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『中国は嫌々ながら世界覇権を握る』(副島隆彦) [本]

「賃労働と資本の非和解的な対立」(マルクス)をどう解決するか、という問題提起について考えさせられた。
《賃労働者(いわゆるサラリーマン、勤労者)の側に身を置くか、それとも、自分の能力(才覚) と幸運で資本家(企業経営者)の側に這い上がれるか。あるいは、親の財産を引き継いで地主(土地及び賃貸建物の所有者)の側に、自分の身を置くか。この3者のいずれかの人生を人間は営む。》(114p)この3者を「縛られた時間を生きる者」、「時間を縛って働かせる者」、「何もしなくても生きられる者」と言い換えてみて、ハンナ・アーレントの「労働」「仕事」「活動」の3分類を思った。(→「『AI時代の新・ベーシックインカム論』「労働」観の転倒」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-07-04商品生産のための「労働」、永続性あるものの制作を目指す「仕事」、人間としての正体を明らかにした社会的営みとしての「活動」だ。
有効需要の原理.jpg「労働」はカネのために自分の時間を売る。「仕事」は資本力(カネ)で「労働」を買うことで剰余を得る(つくる)。「活動」はカネから超然。 Y=C+I の式にあてはめれば、「労働」は C に含まれ、「仕事」が I をつくる。「活動」にとってカネは二の次三の次、そもそもカネの心配のないところでのハタラキなのだ。
上記井上智洋著に《これら三つの活動的生活のうち、「労働」は古代ギリシャで「蔑まれた最低の地位」にあったが、近世にはルターによって人々の神聖な義務となり、近代にはジョン・ロックによって「すべての財産の源泉」として評価され、遂にはマルクスによって「最も人間的で最大の力」という高みにまで引き上げられた。/アーレントは、こうした近代における価値転倒をさらに転倒させ、労働をその地位から引きずり下ろすとともに、仕事と特に活動の復権を企図している。》とある。
副島氏は《それ以外に、現代社会では、多くの職種の自営業者を生み出しているが、この人々のことは、ここでは捨象する。》(114p)とするが、「賃労働と資本の非和解的な対立」の解決の方向は「自営業者」にこそあるのではないか。
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《佐藤優氏と私が話していた時、彼は言った。マルクスの『資本論』の勉強をしていてはっきり分かったのは、商品の生産プロセス(生産過程)のところでしか労働者は取り分を要求できない。 労働者への配分(取り分、分け前)は、商品が作られるまでの費用(コスト)の中にしかない。》(108p)
賃労働と資本1.jpg賃労働と資本2.jpg
《マルクスの思想が、再び中国で隆盛するだろう。そして今度こそ、現実味のある思想として人類(人間全体)の幸福ための思想として、再研究されなければ済まない。この時のために私は今のうちから、だから「賃労働と資本の非和解的な対立」を、キレイ事の夢見心地の宗教としてでなく、何とか部分的に解決 (ソルーション)する思想が、 中国で生まれることを、日本から後押ししようと思う。だから、私はこの本を書いている。》(116p)

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