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mespesadoさん講義(6)わからないけどとにかく記録しておきます [mespesado理論]

mespesadoさんと出世外人さん、うーん、ちんぷんかんぷんなのですが、いつか、「ああ、このことなんだ」と言える時がくるような気もしています。

*   *   *   *   *

108:mespesado :2019/12/15 (Sun) 08:45:30
へっぴりごしさんの記事↓
【日本人はすぐ「いい人」になりたがる】遠子先輩さんの仰るのが「正論」ですね。
https://ameblo.jp/yamatokokoro500/entry-12558406572.html

> 遠子先輩さんツイートから~

>> 【日本人はすぐ「いい人」になりたがる】
>> 基本的には同情や親切のつもりなんだろうけれど、ちょっと待て!
>>
>> その薄っぺらな同情や親切が売国奴への最初の一歩。
>>
>> 郷に入っては郷に従え。必要以上に譲るのは止めよう。
>> https://t.co/sHAI55C4Nm
>>
>>> 静岡市、宗教上で学校給食を食べられない子供への配慮検討

 このツイートで参照されている Share News Japan の記事↓
静岡市、宗教上で学校給食を食べられない子供への配慮検討
https://snjpn.net/archives/171261

> 学校給食で宗教上の配慮検討 静岡市、来年度中にも提供

> ▼記事によると…

> ・静岡市は学校給食で豚肉などの食材が宗教上の理由で食べられない子
> 供への対応を検討していることがわかった。静岡市の田辺信宏市長は
> 12日の定例会見で明らかにし、「来年度中に食べられない食材を除い
> た給食を提供できるよう準備をしていきたい」と述べた。

> 静岡市学校給食課は今年5月、市立小中学校129校を対象に調査を実
> 施。約4万7千人中、33人が給食で宗教上の配慮が必要であることが
> 判明した。33人中15人は給食ではなく弁当、残りの18人は食べら
> れない食材を取り除くなどして給食を食べているという。

> 食べられない食材は主に豚肉や料理酒などに含まれるアルコールだった
> といい、同課はこれらの食材を禁止しているイスラム教の子供とみて、
> 対応を検討している。

> 2019.12.12 15:57

 海外からの移民というか、国内の労働者不足から企業が誘致した外国人が増加し続けていることを受けての「人道上」の措置だと思うが、確かに遠子先輩さんの主張は、彼らに慈悲を掛けただけのつもりが、逆に従来からの日本人の住民に不便やら余計な人的・金銭的な負担を強いることになることに対する警告と思うが、遠子先輩さんは、これに対する正しい対応は「郷に入っては郷に従え」の原則を貫くことだ、と主張している。
 外国人の割合が静岡市のレベルであれば、これは正論だが(もちろんポリコレの人にっては暴論なんだろうが)、実は一般論として考えた場合には、この認識ですら甘い、ということを警告するのが例の飯山女史の本にあるような内容だ。
 ある種の宗教は、神への忠義ということが我々の想像を超えるほどに強い力を持っていて、「郷」よりも「神」に従うことが当然、という思想を持っていることがある。そのような場合、いくらこちらが「郷に入っては郷に従え」と主張しても聞き入れられないことになる。ただし、ある地域に移住した「よそ者」の心理として、自分達が住民の一定割合(ある種の調査ではほぼ5%という数字らしい)以下であれば、あまり自分たちの我を通すようなことはないらしいのだが、この割合を超えた途端に自分たちの主張を通そうとする意識が強まるらしい。そうなると、もしこのクリティカルポイントを超えると、我々にとっての常識、というか生活の知恵である「郷に入っては郷に従え」が通用しなくなる。これは彼らの民度が低いからではなく、彼らにとっては「郷に入って」云々は逆に「郷>神」を意味する「神への冒涜」に他ならないからだ。
 そうなってからでは遅い。その典型的な例がポリコレで外国人を受け入れたテロに晒される欧州の混乱だ。だから、悲劇を防ぐには、そもそも移民を増やすことそれ自体を止めなければならない
 世界水準で「お花畑」の日本は、企業のご都合主義で推進しようとしている「移民政策の副作用」の怖さを侮ってはならない。


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109:mespesado :2019/12/15 (Sun) 10:02:52
 めいさんの「移ろうままに」の最近のエントリーで参照されていた同ブログの過去記事に井筒俊彦氏に関する記事:
https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2013-09-10

があり、その記事のコメント欄に、めいさん自身が「マドモアゼル愛」さんという人の「愛の日記」というブログから引用してきた記事↓
ゼロこそリアリティ New! 2013年11月05日(TUE)
http://www.love-ai.com/diary/diary.cgi?date=20131105
があったので読んでみたところ、ハッとさせられる部分がありました↓

> 今回のというか、毎回ですが、セミナーの中心課題はゼロのリアリティ
> にあったと思います。一般にはわからない、意味のない話しかもしれま
> せんが、今後のあらゆる考えの基本になるもかもしれません。

> それは何かというと、ゼロにこそあらゆる世界の入り口があり、あらゆ
> る情報は多次元も含めてゼロからしか訪れないという、考えてみればあ
> たり前のことなのです。

 これだけだと、「またスピリチュアルお得意の謎かけかよ」と、スピリチュアルを毛嫌いする人からは笑われてしまうような話に見えますが、更に読んでいくと次のような話に発展していきます↓

> たとえば、お金が無くなる、、無一文になる、、、という現象を例に考
> えましょう。

> どんな大財閥もいつかはゼロになる、、、何年、何千年かかるかはわか
> りませんが、形あるものは必ずゼロになるのです。この法則から抜け出
> ることはできません。

> 百億が最大値だった財産家は、やがて十億に一億に一千万にそしてゼロ
> になっていったとしましょう。実際には自分の寿命が先に来て、物質ゼ
> ロの地点に自分が先に行ってしまうわけですが、便宜上、生きていて財
> 産がゼロになる状況を想定してください。

> このとき、百億が最大とすると情報はゼロとなり、最大値において情報
> から途切れたエントロピー最大値で崩壊の過程に入ります。

崩壊の過程に入ると質量が減るにしたがって情報は増えていくのです。
> 情報とは思念ととってもいいし、感情ととってもいいし、思いと思って
> もよいでしょう。要するに心や魂の働きのように、間違いなくその働き
> はあるものの、数値とてしては存在していないものを情報という言葉で
> 表現しています。と思ってもいいです。

> それは質量の減少とともに逆に増大していくのです。百億が10億にな
> る崩壊過程においては、90パーセントの情報が逆に増えています。と
> うとう財産を失ったときには、情報はピークに達しているのです。

> この際の情報は財産に関与したこの財産家特有の情報となりますので、
> 財産家がゼロを嘆かずに受け入れれば100億など目ではない多次元の
> 財を今度は引き込むことが可能となります。

> 人生の悲しみがピークに達したときは、だいたいは質量のある金や家や
> 恋人などを失ってしまっていることでしょう。だから悲しく苦しく不幸
> なわけです。

> しかし、情報はその時極大値に来ていることを私たちはつい忘れてしま
> います。形あるものを失うことで、情報の極大値を得ているのです。そ
> れは多次元につながる入り口でもあるので、その後の人生の成功を得た
> 人は、人生の最悪期においてのみ運を得られることになります。

> おそらくこの方程式は間違いないと思います。形を失う比率に従ってあ
> ちらの世界からの情報が増大してきているのです。

> 人間の死ですら、この原理から抜け出ることはありません。肉体という
> 質量がなくなるにしたがって、情報の世界のエネルギーは増大していき
> ます。そしてエントロピーゼロ、すなわち死によって私たちは多次元の
> 入り口に立つことが可能になるのです。

 まあ、物理に詳しい人から見るとナンセンスに見えるツッコミ所は多々あると思いますが、ここで私がハッとさせられたのは「情報」こそが物質世界や精神世界の本質だ、とも取れる思想です。
 そうなんですよ。スピリチュアルの精神性って、要するに情報の世界なんですね。
 しかも、私が「発見した」と称する数学の「公理」や「推論規則」の本質も、実は「数学の根幹は『情報』である」ということなんです!
 つまり、「公理」や「推論規則」が私の言葉で「正しい」というとき、それは、これらの概念を「情報の世界」の概念と見做したとき、「絶対的な意味」で「正しい」ということなんですね。
 ここでちょっと >>105 の中で言及した「ラッセルのパラドクス」について説明したいと思います。これ、数学の概念で、しかも天才数学者たちが発見したパラドクスだから一般人には理解できないシロモノなんだろうと思うかもしれませんが、さにあらず。実はすごく簡単なモノなんです(といってもそれを説明する文章が一見ややこしいことは確かですが)。
 「集合」って、カントールの時代には(今でも大多数の、数学の基礎付け問題に関心のない数学者にとっては)「モノの集まり」のことなんです。
 で、「集合」それ自体も数学の世界では「モノ」扱いですから、その「集合」というモノを集めた集合、すなわち「集合の集合」というモノを考えることができます。
 そこで、次のような「集合の集合」を考えます:
 「自分自身が自分自身に属さないような集合を全部集めた集合」
 ちょっとややこしい表現ですが、このような集合を Ω(オメガ)と書くことにします。さて、ここでクイズです。この Ω は集合なので、当然ながら、Ω という「集合の集合」に属すか属さないのかを問うことができますよね?
 そこで最初に Ω が Ω に属す、と仮定してみましょう。そうすると、Ωは Ω の定義である「自分自身が自分自身に属さないような集合を全部集めた集合」に属す、ということですから、これは、Ω が「自分自身が自分自身に属さないような集合」である、という意味、つまり Ω は Ω に属さないような集合である、ということです。でも、これは、最初に Ω が Ωに属す、と仮定したことと矛盾してしまいます。
 それでは、ということで、今度は反対に Ω は Ω に属さない、と仮定してみましょう。すると、これは、Ω が「自分自身が自分自身に属さないような集合」であるということを意味しますから、Ω は「自分自身が自分自身に属さないような集合を全部集めた集合」に属す、という意味になり、これは Ω が Ω に属す、という意味になります。あれれ、これも最初の仮定であった Ω は Ω に属さない、という仮定と矛盾してしまいます。
 つまり、こういう集合 Ω がただ「存在する」と考えただけで、どっちにしても矛盾が生じてしまうわけです。
 カントールやそれに続く数学者は悩みました。だって、集合という概念が、「モノの集まり」という、あまりにも基本的な概念である以上、Ω のような集合を考えることは「精神の自由」であり、それなのにそのようなモノの存在を考えただけで矛盾が生じてしまう。どういうことなんだ?????…というわけですね。
 数学の世界では、ある数学的対象 a が集合 A に属するということを、記号を使って a∈A と書くのですが、数学者たちは、仕方が無いから集合という「モノ」がこの世界だか抽象物だけの世界だか知らないが、何らかの世界に「存在するモノ」であるのだ、という考え方それ自体を諦め、a∈A という表現を、「a というモノが集合 A というモノに属する」という意味を表す省略記号である、といするう考え方を捨て、単に a 、∈ 、A という「記号」をただこの順番で並べただけで、この表現 a∈A 自体は「何も意味していない、ただの記号の羅列に過ぎない」ということにして、ただ、この記号列を含む公理と称する記号列の中から「公理」と称する記号列と「推論規則」と呼ばれる記号列の組み合わせを選んで、これを、ちょうど囲碁や将棋のようなゲームのような単なる「ルール」とみなして、我々は「数学」という名の「ゲーム」に勤しんでいるだけなんだよ、という位置づけにしてしまったのです。
 しかし、数学を囲碁や将棋のようなゲームと同じ扱いにする ━━━
 そういうのは、確かに「数学者」にとってはそれでいいかもしれませんよ。だって、数学者は「未解決問題というパズルを解くことで給料をもらえる」わけだから、これはちょうど囲碁、将棋のプロが「囲碁や将棋のルールに基づいた差し手によって勝つことを目的とした対局をして給料を貰う」のと同じですから、確かに「職業」としては成り立ちますよ。
 でもねえ、数学って囲碁や将棋のようなゲームとは根本的なところで違うでしょ?それは「他の学問分野(特に理論物理や情報工学の分野)にその結果を適用できる」という点。これこそが一番大切な「数学」の意義でしょ?
 それなのに、「いやあ、我々が検討したら、実は数学って人間がご都合主義で定めたルールに従って行ったゲームだったんですよ」などと頭を掻きながらヘラヘラと説明して納得してもらえると思いますか?普通の感覚だったら「わりゃぁ、そんだけのことだったのかよ、ふざけるなァ」とか頭ドツかれて終わりでしょ?w
 で、私の「発見」というのは、「いや、『集合論』というのは意味のない記号列による単なる『ゲーム』なのではない。かといって、一般に思われているような『モノの集まり』でもない。実は、確かにある『現実のモノ』を表している。ただし、その『現実のモノ』とは、あるデジタルな『情報』の一つ、という『モノ』である」ということなんです。
 というわけで、思わぬところで自分が今最大の関心をもっていたことが、めいさんの紹介した記事の中にでてきた話で融合して驚いている、という話でした。

110:出世外人 :2019/12/16 (Mon) 01:04:38
Mespesadoさん
お久です。

「情報」と「物質」の関係ですが、わかるような感じがします。
物理の「位置エネルギー」と「運動エネルギー」のような関係でしょうか。
あるいは、
・お金に余裕がある(物質が「実」)と、気分はのんびり(精神は「虚」)するけれど、
・お金が減ってくる(物質が「虚」)と、気合を入れて仕事をしだす(精神は「実」)
 みたいな感じでしょうか。

「公理」に関しては、私は高校生の頃、結構悩んでいました。
高校生の数学というのは、それなりに「数学」的な厳密さもありますが、一方で、その根本になっている公理に関する考察があいまいというか、速足に済ませて、いきなり代数幾何とかの応用問題をやりますよね。
一応、パズル的に取り組んだり、解法の手順を覚えるとかして試験問題は解けたとして、いつもモヤモヤとした疑問が付きまとうわけです。
「算術と幾何を結び付けて、複雑な計算をするけれど、大丈夫なんだろうか(公理の部分を厳密に考察しないでいて、演算の中でズレが生じたりしないのだろうか?」
「しかし公理が正しいと、確実に証明する方法などあるのだろうか?」
「公理の正しさを証明できないのに、そこから導かれた公式や結果が正しいと断言できるのだろうか?」等々・・・・・

相当モヤモヤしたものを抱えたまま大学に進んだのですが、哲学の授業でデカルトの翻訳『方法序説』を読んで、ようやく合点がいきました。

要は、「数学は論理だ、客観性だ」とか言いながらも、根本的なところは「『bon sens』、良識・良心によるんだよ」ということで、「なーんだ、結局、根本は『思い切り』というか、ぎりぎりの主観の世界なんだ」と腑に落ちました。

「bon sens」はある意味、倫理・哲学・宗教と科学・数学の分水嶺みたいな地点で、デカルト以降は科学ではあまり関心事ではありませんでしたが、Mespesadoさんの研究は、「bon sens」のところを、科学・数学として改めて深く扱っていくものでしょうか

111:mespesado :2019/12/16 (Mon) 07:25:10
>>110
 出世外人さん。私の独り言のようなマニアックな書き込みにレスを戴き、恐縮です。放知技の常連メンバーの中に私以外に「公理」の話に関心を持つ人がいたことに驚き、素直にうれしいです。

> 一方で、その根本になっている公理に関する考察があいまいというか、
> 速足に済ませて、いきなり代数幾何とかの応用問題をやりますよね。

 そうなんですよ。これ、私は「高校生には数学の基礎付けのような問題は難しいから省略してるんだろう」と思っていましたが、そうじゃなかったんですよね。実際に「大人」というか「専門家」にとっても、「数学の基礎付け」については本当のことがわからない、というか、自分たちが想定していたような解決ができない(ヒルベルト・プログラムの失敗)という後ろめたさがあるから、高校生にうまく説明できないから、というだけのことだったようなのですね。

「公理の正しさを証明できないのに、そこから導かれた公式や結果が正
> しいと断言できるのだろうか?」

 いやもうこれ、私が最初に感じた疑問そのものですよ。でも、この質問を数学者にしたら笑われます。「いや、ある問題が『なぜ正しいの?』という疑問を解決するために、その根拠となる、より基礎的な事実を見つけて、そこから数学的に厳密に演繹する。更にその『より基礎的な事実』が『なぜ正しいの?』と疑問に持ち、その根拠となる、より基礎的な事実を見つけて…、ということを繰り返していくとキリがない。この無限の遡りを防ぐためには、どこかでこの無限遡及を終了させなければならないだろう?その終わりにする一番最初の事実に相当するものを公理というんだ。だから『公理』が『証明できない』のは仕方がないんだよ」と。
 ↑これは、まことにスキのない理屈ですから、すごすごと引き下がるしかないように見えますよね。でも、だからと言って、数学が「実は内容に意味はない、単なるゲームに過ぎない」ってのは余りにも極端から極端に振れ過ぎていると思ったのです。

> 哲学の授業でデカルトの翻訳『方法序説』を読んで、ようやく合点がい
> きました。

> 要は、「数学は論理だ、客観性だ」とか言いながらも、根本的なところ
> は「『bon sens』、良識・良心によるんだよ」ということで、「なーん
> だ、結局、根本は『思い切り』というか、ぎりぎりの主観の世界なんだ」
> と腑に落ちました。

 ↑実はこれ、今でも多くの数学者はそう思っていると思うんです。しかもデカルトってフランス人ですよね。実はフランス人って、「明晰でないものはフランス的にあらず(Ce qui n'est pas clair n'est pas francais.)」というだけのことはあって、何でも明確さを極めるところまで貫くのが彼らの性分なところがあります。実際、「形式主義」がデファクト・スタンダードになって以来、この形式主義をタテマエでなく、本当に貫いて数学書を作っちゃった(『ブルバキ数学原論』)のが、このフランス人なんですね。確かにこのブルバキ数学原論形式主義で本当に数学が記述できるんだ、ということを現実に示した功績は大きいのですけれど、何かものすごく「人工的な明晰さ」なんですよね。だって、この数学原論においても、「公理」や「推論規則」は天下り式に与えられ、しかも「普通の日常言語における自然さ」を全く持たない、超不自然な公理を与えておいて、「これを数学のスタート地点とするからそれで満足しろ」という構成になってるんですから、これをbos sens を持った普通の人が見たら、かえって怒るでしょうねw
 つまり、まさにデカルトが言ったことは、要するに「数学ってタテマエは形式主義でガチガチに寸分の隙もないように組み立ててあるけど、ホンネは主観なんだよ」ってことじゃないかと思うんです。
 ところが、こういう風潮に異を唱えていたのがドイツ数学で、こういった数学の基礎の「人工的」さ、「不自然」さに一石を投じたのが、20代で若くして遭難死したゲンツェンという論理学者です。ゲンツェンは、特に「推論規則」のところでそれまでのブルバキでも採用されていた、「人工的」で「不自然」な推論体系を、もっと「自然」な推論体系に書き直すことに成功しました。で、私の発見も、実はこのゲンツェンの延長線上にあります。大切なのは、いくら明晰でも「人工的」で「ホンネはタテマエと違うところにある」ような解明ではなく、もっとタテマエとホンネが一致した「自然」な解釈がある。そして、推論規則だけでなく、集合論の公理、というか「集合とは何か」についても、もっと「自然な」定義がある。そしてその自然さを極めれば、公理自体が「数学の究極はデジタルな認識にある」という立場からきちんと「導出できる」ということだったんです。ですから、数学についてはフランス流の合理性は誠に不自然であり、ドイツの方がマシだ。しかしそれとて、もともとポリコレのようなドグマに感化されやすい西洋哲学の限界がある、と感じているところなんです。

112:出世外人 :2019/12/17 (Tue) 01:15:39
mespesadoさん
>放知技の常連メンバーの中に私以外に「公理」の話に関心を持つ人がいたことに驚き、素直にうれしいです。

前回の書き込みで、公理について「モヤモヤとした疑問」と書きましたが、実は、高校時代、
同世代の多くがあまりひっかからず受験勉強に勤しんでいる中、「公理の部分にこだわっている自分はどこか頭がオカシイのではないのだろうか」と、かなり真剣に悩んでいたのです。
高校の数学では論理学の初歩もあり、三段論法なんかも習いますが、これも疑問だらけなわけです。
A=B B=C 故に A=C 
というわけですが、「こういった論理手法に何か本質的に意味などあるんだろうか?」と思ってしまうわけです。
というのも、A=B というならば、まず「A=B」たる証明をしなければならないし、
そもそも、まずAがAたるゆえんを証明しなければ始まらないわけですが、ここでも「公理」と同じように往々にして、「証明のしようがない」という問題が出てきてしまいます。
大分後年になってから、ラッセルが、
「三段論法は実用性ということではそれなりに便利だが、厳密な論理学としてはあまり意味がない」
といった意のことを書いているのを読んで、デカルトを読んだ時と同様、「なーんだ、やっぱりそうだったのか」と安心したことがあります。
ただ、デカルトを読んだときはもっと若かったこともあり、「腑に落ちた」というより、「やっぱりオレは頭がオカシイわけではなかったんだ」と、大げさでなく心底「ホッ」とした気持ちでした。
ですから公理のことを考えるのは私にとって全然「マニアック」なことではなく、むしろ本質的な関心なんです。
私はこれまで「公理」の問題はむしろ認識論のテーマではないかと感じてきましたが、mespesadoさんは、あくまで数学的にアプローチされるようですね。
私のIQでついていけるか、という問題は別にして、今後の展開、大いに関心を寄せています。
(非常に新しいオリジナルな考えを、一般向けに説明するのは非常な苦心が伴うと思いますので、どうかご自分のペースで・・・)

113:mespesado :2019/12/17 (Tue) 06:47:07
>>112
 うおおぉぉぉ…
 出世外人さん、只者ではない!

> 高校の数学では論理学の初歩もあり、三段論法なんかも習いますが、こ
> れも疑問だらけなわけです。

> A=B B=C 故に A=C 

> というわけですが、「こういった論理手法に何か本質的に意味などある
> んだろうか?」と思ってしまうわけです。

 これって私も同じことで悩みましたよ。「三段論法」という推論の問題もさることながら、そもそも論理接続詞「故に(=ならば)」それ自体の問題。
 コンピューター・プログラムを知ってる人なら、論理接続詞「かつ」とか「又は」とか「でない」の「真理値」っていうのをご存じだと思いますが、その真理値の決め方について、「でない」「かつ」「又は」については素直な決め方なのに、「ならば」についてまず不自然さを感じましたよ。
 ってのは…
「Pでない」の真理値 = Pが真のとき偽、Pが偽のとき真「PかつQ」の真理値 = PとQが共に真のとき真、他の場合は偽
「P又はQ」の真理値 = PとQが共に偽のとき偽、他の場合は真
という真偽の定義は自然なんですけど、
「PならばQ]の真理値 = Pが偽のときとQが真のとき真、他の場合は偽
ってのが納得できなかったですね。つまり P が偽なら「PならばQ」は真だ、ってのがどうにも不自然というかなぜなの?って感じで。
 そもそもコンピュータープログラムの世界では、「でない」「かつ」「又は」の3つと「ならば」では“次元が違”いますよね。だって、どんなプログラム言語にも
 if 〇〇 then ××
っていう命令文がありますが、「でない(not)」「かつ(and)」「又は(or)」の3つは、この〇〇の部分の中で使いますが、「ならば(⇒)」なんて論理接続詞は、まず通常のプログラム言語では使わない。しかし、そもそもこの命令文「if 〇〇 then ××」それ自体が「〇〇ならば××」という意味になっている。だから、「ならば」は、他の論理接続詞とは「次元が違う」。
 このことだけで考えても、論理接続詞「ならば」を他の論理接続詞のと同じく真理値で「定義」することの方が間違っている!と感じちゃうんですよね。
 ちょっと調子に乗り過ぎかもしれないけど、続きます。  (続く)

114:mespesado :2019/12/17 (Tue) 07:29:20
 それから、コンピューターでは出て来ないが、数学にはこのほかに、「すべての」とか「ある」を意味する ∀(for all) とか ∃(there exists) という論理記号もあって、∀xP(x)「すべての x に対して P(x) が成り立つ」と ∃xP(x)「P(x) が成り立つような x が存在する」という風に使うわけですが、これらの真理値というのを
∀xP(x)の真理値 = すべての対象 a に対して P(a) が真なら真、P(b)
          が偽となる b が存在すれば偽
∃xP(x)の真理値 = すべての対象 a に対して P(a) が偽なら偽、P(b)
          が真となる b が存在すれば真
って定義する、って通常の論理学の教科書には書いてあるんですが、ここで問題提起した人がいた。ブラウアーという人で、「これだと ∀xP(x) は真か偽のどちらかであるとは言えないんじゃね?」と思ったんですね。
 例えば P(x) を、x が 4 以上の偶数である場合の命題で、「x は2個の素数の和として表せる」という命題のとき、∀xP(x) って、「4 以上の偶数はすべて2個の素数の和として表される」っていう、数学界では有名な、「ゴールドバッハ予想」という未解決問題になる。で、今のところ、P(4)、P(6)、P(8)、…と、かなり巨大な偶数に対してもコンピューターを使って正しいことは判明しているのだが、「すべての~」というゴールドバッハ予想になっちゃうと、正しいのかどうかまだ解決していない。
 普通の人は、「それは人間にとって真か偽かわからないだけで、真であるか偽であるかというそのこと自体は決まってるんじゃないか?」と思うでしょうが、ブラウアーは、「人間が知り得ない真偽に意味があるのか?」という疑問を持ったわけですね。実際、ブラウアーが「円周率の数字の羅列の中に0が100個続く部分が出てくるかどうかについて真とも偽とも判断できない」という例を上げたとき、聴衆が「でも(全知全能の)神は真か偽かを知ってるんじゃないですか?」と質問したところ、ブラウアーは「残念ながら、我々は神と交信する手段を持たない」と答えた、とのことですが、このような問題「どんな命題も真か偽かいずれかである」という主張を「排中律」と呼びますが、ブラウアーは論理学史上初めて、この排中律に疑問を呈したわけです。で、今日では「人間が知り得ない真偽には意味が無い」系列の主張を踏まえた論理学を「直観主義論理」と呼び、一方の「神の立場」に立つ、排中律は成り立つとする立場を「古典論理」と呼んでいます。
 で、私がこのやりとりに対して抱いた疑問は次のことです↓
--------------------------------------------------------------------
 排中律がどうのこうのという以前の問題として、最初に掲げた ∀xP(x)
や ∃xP(x) の真理値の定義って、そもそも定義になってないんじゃね?
--------------------------------------------------------------------
 つまり、真か偽かどちらかが人間にわかるかどうか以前の問題として、これらの「定義」では、実は真偽値を定義することに成功していないのではないか?という疑問です。
 「え?定義にすらなってない?どういうこと」と思うかもしれませんが、これは人類の根深い先入観にかかわってきますので、長くなるので続きは今日の夕方までお待ちください。       (続く)

115:亀さん:2019/12/17 (Tue) 08:10:24
>>114
令和の岡潔が誕生…

感無量の亀さん@人生は冥土までの暇潰し

116:mespesado :2019/12/17 (Tue) 21:57:18
>>115
 そりゃあ岡潔先生に失礼だw
 で、岡先生と言えば、こんなエピソードが…
 前に名前を出したフランスの『ブルバキ数学原論』の著者のブルバキというのは個人の名前ではなく、実はフランスの天才数学者たちの共同ペンネーム。こういう例があるモノだから、岡先生の業績があまりに膨大なため、欧米の数学者は「岡潔」というのがブルバキみたいな大勢の数学者による共同ペンネームかと思ったという…。
 で、岡潔とか佐藤幹夫っていう日本の天才数学者。フランスの数学者より本質を突く能力は絶対上だと思いますね。フランス数学はやはり「人工的」な匂いが強くて「自然」じゃない。その点、日本の数学者は「自然」な本質を突いてる感じ。ただ、思うのは、日本人は数学者に限らないのだろうけれど、技術的に微に入り細に入るのが得意で、テクニックが半端ない、というのが特徴で、逆に物ごとの根幹の方に向かう、公理の本質とかそういう分野は得意じゃない、というか、好きじゃないみたいな気がする。自分は逆にテクニカルな分野はあまり関心が無くて、本質に迫る話の方が好きなんで、こういう日本の数学者の業績に触れても、何か今一つ感動できない。まあ、趣味の問題っちゃあ趣味の問題なんですけどね。

117:mespesado :2019/12/17 (Tue) 22:41:01
>>114
「4以上のすべての偶数が2個の素数の和であらわされるなら真、一つでも2つの素数の和として書けない4以上の偶数があれば偽」として真偽を定義するという話。
 このようにして定義される「ゴールドバッハ予想」と呼ばれる問題は、多くの天才数学者の努力にもかかわらず、未だに真か偽かを判定できず、未解決のままである。
 だけどそれは「人間にとってわからない」だけであって、全知全能の神には答がわかっている。ただ、我々人間は神と交信する手段が無いので答はわからない…。
 ↑この認識自体がマチガイだ、という話をするんでしたね。
 冒頭の「…」の中で、真の方の定義が、実は定義にすらなっていない、という話をするんでした。
 これね、巷によくいる変わった人、つまり「計算は早いし難しい数学の論文はすらすら理解できるんだけれど、人の話の行間を読んで省略している部分を補うのが大の苦手で、しかも想像力が著しく欠如していて連想能力が全く無い人」に対して「4以上のすべての偶数が2個の素数の和であらわされるとき真であると定義するんですよ」と説明して意味を理解してもらえるか、という話なんです。
その人「すべての、ってどういう意味ですか?」
説明者「え?すべて、という言葉の意味もわからないの?アナタ、
    ニホンジンデスカ?」
その人「はい。わかりません。ただし100000000以下の全ての、
    ってんなら意味はわかりますけれど。4と6と8と10と12と14
    と16と……と99999998と100000000と、って意
    味でしょ?」
説明者「なんだ、わかってんじゃない。無限個の場合も、それと同じ書き方
    で説明するなら、4と6と8と10と12と14と16と……、っ
    て意味ですよ」
その人「その『……』の部分を省略しないできちんと書いたらどうなるんで
    すか?僕の例だと、……の部分は全部書き出そうと思えば書き下す
    ことができるんだけど、膨大で時間と労力の無駄だから省略しただ
    けなんだけど、貴方の場合は省略せずに全部書き出す、ということ
    が実際にできないだけでなく、原理的にもできませんよね?」
説明者「確かに無限個あるから書き下すことはできないけど、言わんとして
    ることはわかるでしょ?」
その人「いや、やっぱりわかりません。それって分かったように錯覚してる
    だけなんじゃないですか?そもそも言葉で全部きちんと書き出すこ
    とができないんだったら、それは定義されてるとは言えないんじゃ
    ないですか?」
説明者「…」

 もう一つ別の例を挙げます。
 コンピューター・プログラムで「1以上の n 以下のすべての整数 k に対して P(k) が真なら『真』を返しし、一つでもP(k) が偽なら『偽』を返す」というのは次のように書けばいいですね:
k := 0
do while k < n
k := k + 1
if P(k) = "false" then { return "false"; stop}
end
return "true"
stop

 もしここで「n 以下の」という部分を取っ払って「1以上のすべての整数 k に対して P(k) が真なら『真』を返しし、一つでもP(k) が偽なら『偽』を返す」という内容に変えると、それに対応するプログラムは
k := 0
do while k < ∞
k := k + 1
if P(k) = "false" then { return "false"; stop}
end
return "true"
stop

となるはずですが、k がループ計算でいくら大きくなっても、条件 k < ∞はいつまでも永久に成り立つから、ループはいくら繰り返しても終わりにならないから、end 文の後に続く return "true" に到達することは未来永劫ありえない。ありえない、ということは、このプログラムでは "true" であるという判断を下すことはありえない。ということは、"true" つまり「真」であると宣言される状態は発生しない。ということは、このプログラムでは「真」であるという状態はどういう状態のことをいうのか、ということが実は定義できていない、ということになる。
 つまり、全知全能の神を持ち出すなら、「真であることを神は知ってるが、人間がその答を知ることはできない」んじゃなくて、「真である状態とはどういう状態のことを指すのかが、一見定義されているようで実は定義できていなかった。だから定義すらできていないシロモノなんだから、いくら全知全能の神であっても定義されてもいないモノの答を持っているハズがない」ということになる。というお話。
 私の説明が下手なんで危惧しているんですが、この書き込みを読んだ皆さん、私が言いたかったことの意味がおわかりになったでしょうか?

118:出世外人 :2019/12/18 (Wed) 03:41:50
>>115
 デカルト:「数学は良識(bon sans)である。」
 岡 潔 :「数学は情緒である。」
何か、幾何学的なシンメトリーという感じですね。
あるいはもう一本、原則が入ってくると、「真・善・美」みたいに鼎立して、落ち着きがよくなりそうですね(mespesadoさん、何かないでしょうか)。
そういえば以前、オマンゴロ~さんが、岡潔と小林秀雄の対談集『人間の建設』を読んでいるといった投稿をしていましたが、どうなったんでしょう?
オマンゴロ~さんあたりが、この議論に参加してくると、面白くなるかもしれません(いや、ますます混乱しちゃいますかね)。

>>117
>ということは、このプログラムでは
>「真」であるという状態はどういう状態のことをいうのか、ということが実
>は定義できていない、ということになる。
> つまり、全知全能の神を持ち出すなら、「真であることを神は知ってるが、
>人間がその答を知ることはできない」んじゃなくて、「真である状態とはど
>ういう状態のことを指すのかが、一見定義されているようで実は定義できて
>いなかった。だから定義すらできていないシロモノなんだから、いくら全知
>全能の神であっても定義されてもいないモノの答を持っているハズがない」
>ということになる。というお話。

ん~、何か分かるような感じがします。
とかく「無限」や「無」にまつわることは、割と日常的に話したりするけど、これほど定義の難しいものもないですね。
ちょっとこんな感じ(以下)に近いものがあるのではないでしょうか?

 〇「その人(巷によくいる変わった人)」と「(これもまた巷によくいる)『観念的』合理主義者」の会話
その人:「死んだら、いったいどうなってしまうんだろう・・・?」
観念的合理主義者:「私は宗教も、あの世も信じませんよ。死んだらすべては無になるんです。」
その人:「『無になる』って、簡単に言いますが・・・・『目の前にリンゴがあって、それを食べてしまったから、リンゴは無になった』というレベルの話をしてるんじゃないですよ。
『私』というある意味、自分にとっての『全存在』が無くなってしまったら、どうなるんだろう、という、いわば究極的な無の話をしてるんです。」
観念的合理主義者:「・・・・」
その人:「一体全体、『無』って、どういう状態なんでしょう?
英語にしたら、It is nothing. とでもいうんでしょうか。
でも、『無(nothing)』で『在る・有る(be)』なんて、それこそ矛盾じゃないですか。」

英語のところが適当がちょっと自信がありませんし、数学的な論理からは外れるかもしれませんが、何か、mespesadoさんの論と通じる感じがあります。

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めい

上原聰三に聞いた柳田國男の言葉、どこにメモろうかと「小林秀雄」で検索したら、ここに来ました。(小林秀雄の《過去から未来に向って飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-10-12》という言葉を逆方向から言っているように思えたのです。https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=835070120292215&id=100013677047756
   * * * * *
「真の地方主義は事実を確かめること、そうして結局はどこにも飛び抜けて珍らしいことはないという結論に行くつもりでなくては駄目です」柳田國男

by めい (2021-02-16 19:56) 

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