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龍口神社御神体拝観(1) [熊野大社]

一昨日(5月13日)、南陽市金山明神堂の龍口神社(龍の口明神)を熊野大社末社厳島神社に合祀するための御神事に参列した。

龍の口明神.jpg龍ノ口明神位置図.jpg『山形県神社誌』によると、龍口神社は《文応元年高橋安房守の創建。文久二年八月再建。慶応三年六月神祇伯令備前守大江朝臣殿より神霊を奉遷する。》代々七兵衛の名を継ぐ高橋家は南陽でも有数の旧家で、家系譜によると、小四位源朝臣頼親七代の孫三宮蔵人長親末流源長安こと高橋石見守(安房守?)、代々会津の芦名家に仕えていたが、不遇だった長安は世を遁れ勝景の地を探り、松島・南部・象淘・山寺を経てこの地に居を構えたと伝えられる。それが文応元年(1260)、つまり勝景の地を求めてついに採し当てたその土地がまさにわが北条郷金山の里であった。その位置に関しての不思議がある。この明神様と吾妻の最高峰西吾妻山とを結ぶと、ぴったりその直線上に戸塚山古墳のある米沢の戸塚山頂が重なり、赤湯の稲荷森古墳と飯豊山頂とはこの位置からぴったり60度の角をなし、さらに小松の、天神森古墳と大朝日岳山頂とはこれまたぴったり90度なのである。置賜盆地から望むことのできる三大高峰と盆地内三大古墳との、龍の口明神を介したこの不思議な関連には一体どんな意味が隠されているのだろうか。/ 因みにこの金山地区は、金が発見される以前には、神山(かみやま)郷とよばれていたそうである。》勝景の地 金山郷 https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2015-02-12

合祀の経緯について記す。
宥明上人長南年恵女史を顕彰する神社建設地を探していた飛騨高山の六次元会と氏子高齢化で今後の維持存続に悩んでいた高橋家当主の武一氏、双方の思いが相寄って熊野大社にある同祭神の厳島神社への合祀の運びとなった。その手続きを北野宮司とともにやったが、その煩瑣なこと、時間のかかること、私のような大雑把な者にとっては言語を絶するものだった。神社庁の許可を得ることから始まって、県に届け出て法務局での登記に至るまで一年以上、とにかく神社庁が大変だった。お役所以上のお役所になっている。神社合祀は北野宮司にとっては初めて、山形県の神社庁にとっても滅多にないことのようだった。存続の危機にある神社は全国に多くあるはずなのに、ほとんどが自然消滅なのだろうか。ほったらかしにされた神様、そして、これまで神社を崇敬してきた先人の思いはどうなるのか。神社本庁にそのことの認識はあるのだろうか。富岡八幡宮事件関連記事を思い出した。 いわく、そもそも国が亡びる前には必ず宗教界が腐敗するものであり、これを機に八幡(ヤハウェ)の宮が徹底的に清められることを望むものである。(野崎晃市)》→「神社界の禊(みそぎ)」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-09-17 。次の言葉もある。《神懸りの神の啓示によって、一大事を決するのが古神道だった。だが奈良平安のころから段々とそれが乏しくなり、近世にはそれがなくなったとすれば、古神道の本質は、すでに十世紀も前に亡び去ってしまっているのではないか。神の意思のままに信じ、その信によって大事を決するのが神道ではないか。それなのに、神懸りなどはないものと決めて、神前では、人知のみによって思想しつづけ、ただ人間の側から神々に対して一方通行で祈っているとすれば、 それは、ただ独りよがりの合理的人間主義で、本来の神道ではあるまい。》(葦津珍彦「古神道と近世国学神道」『神国の民の心』 島津書房 昭61所収 https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-11-22(つづく)


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