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『古代史ホツマツタヱの旅 第5巻 』を読む [本]

古代史ホツマツタヱの旅 第5巻 Kindle版 .jpg
古代史ホツマツタヱの旅 第5巻 Kindle版 を読んだ。Kindle版は無料で読める。白山姫について知りたくて第5巻から入ったがいずれ全巻目を通すことになると思う。
古事記・日本書紀という色眼鏡を外したところで見えてくる自然な世界、それが「ホツマの世界」。著者の自然体を通してホツマツタエが気張らずにわかってくる。
《戦後生まれの私達は、戦前の文部省が作った国家観「国体の本義(注:「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ」)」については、少なからず反発を覚えざるを得ないでしょう。国体の本義を読むと、あまりにも古事記・日本書紀(以下記紀と表現)にある神話を強調しすぎるがゆえに、きわめて異常な表現になっていることが、分かります。ホツマツタエでは、私達の祖先は、神話に登場する神ではなく、過去に実在した人々です。実在した人の歴史と、天から来た人(神?)の歴史では、国の歴史を考える上で、天と地の開きがあります。》ところが、《記紀編纂(八世紀)当時(奈良時代)は、天皇を中心としたきわめて宗教色の強い国家でした。それは、天皇の起源が、天から来たという話(神話)に基づいて、国家観が組み立てられていたからにほかなりません。この国家観は、歴史変遷の過程で、強弱はあったものの、第二次世界大戦での敗戦まで変わらなかった、と言っても良いのではないかと思います。》さらに、ところが、《戦争に負け、神国日本という考え方が崩壊し、民主主義となった国が、今の日本です。》さらにさらに、ところが、《民主主義が定着することは、とても良いことと思いますが、戦前の歴史観のすべてが否定されている現状は、これまた行き過ぎの面もあるかと思います。》そうして出会った「ホツマの世界」。そして神社あるいは陵という具体的な存在によって、「ホツマの世界」の真実性が立証されてゆく。《例えば、ヤマトタケ(日本武尊・やまとたける)の父、景行天皇(ヲシロワケ)が実在していたことは、天皇陵の存在からも明白ですが、戦後の教育では、全くこのことを教えていません。》その真実をその場、その神社に足を運ぶことでひとつひとつ確認してゆく。われわれと神々が同じ世界に生きている、そのことがよくわかる。
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《菊理媛はシラヤマヒメのことであり、彼女は、赤子のアマテルカミの産声を聞きとったことから、ククリ姫とかキクキリ姫と言われていたのです。ここから菊理媛(くくりひめ)の名が漢字であてられたのでした。シラヤマヒメは、イサナミが亡くなられ、イサナギ(シラヤマヒメの弟)が、自分の妻、イサナミの亡きがらを見に行きたいと言いだした時にイサナギを制止しています。それはイサナミがお亡くなりになってから、かなり経過していたので、遺体の腐乱を心配していたこともあったのでしょう。シラヤマヒメの助言も聞かずに、イサナギがイサナミの墓所に行き、みにくい遺体を見てしまったために、イサナギはイサナミ霊に祟られてしまうのです。案の定、イサナギは夢の中で「見られたくもないこのような私の顔を何故見てしまったのか」と、イサナミ霊から怨まれ、厳しい叱責を受けたばかりでなく、八人の醜女(しこめ)を送り込まれ、仕返しを受ける羽目になってしまったのです。》
《七代アマカミのイサナギさんが、イサナミさんのご遺体を見てしまったっために、夢の中でイサナミに怨まれ、シコメ(醜い女性)に追われた、という記述があります。このときイサナギさんは桃の木に隠れ、桃の実を投げることで、シコメからようやく逃れることができました。(五アヤ一七)この時の桃の実を「オフカンツミ」といいました。「魔よけの木の実」ということだそうです。(池田氏説)ニニキネは、この謂れを参考にして、桃の実(オフカンツミ)をニハリの宮の造営の際に、宮柱の下に埋めました。(二一アヤ一二)》
神国日本の国家観が行きつくところは「妥協することが出来ない国家そのもの」です。明治になり、他の帝国主義の国々と競うような国家戦略をとったことから、将来における他国との戦争は不可避なものになっていきました。ホツマツタエにおけるアマカミ(古代の天皇)の歴史は、私利私欲にとらわれることもなく、ひたすら国民のために尽くそうとしていた指導者の歴史です。このような歴史を知れば、他国の国民を巻き込むような戦争は、本来行なわれないはずです。古事記・日本書紀から生まれた神国日本という国家観により、結局のところ大きな代償をはらう結果となってしまったのです。》
《各地に伝わるお祭りはご祭神への感謝の表現なのでしょう。みんなで「わっしょい、わっしょい」と神輿(みこし)を担(かつ)ぐ行事は、いつしか参加する人々を古代の世界に引き込んでいるのです。/各地の神社を訪れる楽しみの一つに、神社の持つ独特の景観や、雰囲気というものがあります。それも神社の内(鳥居から先)だけでなく、周辺の景観(山や川、森や水田など)も一体的に味わってみるとよいでしょう。水田に水を注ぐ井堰(いせき)やあぜ道は、古代からこれまで変わらずに受け継がれてきたものです。神社を中心としたこうした風景は、日本が誇るべきすばらしい景観と思います。ホツマツタエを研究することを目的とした神社訪問は、もしかしたら私達の心に何かを訴えかけてくるかもしれません。そのうちに古代日本人の心情も、感じとることが出来るようになってくるかもしれません。私には神社から、なぜかこの国を築いた古代人の思いが伝わってくるように思えてならないのです。できたらこうした感覚をもって、その土地の歴史や祭りも調べて見たらいかがでしょうか。歴史変遷で古代人の足跡が、どのように変化していったのかを推理してみるのも面白いかもしれません。私はホツマツタエが、多くの人によって研究されていくことで、記紀の国家観とは全く異なる新たな国家観が生まれることに期待しています。農業国として始まり、神ではなく人の営みの歴史としての国家観です。それはまぎれもなく平和をもたらす国家観になることでしょう。》
以下は第1巻から。
《 私達が最初に学ぶ歴史は、古事記や日本書紀の記述にもとづいています。しかし、よく考えると歴史書というものは、その時、つまり編纂された時の政治情勢に、大きく関わっていることがわかります。記紀が編纂された時代は、日本が唐と新羅の連合軍に、この国の歴史上初めて敗戦を喫した時代でもありました。この戦争を白村江の戦い(六六三年)と言います。それから約五〇年後に記紀が編纂されたのです。その間に、大きな内乱が皇室の間で起きました。壬申の乱です。白村江における敗戦で、国内の権力構造が変わったからでしょうか。歴史書を作らねばならないと言うことは、時の権力者が、時代の大きな変化を受け、国の将来のために、記録を残そうとする意識が働いたからに違いないのです。記紀の編纂が終った時期は奈良に都を遷した(七一〇年)直後でした。古事記(七一二年)が先に完成しましたが、日本の正史とされたのは、日本書紀(七二〇年)のほうでした。》

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