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茂吉の恋 [宮内]

茂吉とふさ子 日経2.6.28.jpg6月28日の日経日曜版NIKKEI THE STYLE、「恋の文」がテーマ、茂吉と永井ふさ子二人並ぶ写真と茂吉の永井ふさ子にあてた手紙に惹きつけられた。『斎藤茂吉・愛の手紙によせて』は高くて手が出ない。茂吉に焼くように言われて最初の30通ぐらいは焼いたものの、残った120通ぐらいを収録した本。いずれ図書館で見ることにした。永井ふさ子著『あんずの花』」(送料とも1406円)が昨日届いた。
あんずの花.jpg藤岡武雄という人の25ページにわたる巻末解説「斎藤茂吉と永井ふさ子」を一気に読まされた。永井ふさ子の文章があった。浅草での逢引の場面、《「・・・伸びかかった冬の日も昏れがたになっていた。先生はよく来られる所と見えて足早に一軒のうなぎ屋に入り、さっさと二階に上がってゆかれた。広い二階はがらんとして、幾つかの衝立で仕切った席は、他の一組の客がいるばかりであった。やがて鰻と酒が来て、先生は鰻の上に盃の酒をたらして、『こうするとうまいんだ』と言って私の分にも注がれた。僅かばかりの酒で、先生は上気した顔をかがやかし、食卓の下に伸ばした足を、恰も子供が喜ぶ時のしぐさの様にばたばたさせて、いかにも楽しそうであった。あまりの無邪気さに私は少なからず面食らった。・・・」》その後外に出てはじめての接吻を交わすが、巡査に見つけられて調べを受けるという、茂吉らしいおまけもつく。

ここを読んでうれしかったのが、ふさ子を面くらわせた子供の様なしぐさ。黒江太郎の体験を思った。昭和22年、茂吉が宮内での歌会に来て黒江宅に泊まった時のこと、《先生は目をつむって、『いい歌作ったす。「道のべに‪蓖麻(ヒマ)の花咲きたりしこと何か罪深き感じのごとく」、どうだ、「何か罪ふかき感じのごとく」はいいだらう。それからこんな歌も作った。「少年の心は清く何事もいやいやながら為ることぞなき」、何事もだぞ。「いやいやながら」はいいだろう。こんなあたりまへの事だって、苦労して苦労して作ったものだ。苦労した歌はいい。』と仰言った。『おれは天下の茂吉だからな。』、先生は一段と身をそらして、恰も殿さまのやうに両肱を左右に張って見得をきった。愛嬌としてそうするのでなく、そのとき本気なのが、私にとっての茂吉の茂吉たるゆえん。茂吉が「親しい人」になる。茂吉は、永井ふさ子に対してのように、黒江太郎に対してもすっかり心をゆるしていた。

高橋美子m_E7BE8EE5AD90E38195E3829310-DSCF1727.jpgただならぬ永井ふさ子との恋についてこのたび知るにつけて、あらためて茂吉の高橋よし女史への執心が気になった。茂吉が永井ふさ子と出会った時、茂吉52歳、宮内での歌会の時は65歳。→https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2014-06-25

黒江家蔵m_1-DSCF1737.JPG茂吉が泊まった蔵屋敷のある蔵はわが家の裏からすぐ見える。大正の終わりか昭和の初め、その蔵を建てたのが宮内で羽振りの良かった頃の須藤永次だったことに最近気付いた。

祖父の従兄弟が上山で旅館をしていて子供の頃いつも祖父に連れられて行ったが、その旅館(大木又八旅館)と茂吉の弟が婿に入った山城屋旅館が縁戚だったかで、子供心に茂吉のことが親しく話されていたのを聞いた記憶がある。「もきっつぁん」という呼び方が私にはいい。

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めい

●悪妻を持っていた有名人は誰ですか?
https://jp.quora.com/

歌人の斎藤茂吉の妻てる子は悪妻と言われました。

茂吉は15才で上京し斎藤家の長女てる子の婿となった。入籍したのは茂吉24才、てる子11才であった。幼な妻として愛されたようで後年の二人の関係とは違った。

寝ねがてにわれ煙草すふ煙草すふ少女は最早眠りゐるらむ  茂吉

てる子は絶世の美女ではないが器量はますまずでハイカラで明るい性格てあったが茂吉はもっさりした田舎丸出しの人だった。妻と茂吉は結婚した頃からそりが合わず気に入らないとてる子を殴った。そして二人の夫婦生活もうまくゆかず茂吉は芸者を相手にしたこともあった。そして夫と気の合わぬてる子は青山脳病院の医師と懇ろになった

昭和8年の新聞記事には、銀座のダンスホールで不良教師が常連の「有閑マダム」らと派手な遊興を繰り返したので、警視庁により検挙されるという事件があった。

その有閑マダムの中にいた「青山某病院長医学博士夫人」も取り調べを受けたというのである。これがてる子の「ダンスホール事件」である。

茂吉はこのスキャンダルで「精神的負傷」で妻てる子に家を出るように言う。一旦秩父に預けられ、昭和9年春、上ノ山の山城屋に預けられる」その手紙には「てる子謹慎する必要あり、世話は1日2食で良く、あとはかまふこと不要、外出いかぬ、新聞、手紙いかぬ。人と交際させぬよう」とあり厳しいものであったがてる子はかなり自由に過ごしていたと北杜夫が書いてます。

7月には一旦帰宅したが家には入れて貰えず結局自宅に戻ったのは昭和20年3月であった。

茂吉は、昭和11年に女弟子の永井ふさ子を意識するようになり、浅草寺で接吻する。

茂吉は、「四国なるをとめ恋しもぬば玉の夢にもわれにゑみかたまけて」

そして「手紙は二人ぎりで絶対に他人の目に触れしめてはなりまぬ、さうして下さればつぎつぎ心のありたけ申します。・・・・」そして二人は待合で結ばれた。

「ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか・・・・。」

茂吉は120通もの恋文を書くが昭和13年ふさ子は結核で亡くなった。

その間、てる子は家に入れて貰えなかった。

茂吉は山形に20年4月疎開、てる子も長男の嫁が若かったので家を取り仕切るため自宅に戻たった5月、青山脳病院は焼失。

知人宅に家族みんなで寄宿、翌5月長男茂太が見つけたボロ家に移り茂吉も帰宅。

その後家が狭いため、てる子は出版社に借金をして代田に家を買う。

長男の嫁が3人目を身ごもった時、真顔で「男の子が二人いてやんちゃなのに今度も男の子だったら里子に出しましょう。」と言うので嫁の美智子は驚いた。

昭和25年大泉に移り昭和28年2月、茂吉が亡くなった。仲の悪かった輝子が看病したといいます。

その後、茂吉の著作権料で羽が生えたように輝子は外国旅行に屡々出かけマスコミの話題となりました。

茂吉の私が好きな歌です。

最上川逆白波(さかしらなみ)のたつまでふぶくゆふうべと なりにけるかも  茂吉


by めい (2023-09-08 04:32) 

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