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宮内に流れる名家大江氏の血脈(南陽市民大学講座)(3) [地元の歴史]

大江広元には6人の息子がいますが、そのうちの3人についてです。このほかの三男宗元は「那波氏」、五男忠成は「海東氏」を名乗り、六男重清は寒河江慈恩寺の別当職になったと伝えられます。

◎大江親広(ちかひろ ?−1242)
大江親広系図.jpg 広元の長男。母は多田仁綱(のりつな ?−1234)の娘。妻は北条義時の娘竹殿。
 建久3年(1192)寒河江庄の地頭となるも、幕府の重鎮で鎌倉の地を離れることができないので、広元の妻の父(親広の外祖父)多田仁綱に任せる。父が幕府の実力者であったことから実朝に寺社奉行として重用され、北条氏からも執権義時の娘婿として厚い信任を受ける。承久元年(1219)実朝暗殺の際近習として側におり、翌日出家。その後京都守護として京へ。承久3年(1221)の承久の乱では後鳥羽天皇の官軍側に与して、親兄弟の幕府軍と戦う。
〇承久の乱
 朝廷が戦いに挑んで敗れた唯一の戦い。後鳥羽上皇が実朝暗殺で混乱する鎌倉幕府を討つべく義時討伐の宣旨。迎え撃つ幕府は、大江広元建言の積極攻撃策によって勝利。北条政子による御家人団結の大演説の逸話が残る。以後、建武の新政(1333〜1336)の一時期を挟んで明治維新まで武士の時代が650年間続く。
大江親広墓.jpg 上皇軍惨敗の後は行方をくらましたが、祖父の多田仁綱が代官を務める出羽国寒河江荘に隠棲。嘉禄元年(1225)父広元に逝去すると、息子佐房に使いを送り阿弥陀如来の尊像を彫刻させ、胎内に広元の遺骨を納めて出羽国寒河江荘吉川(西川町)の阿弥陀堂に安置した。貞永元年(1232)、北条泰時による「貞永式目」発布によって、親広正式に無罪となる。仁治2年(1241)に親広が亡くなると、自身も阿弥陀堂の傍らに葬られたという。
〇親広以後の寒河江荘
 寒河江荘は次男高元が相続するが早世したため、鎌倉で要職についた三男広時が相続。
 その後、建武の中興を経て南北朝の時代へ。第6代元政、南朝方として奥州鎮守府将軍北畠顕家とともに足利尊氏と対戦。一方、若狭国守護斯波家兼、新田義貞を敗死させた功により出羽管領となり山形入部。次男兼頼が最上家の始祖となる。以後両家の対立が続く。正平23年(1368)漆川の戦いで第7代大江時茂惨敗。第9代時氏北朝方に降る。これより朝廷に仕えた大江姓を返上して寒河江時氏となる。以後、最上、寒河江両家の関係は平穏な時代が続く。天授6年(1380)、伊達宗遠により置賜の長井大江氏滅亡。応仁元年(1467)応仁の乱以後は、南北朝時代の大義名分はなくなり、実力による侵略と下剋上の戦国時代へ。最上義光と父義守、弟義時の確執に、寒河江の大江は義光方に、同族の白岩、溝延、左沢は義守方とに分かれて一族相剋。白岩ら一族が寒河江城を攻め落として、大江一族内部に亀裂。勢力増大する伊達氏と最上氏に翻弄。最上義光、反義光勢力を討滅して肥沃な寒河江の土地に狙いを定める。立ちはだかる谷地城主白鳥長久を調略により刺殺。これによって「義光は卑怯者」の汚名。さらに柴橋城主羽柴勘十郎を奇計を謀り銃殺。天正12年(1584)、第18代高基、なすすべもなく義光の野望の前に散る。《強大な戦国武将として直臣団を中心に野心に燃えた義光と、400年前をさながらに、領国内に一族を配置し、惣領制的遺制を残しながら、領土拡張の野心もなく、戦国時代の大名の流れにも、脱皮することのできなかった大江一族。》(大江隻舟『大江氏興亡三千年』)

◎大江(長井)時広(?-1241)
長井時広系図.jpg 広元の次男。兄大江親広が承久の乱で失脚すると大江氏の惣領となり幕府中枢で活躍。出羽国置賜郡長井荘を所領とし、長井氏の祖となる。
 建保7年1月27日(1219年2月13日)実朝が右大臣に任官され、鶴岡八幡宮へ拝賀した際随行する(このとき右衛門大夫)。長井時広夫妻座像129.jpgここで実朝は公暁に暗殺され、兄大江親広とともに出家。承久3年(1221年)の承久の乱で、兄親広が後鳥羽上皇方に加わって失脚したため、嘉禄元年(1225年)父大江広元が亡くなると、大江氏の惣領となる。貞永元年(1232年)父広元の収集した記録文書等を北条泰時から賜る(「吾妻鏡」の基礎文書)。後に備後国守護職となる。嘉禎4年/暦仁元年(1238年)に所領の米沢に米沢城を築いたとも言われる。仁治2年(1241年)に死去。嫡男長井泰秀が出羽長井荘を、次男長井泰重が備後守護を継承した。堂森善光寺には山形県指定有形文化財の伝長井時広夫妻坐像が遺っている。
〇時広以後
融通神社.jpg 代々関東評定衆として鎌倉に居住。評定衆とは、北条泰時による創設で、裁判・政務を執権とともに合議する。
 時広の長男泰秀は建長2年(1250)、粟野東昌寺覚仏入道(伊達氏三代義宏1185-1251)に命じて宮内熊野宮を再興。正元2年(1260)熊野宮炎上。再び粟野東昌寺覚仏入道に命じて再興。熊野大社文殊堂(菅原神社)の背面に融通神社がありそこに祀られている。《前九年・後三年の役のとき、源義家は厚く当社を尊崇し、家臣鎌倉権五郎景政に命じて紀州熊野を勧請し、朱印三百貫とかずかずの品を寄進したとつたえる社伝を重んじ、長井氏二代泰秀はその恩に報いて保食宮(うけもちのみや)に義家を祀り、景政を祀る金剛見をそれぞれ造営して当社の末社とした。平氏の勢力の拠点をおさえるため、義家景政を祀って源氏色を濃厚にした。》(黒江太郎『宮内熊野大社史』)
q2資福寺跡.jpg 第三代時秀は文永2年(1265)に評定衆。弘安7年(1284)、高畠夏刈の臨済宗慈雲山資福寺を開山。第一世鎌倉建長寺大休正念和尚、第二世紹規和尚。置賜地方学問の中心となる。
 嘉元2年(1304)の熊野宮炎上後の再建は、第5代の長井貞秀、その弟の上総介時茂、平政盛(妹婿会津八郎左衛門)、斎藤豊後守実忠、伊達小太郎宗綱(第5代)による。
 時広を祖として9代続いた置賜長井氏は、足利尊氏の時代になっても北朝方として枢要な地位を占めていたが、天授6年(1380)、高畠城を橋頭堡として置賜進出を図る伊達宗遠、伊達政宗(第9代儀山政宗)によって滅ぼされる。

◎大江(毛利)季光    (すえみつ1202-1247)
 大江広元の四男。建保5年(1217)相模国毛利庄を得たことで毛利を名乗り、毛利氏の祖となる。3代将軍・源実朝に仕え、建保7年(1219)、暗殺された鶴岡八幡社参行列では兄たちとともに加わっていた。実朝の死後出家、深く仏教に帰依。承久の乱(1221)では、北条泰時に従って後鳥羽上皇と呼応する勢力と戦い、武名をあげる。この功によって安芸国吉田荘(安芸高田市)の地頭職を与えられた。天福元年(1233)、執権泰時から関東評定衆に任命される。
法華堂後.jpg 宝治元年(1247年)、北条氏執権派と対立した妻の実家三浦氏方に付き敗北(宝治合戦)。鎌倉法華堂で息子の広光・光正・泰光・師雄、そして三浦一族、総勢五百数十名と共に自刃。合戦の直前、季光は娘の婿である時頼将軍の御所に向かおうとしたが、妻の「兄泰村を見捨てることは、武士のすることではない」との言葉で負けるとわかって三浦陣営に付いたという。《妻の一言、それは「年来の一諾」にあった。それは、有事に際しては、季光は三浦家と歩を同じくする、すなわち運命をともにするという約束にあった。そのため所領の贈与を持参金として妻は三浦家より持って来ていた。季光にとって恩は北条家よりも三浦家の方にあった。》(大江隻舟『大江廣元 改姓の謎』)毛利一族はこれによって大半が果ててしまったが、越後国佐橋庄(柏崎市)にいた四男の経光の家系だけが唯一残ったとされ、この経光の子孫から戦国時代に安芸吉田荘の国人領主から一躍中国地方の覇者となる毛利元就が出る。《執権時頼は、経光の母が主謀者三浦義村の娘であり、経光の責任を強く追及し、追放せんとした。この戦いに幕府方として功績のあった従兄弟長井泰秀の懸命の助命懇願により難を逃れることができた。/越後国佐橋庄と安芸国吉田が地頭として安堵された。》(大江隻舟『大江氏興亡三千年』)
季光の娘は宝治合戦を執権として指揮した北条時頼の正室となっていたが、戦後に離別している。

長井泰秀の懸命の経光助命懇願があって、毛利家は明治維新を担う長州藩に至るまで家系が繋がることを得た。泰秀は宮内熊野宮再興に力を尽くし、融通神社に祀られている。その泰秀あっての長州藩、それを思って感慨深い。

・法華堂跡碑文《堂はもと頼朝の持仏祀れるところにして頼朝の薨後廟所となる建保五年五月和田義盛叛して火を幕府に放てる時将軍実朝の難避けたるはこのところなり宝治元年六月五日三浦泰村此に籠りて北条の軍を邀へ刀折れ矢盡きて一族郎党五百餘人と偕に自盡し満庭朱般に染し處とす  大正十三年三月建 鎌倉町青年団》

  



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