も、数年前まではだれも「貨幣は人工的に作られたもの」だという認識すらなかったのに、今日では遂にあの池上彰までもが正しい貨幣観をTVで発言したそうだが、世の中は確実に価値観の相転移が起きつつある。まあ、あせらず変化の兆しが少しでも出て来ることを見逃さず、じっくり観察していこう。


181 名前:mespesado 2021/03/26 (Fri) 00:51:13
>>178
 教育論の続き

gachagacha@gachaga66150604
> 保育者養成の学校で、学生に「勉強が出来なくても保育者にはなれる」
> 「知識より子どもに寄り添う気持ちが大切」などと話す先生を割と見掛
> ける。学力に劣等感を持つ学生を励まそうという意図だろうが、彼らが
> 言葉通り受け止め「気持ちだけあれば十分」と思い込む悲劇を沢山見て
> きた。害でしかない。

> 実際の保育でも「気持ち」しか視点を持たない保育者は、子どもを対人
> 関係のみで見る。いつも「○ちゃんは△くんと仲がいい(悪い)」ばかり。
> 花や虫、気象…子どもが興味を向ける対象に気付き、彼らの好奇心が広
> がる環境を構築するためには、専門知識が必要。それと保育者自身の知
> 的好奇心も必須

> 気持ち偏重の保育・教育は実は子ども(学生)に寄り添えてないと思う。
> 人間って情動だけを原動力にしている訳じゃない。面白い、知りたいっ
> ていう興味や好奇心で世界を広げていく面もあるはず。入園したての子
> を力づけるのは保育者の寄り添いだけじゃない。園庭の虫探しかもしれ
> ない。

> 学生にも同じ。学力に劣等感を持つ学生への「出来なくていいよ」「コ
> ミュこそ大切」というお気持ちな寄り添いは、彼らの可能性を逆に潰し
> てしまうのではと危惧している。
> 「出来なくていい」という許しより、学ぶ内容自体の面白さを伝える工
> 夫が必要。保育を受ける子どもたちのためにも。

> 学生(もしかしたら教員にも)の心には、今でも公立小中に蔓延している
> 「勉強だけ出来たって仕方ない」という隠れた価値観が刻まれている。
> それが保育者養成校のメッセージ「勉強出来なくても気持ちさえあれば」
> と共振してすごい振れ幅になるのだと思う。

 ↑学校教育といのはまさに「勉強」を教える場なのに、それでは優劣ができて「敗者」が可哀そうだから「勉強」でないことを重視して見せて「勉強ができない子」の「劣等感」に蓋をしようとする風潮を批判したものと理解しました。ですから、上の意見に対しては基本的なところでは賛成です。
 ところが、これに対して、例の「すまん寝」さんが応答していて、↓

すまん寝@秩序回復・財務省廃止・反財政再建@sumannne
> RT>私など「勉強もできないのに実社会で何を成すつもりか」くらいのこ
> とを言いかけたことはあるな。
> さすがにカドが立つかと思って寸前で呑み込んだけど。

> ただ、私はそういう初心を思い出して、新年度からは教育・業務におい
> て鬼軍曹となる。

> RTで書かれていることで高速首肯してしまうのが、勉強を否定してお気
> 持ちだけで動いてる保育者や保護者が子供を対人関係でしか見ないとい
> うところなんだよね。

> 私自身の経験で、こっちの知的感心など全く顧みない大人が近くにいる
> と人間不信の原因にすらなるからね。

> 私は多分保育所の頃から対人関係は多分二の次の人間だったので、これ
> はマジでキツかった。

対人関係が全ての大人が常に周りにいた後遺症、多分今も残ってるんだ
> よね。
> 自分の対人関係観と自分以外の対人関係観が決定的にかみ合わないこと
> を体で覚えてしまったせいなのか、ある種の問題では今でも他人の言う
> ことが良く分からないことがしばしばある。

> まぁ、実際には鬼軍曹とはいってもハートマン軍曹みたいなことはしま
> せん。
> 私が求める厳しさはそういうことじゃない。

> ちなみに、こちらは新兵ブートキャンプだけでなく、軍で言えば幹部候
> 補生学校や指揮幕僚課程に相当する学生も教えますので、それぞれに応
> じてやり方というものはあります。

>> 泣きべそかけばいいんですよ。昔はそうだった。
>> どうも今の教授の人達、どうせ分からないからと真面目に教えようと
>> しない(どんどんレベルを下げる)んですよね。
>> これはよくないと私は思うんで、独自に動くことにした次第。

> なお、学生のレベルがどうのと言って教える内容のレベルを下げると、
> 普通はそれでもやっぱり学生は分かりません。

> 教える内容のレベルに原因がないからです。

 ↑こちらの意見はちょっと違和感がある。その理由は何かと考えてみました。そもそも「勉強」には2種類、というか2段階があって、「生きていくために必要な最低限の教養」「学問」の2種類である。
 前者は、実は歴史的に日本が世界で最も進歩していて、「寺子屋」の「読み書き算盤」がそれに当たる。当時の「先進国」であった西欧人が日本人の識字率に驚愕していたのがこれ。
 それに対して後者は西洋に自然発生した「大学」がそれにあたる。もともと「神学」と「哲学」と「科学」に境界は無かったし、最後の「科学」も今でこそ「自然科学」と「人文科学」と「社会科学」に分かれているが、これは学問の専門化で生じた区分に過ぎない。これは古くは労働を奴隷に任せることにより「労役」から解放された「有閑の」古代ギリシャ人に端を発するもので、まあ「一神教に基づく宗教心と好奇心に突き動かされた人間の道楽」を極めたものに他ならない。ところが日本では、江戸時代までの「国学」あるいは「和算」や、明治維新に西洋から入ってきた学問がそれに当たるのだが、「国学」が「文系」、「輸入学問」が「理系」となり、「数学」は、理系のようで理系ではない、という微妙な位置にあるのだが、これは「輸入学問」の一つでもあると同時に、日本にも「和算」の伝統があったからに他ならない。
 で、上に引用した「すまん寝」さんは、大学の(まさにこの微妙な位置にある)「数学」の教員である。
 「国学」と「和算」の共通点は、「徒弟制度」のような「上下」の関係による「修業」を重んじる世界。だから、すまん寝さんの考え方には、この種の「厳しさ」が横たわっているように感じる。
 これに対し、西洋からの「輸入学問」は、優勝劣敗、弱肉強食の、まあ言ってみれば「新自由主義」の世界としての「厳しさ」が横たわっている。同じ厳しさでも全くタイプが異なると言える。
 一言で言えば、「国学」と「和算」は「修業」の厳しさ「西洋学問」は「弱肉強食」の厳しさ、と言える。
 で、私の感想だが、どちらもハッキリ言って息苦しい。前者は「我慢を強いられる」息苦しさ、後者は「競争にせっつかれる」息苦しさ。私自身は、まあ「学問」を趣味とする人間だが、どちらも勘弁して欲しい、と思う。
 「教養」の世界と違って「学問」の世界はハッキリ言って「道楽」である。せっかくの道楽なのに、外から押しつけられる息苦しさなどまっぴら御免だ。もっと好き勝手にやればよい。ただ、好き勝手にやった結果に対して、それらに「価値」があるかという問題は本質的であり、では、その「価値」とやらはどのようにすればわかるのか、と言えば、まずは「専門家による評価」に晒されることで判定されるという段階があり、しかし人々の認識のレベルが上がれば、(専門家を含む)他人の評価など関係なく、自らのセンスで価値があるかどうかがひとりでにわかるようになる。そこまで来れば、人の評価などどうでもよくなり、ましてや外からの押しつけなど無縁の境地に到達する。
 今、「貨幣観」や「政治観」が相転移を迎えつつあるが、その陰に隠れてはいるが、「教育観」あるいは「学問観」にも、この必然の(一方通行の)価値観の相転移が訪れるのは間違いない、と思う。

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