読書論 [若松英輔]
思索への道〜ショーペンハウアーの読書論 若松英輔
言葉のちから

年齢を重ねてくると知り合いは増えてくる。だが、友はどうだろう。ことに親友と呼べるような人たちは、そう簡単には増えない。私の場合、限られた友との関係が深まっていく。そして、そのことに無上の幸いを感じている。
同様の実感が、言葉をめぐってもあって、若いときは、人よりも多く言葉を覚えようとし、あえて難解な文字を用いることに満足を覚えることも少なくなかった。今は、一つの言葉との出会いとつながりの歴史のなかにこそ、深い充足と安堵を感じる。
言葉との関係を量的に見ていた時期に書いた文章は、どうあがいても活字にはならなかった。それどころか書けば書くだけ人知れず落胆の種になっていった。その頃の私は、どのように言葉を使おうかと懸命になって思案していた。
二〇一〇年八月、精確な日時は分からないが、お盆の前後のことである。言葉との関係が変った。
自室のクーラーがこわれて、部屋の温度が体温をはるかに超えていたなか、何かに強く促されるように書いていた。半年前に伴侶を喪い、書くことでどうにか自分の命をつないでいたのである。もしも、書くという営みがなかったら、私の人生はまったく異なるものになっていたと思う。
今でもはっきり覚えている。自分の内心で一つの声がした。誰にも聞こえない無音の声で、しかし、自分には、はっきりと感じられるように「言葉よ、力を貸してくれ」、そう言ったのである。
その声には自分でも驚いたが、素直なおもいでもあった。言葉を使うのではなく、言葉とともに仕事をする。こうした書く態度が、雷鳴が天空を走るように私の内心を貫いた。
言葉を使おうとするとき、言葉はその人の手中にある。言葉の働きを自分の手の中に納まる形に限定しているともいえる。だが、言葉のちからを借りて、ともに仕事をすることができれば、開かれてくる地平はまるで違ったものになる。なぜなら、たった一つの言葉にも、生きるのを諦めそうになった人間をふたたび立ち上がらせるような強靭なエネルギーが蔵されているからである。
ある人にとって「火」は紙を燃やすものに過ぎないだろうが、宮沢賢治のような人にとっては、自らのいのちを燃やし、人生という道を照らすものだろう。哲学者のプラトンにとって哲学とは、魂に不滅の火を灯そうとする営みだった。
もちろん、今でも言葉を使おうとすることはある。しかし、そう感じたとき、私はペンを手放し、本を手にする。新たな気持ちで言葉と向き合い、関係をつむぎ直すためである。
ドイツの哲学者ショーペンハウアーに『読書について』という著作がある。読書論の古典と呼ぶべき一冊なのだが、この本で一貫して説かれるのは、読書の効用ではなく、読書の罠と呼ぶべき現象である。そして、彼が促すのは、読書ではなく、読書の彼方ではじまる思索なのである。「読書は、他人にものを考えてもらうことである」と書いたあと彼はこう続けている。
「本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持になるのも、そのためである。」(斎藤忍随訳)
思索なき読書とは、情報や知識のための読書であり、虚栄のためのそれでもあるかもしれない。こうした「なぞる」読書をしているとき、言葉は「使い」得るもののように映り、読書とは、本を書いた人の言葉の使いっぷりを眺めることであるのかもしれない。
「使う」と「用いる」は似た言葉だが、明らかに語感が異なる場合もある。対象が言葉であるとき、そして人間である場合がそうだ。
言葉を用いようとするとき、私たちの胸には言葉に対する畏敬、畏怖の念がある。人間に対しても同じだろう。だが言葉を、あるいは誰かを使おうとするとき、人は気が付かないうちに傲慢の心を宿し、迷路に足を進めている。
この本でショーペンハウアーが、思索へ通じる営みとして促すのは「書く」ことなのである。「読む」ときも「書く」ときも人はひとりになる。誰の人生にも、ひとりになり、言葉とともに歩き始めたとき、はじめて開かれる意味の扉、人生の門のようなものがあるのではないだろうか。
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