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宮内に流れる名家大江氏の血脈(南陽市民大学講座)(4) [地元の歴史]

◎寒河江源兵衛(牛之助 ?−1626)
寒河江源兵衛 寛永三年.jpg 最上家の家臣(寒河江肥前の次男土佐)であったが、村山から大塚に移って伊達政宗に仕え、500石の知行を得ていた。政宗移封(1591)に際しては土佐病死、源兵衛幼少のためそのまま残り、長谷堂の戦い(1600)には上杉方で参戦。その後慶長14年(1609)から18年までかかって、添川地区の白川から大塚まで水を引く事業を担う(「大塚堀」)。『邑鑑』記載(1590年代)では2,029石の石高が、寛永15年(1638)の総検地では7,000石を超える。元和年中(1615−1624)には大塚堀から今泉村に分水、川西北部地区の開発に大きく貢献した。

◎米沢の寒河江家
『米沢日報』(平成29年元旦号)「戦国武将寒河江(大江)氏と置賜に移った末裔の周辺ー源頼朝の右腕、大江広元から現在までの歴史を辿って」より
《寒河江氏(8代から大江氏改め)は、天正12年(1584)、山形の最上義光に攻められて滅亡、義光の家臣となった者も元和8年(1622)の最上氏改易でバラバラになった。寒河江氏一族は一体どうなったのだろうか。先祖がこの寒河江氏であると伝わる川西町・米沢市の周辺を調べた。》《最上義光は滅ぼした寒河江氏の処遇で、降参した者は臣下に、望まない者は帰農させた。臣下となった者に、寒河江肥前守らがいる。》《寒河江宮夫さん(川西町堀金出身、米沢市在住。当時80歳)の家の伝承によれば、元和8年(1622)、最上氏が改易された際、同家の先祖(寒河江肥前守末裔という)は米沢藩領の堀金村に移り、武士から帰農したという。・・・伝承として、最上氏に仕えていた時、城の南側に屋敷を構え相当の財産を保有していたこと、最上氏の改易後に堀金に移ってきたのは寒河江隼人という先祖が初代、その時に相当な財産を持ってきたこと、同家が證誠寺の開基になったこと、直江兼続によって行われた堀金堰工事は未完成だったが、同家から相当な資金提供を行い米沢藩から禄85石、苗字帯刀を許され以前の「寒河江」を名乗ることにしたこと、その時に税金が数年免除されたこと、明治維新当時、大きな田があったことをあげている。/さらに明治期、山形で行われた最上義光の法要に同家の当主が招ばれ、上座に座ったということを宮夫さんの母が話したという。》《米沢城下の粡町に店舗を構え、米沢織の販売を営んだ寒河江佐右衛門家も、「戦国時代に最上義光に寒河江城が攻められ、領主の大江氏が滅亡し、自分たちの先祖は寒河江の地を離れ、米沢領万世片子に移り住んだ(一説には大舟村とも)。時が過ぎ、子孫の一人が大志を抱き生家を離れ、米沢城下に近い成島の豪農鈴木格平家の家僕となり働き、その後、城下の徳町、座頭町で商売を始め、寛政5年(1793)に粡町に店舗を構え米織を販売した」と伝えている。》

◎(有)大江商事
1-DSCF9126.JPG 宮内粡町寒河江家は、伊達政宗の時代、家臣を従えて寒河江から大塚村に入る。代々源兵衛を名乗り、堀を開いて田地開発に努め地域の中心を担う。製糸業盛んな宮内に移り、昭和4年からの大恐慌下倒産した須藤永次商店の石炭販売部門を引き継ぎ、南町に「常磐炭鉱」の看板で店を構え営業。製糸工場に石炭を供給する役割を果す。昭和四十年代粡町に移り、現在はプロパンガス、石油の販売を営む。川西町大塚の積善寺(しゃくぜんじ)の開基。今も檀徒総代。墓脇に源兵衛顕彰碑がある。

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寒河江家墓所.jpg石碑立誌

此ノ碑人物ハ寒河江源兵衛光有ニテ寒河江家二代目ニ當ル。初代土佐守ハ寒河江大江氏ノ一族デアルト云ワレ寒河江古文書ニハ「拙者先祖儀ハ元来最上義光公家臣肥前ト申スル者ノ次男土佐ト申者當國ニ罷越伊達左京太夫政宗公ニ御奉行仕リ知行五百石置下カレ當國ニ在居申候 其後(天正十九年)政宗公米沢ヨリ仙台ニ御國替ニテ御引越ノ砌右土佐病死仕リ嫡子源兵衛儀幼少ニテ御供不叶當國ニ罷居候」ト書ヰタ由緒書ガアル。此後源兵衛長ジテ慶長十四年添川村白川ヨリ堰見立テ堰開削ヲ開始仕リ同十八年五ヶ年目ニテ工事成就田野、とんたり、山ノ下、岡原、檜木谷地、菊田谷地等開田トナル。元和四年ヨリ六年マデ高五百石余増収シ新百姓二十名取立テとんたり町ト名命ス。源兵衛ハ寛永三年五月十四日没シテヰルガ生前ノ功績ヲ讃エテ東西中三大塚水下中ニテコノ石碑ヲ贈ラレタノハ安政ニナッテカラデアルガ建立年月日ハ判読デキナヰ
  昭和五十六年寒河江家由緒ヨリ抜萃ス
          藤倉江月書    寒河江哲郎建立
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【参考:最上義光記念館のサイトからhttp://samidare.jp/yoshiaki/lavo?p=log&lid=144057

最上義光に殉じた寒河江十兵衛

(一)
 慶長十九年(1614)一月十八日、最上出羽守義光は病により生涯を閉じた。その際、寒河江肥前、山家河内、長岡但馬、寒河江十兵衛の四人は、二月六日に義光墓前にて腹を切り主の死に殉じた。これが世間に取り沙汰され、後世に語り伝えられてきた。この話しの誕生は、元和八年(1622)の最上家改易から十二年後の寛永十一年(1634)に、最上の旧臣と思われる人物が書き残した『最上義光物語』(原本が『続群青類従』に収録)に日く、「慶長十九年寅の正月十八日、六十九歳にて逝去したまひけり、法名玉山白公大居士とそ申ける、然に寒河江肥前守、同十兵衛、長岡但馬、山家河内は内々御供可仕と存ける故、妻子に暇乞し諸事懇に申置、光禅寺にて切腹致けり」とあるのが話しの発端であろうか。それに何かと解釈を加え世上に喧伝されてきた。しかし、それら全てを事実を伝えるものとして受入れてよいのか。ここに、寒河江十兵衛の後裔が伝えた『寒河江家文書』(以下、『文書』)から当時の記録を拾い、少しでも真実を知る手立てを探っていきたい。なお、『文書』は「拾兵衛」とあるが、ここでは「十兵衛」に統一した。
(二)
 「寒河江家略系」
十兵衛元茂-親清-勝昌-勝弘-広政-範勝-元清-元澄
 十兵衛の没後は、草苅薩摩二男の織部(親清)が、娘の婿養子に入り跡を継ぐ。織部は鶴ヶ岡に在勤、最上家改易の際には城内の諸道具引渡役を勤めた。最上家退散後は会津蒲生家に三百石で仕官、主家破綻の後は加藤家に仕え寛永十九年(1642)に没、行年五十五歳。三代・勝昌の時に加藤家没落後の慶安元年(1648)に、松平大和守家に再仕官を果たすと以後、主家の重なる転封に一度は禄を離れたこともあったが、前橋藩にて寒河江の名跡を維新まで伝えた。
 『文書』から四代・勝弘の「勝弘聞書」(以下、「聞書」)に、十兵衛の貴重な生前の姿を垣間見ることができる。その主な箇所を拾い、原文を多少、現代文に書き改め述べてみよう。 日く、「十兵衛ハ義光公二仕エ、武頭鉄砲預リ弐百六捨石ヲ賜ル、義光公折紙黒印有、近所居御心易被召之由、アル時、近習ノ若輩者卜争イガ起キタ、家老達ハ十兵衛ノ非ヲ責メ、切腹ヲ申シツケタ、シカシ義光ノ温情ニヨリ、兎角命御貰御暇被下候由、夫ヨリ仙台在中エ夫婦ハ引篭、義光公ヨリ年々金子給り露名送由、ソノ後、文禄ノ役二義光ノ出陣二際シ、コノ事ヲ遅レテ知ツタ十兵衛ハ、其頃道中筋食物等モ不自由ノ折柄ナレバ、煎粉具足肩懸ヲ支度、義光ノ後ヲ退ツタノデアル、ソシテ御陣小屋参御供支度旨願、則義光公御出有テ御勘気御免、夫ヨリ前々通リ御心易被召仕由、高麗陣ヨリ帰還ノ後、長岡但馬守、寒河江肥前守、寒河江十兵衛三人、面々日頃忍深キ故、追腹御物語申上由、義光公老病六拾九歳、慶長十九甲寅正月十八日御逝去、同二月六日ニ右三人者光禅寺ニテ切腹ス、十兵衛行年五拾五歳、則最上山形三日町光禅寺義光公御廟并三人者墓今有、最上山寺中坊ニモ右之通廟三人者共墓有、十兵衛義光公御在世時、数度取合之砌武功モ有由、委ハ我幼少ニシテ父親類離不具事計也」
 このように、十兵衛の生前を僅かながらも知ることができる。特に義光から目をかけられ、切腹を免れ最上家を退散後の浪人時代、義光から年々扶助を受けていたという事実、そして文禄の役に降し帰参を許されたことなどから人一倍、義光に対して深く恩義を感じていたのであろう。寒河江肥前、長岡但馬にしても、十兵衛と共通したものを持っていたことから、義光の生前中に共に主の死に殉じようと、誓い合った仲間であったのだろう。       (三)
 しかし、「聞書」に山家河内の名が見えないのは何故か。勝弘は十兵衛の死から五十五年後の寛文二年(1669)に生まれ、元文二年(1737)に没した。父からは寒河江の由緒や曾祖父の殉死の話しを、目を輝かせながら聞き入ったであろう。だが、特に寒河江の家の特筆に値いする殉死物語の内に、山家河内の姿が無かった。勝弘の意識の中に河内は存在しなかったのだろうか。
 光禅寺が七日町から現在地に移ったのは、最上家の後に山形に入った鳥居忠政が、寛水五年(1628)に死去の後、長源寺を前任地の岩城から移すため、光禅寺を現在地に移したのだという。その際、旧臣達が義光などの遭骸・石塔などを掘り出し、運んだという。しかし、殉死者の墓についての記録は無い。日く、「…(光禅寺)ニ義光・家信(家親)・義俊三代ノ石塔并殉死四人ノ石塔アリ、殉死ノ石塔ハ百年忌之立申トアリ…」と、百年忌にあたる正徳三年(1713)に、四人の墓が建てられたという。それは従来の粗末な墓を新たに建て直したものなのか。「聞書」は三日町光禅寺に義光と三人(河内を除く)の墓があったことを伝えいる。七日町に在った光禅寺が、三日町(現在鉄砲町二)に移ったことは承知していたのである。
 勝弘の白河藩時代の松平家は東根に飛地を有し、勝弘は代官として元禄十二年(1699)から三年間、東根に在勤していた。山形城下はさして遠くはない。また職務として本藩白河に出向くこともあったろう。その際には光禅寺を訪れ、曾祖父の墓前に手を合わせることもできたであろう。それは正徳三年(1713)以前の、古いまゝの姿であった筈だ。そこには、山家河内の基は無かったのだろうか。若し有れば、勝弘は河内を忘れることはなかった筈だ。また、新しく建てられた墓についての情報は、勝弘周辺には伝えられてはいなかったのだろうか。
 河内を除いた三人は、義光より受けた共通した恩義に報いるため、生前に話し合い腹を切ったと伝えている。仮に河内が三人とは別行動で腹を切ったとしても、同輩の河内を殉死者から除いて伝えていくだろうか。この「聞書」から、山家河内の名が除かれているということは、勝弘が見聞した限りに於いて、正徳三年(1713)以前の様子を、「聞書」に書き残したのであろう。また幕末に生きた七代・元清の「覚書」も、「聞書」を踏襲しており河内の名は無い。
(四)
 現在、この殉死の話しが色々な形で語り伝えられている。話しの多くは十兵衛と肥前の二人の寒河江氏であろう。日く、「肥前守ははじめ義光に強く反抗したが和解し、後に協力したため義光も大いに報いた。  十兵衛も肥前守と同じく義光に反抗したが後に和解、十兵衛は肥前守の子で父と共に義光に反抗、和解後は義光の信任を得る。  中野義時が義光との一戦に滅亡、この戦いに四人は義時に味方したが、以外にも家臣に取り立てられた」などである。
 このように、何ひとつ風聞の域を出ない話しばかりが、世上を賑わし伝えられてきている。しかし今回、僅かながらも十兵衛の生前の姿を知ることができた。また「聞書」は肥前についても書き残していた。日く、「寒河江肥前守卜云者、最上村山郡中野村エ義光公鷹場ニテ、同村安楽寺御休之節小僧有、生付発明故御貰有テ御側坊主勤、段々御意ニ入、壱万五千石迄被下置、肥前守江寒河江苗字被下置由、地下人子卜聞并越前大守仕官寒河江甚右衛門卜云者有、此者肥前守家来跡絶ニ付名乗、云々」とある。これが福井藩の記録では、寒河江監物の子の甚右衛門の系統と、肥前の子の新次郎俊長の子、惣右衛門との二系統の寒河江氏として仕えている。
 このように、十兵衛の一族とは直接の血縁関係は無さそうである。ただ三代・勝昌(延宝七年没)頃までは文通していたようで、故郷を離れてからある時期まで、互いにその消息は分かっていたようだ。山家河内については、山家城主であったという。そして子の勝左衛門が楯岡(本城)豊前守の家臣となったという。長岡但馬についても、はっきりしたことは分からないが、子の伴内が庄内藩酒井家に仕えている。
 天明八年(1788)、幕府巡見史に随行し東北の地を歩いた古川古松は、『東遊雑記』に荒れ果てた最上家墓地の有様を書いている。日く、「……山形に光禅寺という禅院あり、最上氏墳墓の地にて百万石領し給う節建立あり、その節は堂塔魏然として結構なりしに、物替わり星移りて今は破壊の古跡となれり、境内広く、最上義光その外の塚など苔むして残れり…」
■■小野未三著



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