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mespesadoさん講義(147)歴史経済鷲掴み→未来ビジョン [mespesado理論]

堺のおっさんとmespesadoさんのすごいやりとりです。5つのポイントに整理してみました。歴史・経済をまるごと鷲掴みにするような議論です。その結果、未来ビジョンがくっきり浮かび上がってきます。堺のおっさんの「自分で言ってて半分意味不明」の言葉に「預言」性を感じます。

①國體と政体(為政者および外圧)の二重構造の日本→仁徳天皇の逸話忘れ去られそうな日本の国家構造を生かす局面?(堺のおっさん)

②「通貨発行権」<「通貨(貨幣)主権」<「経済主権」経済活動の「仕組み」を定めて「強要」させる「権力」のこと)

「公助」:経済主権を持つ者が、放置していると国民が困る状態になると見込まれたとき、ある強権を発動して財の流れを変更し、国民の困窮を改善しようとする行為

④「大胆な財政出動で援助」こそ「正しく国民救済のための知恵」

⑤貨幣が純粋に交換価値以外の属性を排除した貨幣主権下の管理通貨となったとき、ほんとうの「近代国家」となる。(堺のおっさん)

*   *   *   *   *

904:堺のおっさん:2020/09/22 (Tue) 20:14:03
>>902 メッさん
私は、仁徳天皇の逸話を少し違う視点で現在にも通じるものと。
国家と言うものを人間は近代までは認識することは無かった。
日本でも江戸時代まで、ほとんどの日本人は
自分が日本人であるとは考えていない。
一方で、日々の生活を菅総理流に言えば…
自助と共助で成り立たせていることに何の疑問もさしはさまなかったことと思う。
村八分なんて概念もあったくらいで、生まれてから死ぬまで
公的なことは共助の範疇で生活していたことは間違いない。
公助を期待するには多大な犠牲を払い、一揆をおこすくらいしか手段はない。
ところが、近代国家が成立して以降は少ないながらも、
生活の中に国家による公助の分野ができてきた。
その代わりに縮小されたのが共助の範疇でもあった。
つまり、共助と言う分野に国家による公助が少しずつ肩代わりしてきた。
私はそのように考えます。
したがって、仁徳天皇の逸話は一揆など起こさなくとも
公助を例外的に発動した事例として、
今日の近代国家の時代にあっても通用する逸話であると考える。
現在の日本は公助を大胆に発動しても国家の屋台骨が揺らぐことがない
私は必要な公助を発動するかどうかは今でも為政者の胸先三寸であると。
但し、きわめて輪郭がぼやけた状態ではあるが…
日本の国家が國體と政体(為政者および外圧)の二重構造であることから
仁徳天皇の逸話はあり得ても良いものでもあると考えます。
むしろ、忘れ去られそうな日本の国家構造を生かす局面
差し掛かりつつあるのではとも。
今はこの辺まで。

905:堺のおっさん:2020/09/22 (Tue) 20:37:06
>>904 つづき
仁徳天皇の逸話は厳密に言えば公的な援助の発動ではない。
生活を自助と共助で再建しなさいと言う政策。
現在で言えば消費税減税をはじめとした減税策
それでも数年かかるので、間に合わない部分を
大胆な財政出動で援助する必要もある。
かの逸話は現在にも通用するものであると。


910 名前:mespesado 2020/09/23 (Wed) 20:36:27
>>904 >>905
 堺のおっさん様。数々のするどい視点を提供していただき、ありがとうございます。
 確かに国家というものに対する認識が仁徳天皇の時代と現代とで異なる、という視点は非常に大事です。そこで、この仁徳天皇時代と現代の対比を、「国家」という概念を持ち込まずに表現する方法を考えてみます。
 以前に「通貨発行権」より「通貨主権」の方が本質だ、という話をしました。ところが、現代はともかく、仁徳天皇の時代はそもそも「通貨」というモノが十分発達も流通もしていませんでした。そうなると、「通貨主権」より更に根源的な概念は何か、ということを考えなければなりません。そこで「経済主権」という概念を考えてみることにします。経済活動とは、モノやサービス(これを「財」と呼ぶことにしましょう)の「生産」と財の「消費」を結びつける行動のことに他なりません。そして、「経済主権」というのを、この経済活動の「仕組み」を定めて「強要」させる「権力」のことである、と規定することにしましょう。
 さて、そこで堺のおっさんが >>905 で取り上げた菅総理の「自助、共助、公助」を、この「経済主権」との関係で再定義すると、「公助」とは、国家による国民への「援助」とか「給付」というのがことの本質ではないことがわかります。なぜなら、堺のおっさんが >>905 で

> 仁徳天皇の逸話は厳密に言えば公的な援助の発動ではない。

と述べておられるように、「国」は別に「財」を援助したわけではありません。単に税という「供出」を止めただけです。とはいえ、これを財の「マイナスの現物給付」と言えないこともありません。ところがこれに対して「現代」の方は、国は「財」を一切「提供」もしていないどころか、逆に国民の方も「財」を何ら「供出」もしていません。財のやり取りは、あくまで国民と国民の間でしか行われていません。では国は何をやっているのかというと、「貨幣」というそれ自体は「財」でも何でもない単なる「道具」をうまく使うことによって、「財」の「流れ」を人為的に変更しているだけです。
 つまり、「公助」とは、「経済主権を持つ者が、放置していると国民が困る状態になると見込まれたとき、ある強権を発動して財の流れを変更し、国民の困窮を改善しようとする行為」に他ならないことがわかります。
 すると、「共助」とは、「経済主権を持たない者同士が、自分達が困る状態になると見込まれたとき、互いの合意を得て財の流れを変更して、自分達の困窮を改善しようとする行為」のことであり、「自助」とは「自分だけの努力と工夫で財の流れを変更して自分の困窮を改善する行為」だということになります。
 このように考えたとき、仁徳天皇の場合は、「経済主権」を持つ天皇自身が、自分を犠牲にして税を免除するという「強権」を発動して民を助けた、ということであり、これはある種「対症療法」を行ったというだけのことであり、例えば「農業の生産効率を上げる方法を伝授した」というような、自分を犠牲にせずに民を助ける方法を提供したという「根本的改善」の話ではないのですね。これは、現代のような「カラ箱」に過ぎない政府の場合、自分の取り分というものが無いのですから、政府は、仁徳天皇のときのような「自己犠牲」という対症療法で国民を助けることは最早できないわけで、国民を助けるには「何らかの政策の企画立案」という「知恵」が必要なわけです。ところが現代の政治家は、この本質的な違いに気付かず、仁徳天皇の自己犠牲にでもヒントを得たのか、しかもご丁寧に国家と国民を混同した上で、「増税という痛み」を国民に強要しようとしたり、規制緩和で「弱い企業を淘汰させる」というような「自己犠牲」を強要するだけで国民の困窮が改善されるかのように錯覚しているのが実態なわけです。
 つまり、①国は上で説明したような「経済主権」を持っていること、②現代では国は唯の「カラ箱」なので自己犠牲で困窮を救うことはできないこと、そして③貨幣は財ではないのだから、貨幣を配ることは決して「タダで財を提供」するという意味ではないこと、をきちんと理解する必要があるわけです。そう考えると、私が >>877 で紹介したような、菅さんが著書に書いていたような

> いたずらに給付を拡大しては、国民の自立心は薄れ、国への依存心ばか
> り大きくなってしまいます。

という考え方は、その根底に大きな錯覚が横たわっていることがわかると思うのです。そういう意味で、堺のおっさんが >>905 で最後に述べた

大胆な財政出動で援助する必要もある。

というのは、決して仁徳天皇の税の免除のような「自己犠牲による対症療法」などではなく、「国民の自己犠牲でもなければ、国家による財の給付でもない、正しく国民救済のための知恵」であることも同時にわかると思うのです。

912 名前:堺のおっさん 2020/09/24 (Thu) 10:42:40
>>910 メッさん
いつも舌足らずの書き込みを大変な労力をかけて噛み砕かれていることに感謝。
概念化と言う作業は、説明において重要な作業ですね。
貨幣主権、経済主権。
この真新しい概念は、今までにはなかった。
今までしっくりこなかった部分にも光が射し、
あらためて理解が進みました。
貨幣とは何か?
これまで金本位制下以来、交換価値と使用価値の二つの側面から考察されてきた。
現代の貨幣は純粋に交換価値以外の属性を排除した
貨幣主権下の管理通貨へと変われるかどうか。(自分で言ってて半分意味不明)
これができれば、本当の近代国家が誕生するでしょうね。


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