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『古代史ホツマツタヱの旅 第1巻』を読む [本]

古代史ホツマツタエの旅 第1巻.jpg
壬申の乱で天智天皇の子大友皇子を撃ち破って天武天皇となった大海人皇子は、自らが大和朝廷の天智天皇の「実弟」となることによって、己れの出自である倭国の存在を大和朝廷に溶かし込む。こうして天武天皇は「正統」の地位を得た。その根拠たるべき書として編纂されたのが『日本書紀』だった。しかしその後、天智天皇系である藤原氏(中臣氏)は、皇位から天武の血を排除することに成功する。それ以降大海人皇子の政権奪取は「壬申の『乱』」として語られる。天武天皇の所業が「悪行(乱)」と見なされるようになった(守谷健二説)。平安朝において『日本書紀』は、神代より世にある事を記しおきけるななる日本紀などは、ただかたそばぞかし。これら(物語類)にこそ道々しく詳しき事はあらめ日本紀などはその一部分に過ぎなくて、小説のほうに正確な歴史が残っているのでしょう)》『源氏物語』(蛍の巻)と笑い軽んじられていたという。

捏造された歴史の前にある、今のわれわれのあたりまえの感覚で理解できる世界、それが「ホツマツタヱ」の世界だ。本来、神も人も同じ世界に生きている。

《そもそも天孫降臨と言うことばは、記紀のどこにものっていません。これは後の国文学者や歴史学者の造語であるということだそうです。天孫とか皇孫と言うことばは、アマテルカミの孫である、ホノアカリとニニキネのことを指しており、ニニキネが、アマテルカミのお住いになっていた伊勢の地から出発して、諸国を農地開発のために巡っていったことを、後の歴史学者が、天孫降臨と称してしまった、というのが真相だそうです。記紀の文中にある「天降る」を「天から地上に神が降る」の意味に解釈してしまい、それが天孫降臨の造語に発展してしまった、ということなのです。アマテルカミやイサナギ、イサナミは神様ではなく人間でしたから、始めから地上にいらしたわけです。》
著者は私と同時代に生きてきて、私と同じ頃「ホツマツタヱ」に出会っている。私にとってずっと気になり続けていた「ホツマ」の世界の真実を、実際に神社を訪ねながら体験的に立証してくれる。それが自然で納得がゆく。ありがたい。
《大学在学中は学生運動のさなかであったことを理由にして、真剣に勉強したこともなく、卒論すら提出していない自分が、世の中に出て、まともな学問など何もしていなかった、などという後ろめたい気持ちがそうさせたのかはよく分からないところですが、不思議とホツマツタヱを理解しようとする作業を通して、いろいろな歴史書などを読んでいくうちに、それまで学校で習った歴史や卒業後に読んだ歴史本がいろいろな形で繋がってきて、あたかもパズルを解くかのような世界に入っていったのです。こうしてホツマツタヱの旅と執筆を通して、夢中になってこのパズルを解いていくうちに、そこに現れた世界は、私のまったく知らない世界だった、というのが偽らざる感想でしょう。》
最後は次のように結ばれている。
《結論からいいますと、神社は古代に実在した国の指導者の一族を祭った場所で、それは、その神社の地に住まわれていたか、もしくはその地にゆかりのある一族のどなた様かの心(霊魂とは違うと思います)をそこにお呼びになった(勧請した)かのどちらかの縁により成り立っていると言えましょう。今は古代に実存した神々と呼ばれる指導者は、記紀において神話の世界や縄文時代という世界に閉じ込められていますが、縄文時代の発掘や研究がすすむにつれ、いずれこの方々はクローズアップされてくることと思います。まだまだ旅の途中ですが、ホツマツタヱの内容はあまりにも深く、この本を上梓してようやくその第一歩を踏み入れたにすぎないのかも知れないと思うこの頃です。どうやら日本再発見というパズルを解く楽しみは当分続いていくことになりそうです。最後に、正直なところ、私のような歴史を深く学んでいない者でも、ホツマツタヱを少しずつ理解するようになってくると、古代史の真実なるものが自然と浮かび上がってきて、それも心地よい歴史の世界に誘い込まれていくような気持にさせてくれるホツマツタヱは、きっと多くの方々にとっても魅力のある世界を提供してくれるものではないか、などと勝手に思っているこの頃です。》
十分その体験をさせていただいています。次の巻を読むのが楽しみ。
以下、読みながらピックアップ。KINDLE版はこれが便利。
*   *   *   *   *
《 私達が最初に学ぶ歴史は、古事記や日本書紀の記述にもとづいています。しかし、よく考えると歴史書というものは、その時、つまり編纂された時の政治情勢に、大きく関わっていることがわかります。記紀が編纂された時代は、日本が唐と新羅の連合軍に、この国の歴史上初めて敗戦を喫した時代でもありました。この戦争を白村江の戦い(六六三年)と言います。それから約五〇年後に記紀が編纂されたのです。その間に、大きな内乱が皇室の間で起きました。壬申の乱です。白村江における敗戦で、国内の権力構造が変わったからでしょうか。歴史書を作らねばならないと言うことは、時の権力者が、時代の大きな変化を受け、国の将来のために、記録を残そうとする意識が働いたからに違いないのです。記紀の編纂が終った時期は奈良に都を遷した(七一〇年)直後でした。古事記(七一二年)が先に完成しましたが、日本の正史とされたのは、日本書紀(七二〇年)のほうでした。》
《神器は、国の指導者つまりアマカミとしての精神を形にしたものです。クニトコタチが国造りをした時の神器は、一種でした。最初の神器となったのは「トの教え」というものでした。「トの教え」とは、国民のために尽くすことにより、はじめてアマカミは存在する意義があり、アマカミの手で国を豊かにすることが、国民のためになると言う教えです。後にシンボルとして勾玉で表わすようになります。次に出来た神器はサカホコです。これは六代目アマカミのオモタル、カシコネの時代に生れました。このころは不作により国は乱れてしまいました。そこで国の安定のためには、国を乱す者を武器を持って滅ぼす必要が生じたのです。サカホコは朝廷の教えに逆らう罪人を「ほころばす」という意味で、サカホコという武器が生まれました。最初の武器は斧のようなものでしたが、アマテルの時代になり、ツルギ(剣)となりました。二代目オオモノヌシのクシヒコやフツヌシ、サルタヒコ等にツルギは授けられました。クシヒコはこのツルギ(アマノサカホコ)を持って三輪山の祠に入り、国の安全を祈り、お眠りになられました。ツルギの精神はむやみに使うものではないが、かといって国の大事の時は敢然としてツルギで立ち向かう、と言うことを意味しています。イサナギ、イサナミの時代においてはこの二種の神器で国造りは成功しました。この時代に二種の神器を鳥居という形で表わすようになります。(第一章参照)アマテルカミの時代になると、ハタレの乱など大規模な反乱が起きます。その原因は、国が豊かになるにつれ、豊かさを享受できない人々の心に、ねたみやうらみの心が生まれたことから起きたことでした。アマテルカミは、この真因を見抜き、人々の心を安定させるためには、自我の確立がなくてはならないと考えました。そこでアマテルカミはイセノミチ(伊勢の道)をはじめ多くの教義を指導者にむけて行いました。さらに、鏡に自分の姿を映し、その姿を見て、自らが反省しなくては、ねたみやうらみの心はなくならないと考えたのでした。これが三番目の神器「鏡(カガミ)」となりました。こうして二種の神器に鏡が加わることにより、三種の神器が完成したのです。神器のいずれもが、国の指導者としてのアマカミの心の在り方を形で示したものなのです。現在、鏡(やたのかがみ)は伊勢神宮に、剣(くさなぎのつるぎ)は熱田神宮に、勾玉(やさかにのまがたま)は鏡と剣の模造品と共に宮中に祭られています。アマテルカミが、後の天皇や多くの国民に信奉されている理由にはこうしたことがあったのです。残念なことに古事記や日本書紀からではこのことが伝わってこないのです。》
《このころのアマカミは、自然の神を自分よりも下に見ていたのです。古代のアマカミは、自分自身を神の分身と考えていました。さらにその地位は、自然の神よりも高いところにある、という考えを持っていました。「自然の神を恐れてどうするのだ。そういう気持ちでは国を発展させ、民を豊かにすることなど出来ないではないか」と言うお気持ちが強かったのです。》
《そもそも天孫降臨と言うことばは、記紀のどこにものっていません。これは後の国文学者や歴史学者の造語であるということだそうです。天孫とか皇孫と言うことばは、アマテルカミの孫である、ホノアカリとニニキネのことを指しており、ニニキネが、アマテルカミのお住いになっていた伊勢の地から出発して、諸国を農地開発のために巡っていったことを、後の歴史学者が、天孫降臨と称してしまった、というのが真相だそうです。記紀の文中にある「天降る」を「天から地上に神が降る」の意味に解釈してしまい、それが天孫降臨の造語に発展してしまった、ということなのです。アマテルカミやイサナギ、イサナミは神様ではなく人間でしたから、始めから地上にいらしたわけです。》
《三種の神器の剣は、本来はヤエガキ(八重垣)の剣であるはずであると松本氏は述べています。古代より、天皇が即位する時は、天皇自らが、左大臣には鏡を、右大臣には剣を授けました。これは三種の神器を決めたアマテルカミ以来の行事です。アマテルカミは、カネリ(鍛冶師)に八振りの剣を作らせ、これをヤエガキの剣としました。そして、ハタレの乱で活躍したカナサキとフツヌシに、この剣を授けました。また、ソサノヲが出雲のクニカミ(国司)になった時も、ヤエガキの剣を授けました。国のために貢献した人に天皇が授けた剣が後に、天皇の即位の時の右大臣に授けるようになったのです。ですから、三種の神器の剣は、草薙の剣ではなく、ヤエガキの剣が正しいということになるのです。しかし記紀は間違って、ムラクモの剣イコール草薙の剣、としてしまったことから、草薙の剣を三種の神器の一つにしてしまったのです。ムラクモの剣は、ソサノヲが出雲にてオロチを倒した時に尾より出てきた剣です。》
《日本平に到着した私達は、早速、ロープウェイで久能山東照宮に行くことにしました。東照宮が出来る以前は、武田信玄の城砦がありました。徳川家康の死後、遺言により秀忠がここに墓所を造り東照宮としました。久能山東照宮の位置を地図で調べますと、(久能山から見て)富士山を正面としますと、その背後には伊勢神宮があります。徳川家康(本当は僧侶の天海かもしれませんが)は、アマテルカミとコノハナサクヤヒメのことを思い描いて、この地を墓所に決めたようです。》
《松本氏が指摘しているように、記紀はある意図を持って編纂されているかのようです。渡来の人々にとって、日本の歴史が紀元前四〇〇〇年からある、ということは信じられなかったに違いありません。歴史編纂を教える立場にあった彼らが、自分たちの国の歴史よりも古い、ということは認めたくもなかったことでしょう。さらにまことに勝手な想像ですが、当時の日本人に尊敬されていたアマテルカミや古代のアマカミの偉業を知れば知るほど、腹立たしくもあったことでしょう。こうした心理が記紀編纂時に働いていたのではないだろうか、ということを、ホツマツタヱの理解がすすむにつれて、思うようになっていったのです。ホツマツタヱの五七調で書かれた文面の美しさにくらべ、記紀の文章からにじみでてくるものには、品格という点で大きな開きがあります。日本書紀に見られる卑猥と思われる記述や、古事記の因幡の白兎に見られる残忍さというものは、ホツマツタヱからは伝わって来ないのです。記紀の記述を古代のおおらかな描写、と語る方もいますが、それはホツマツタヱを読まれていない方の意見、と思わざるを得ないところもあります。記紀編纂は当時の時代背景もあって、日本人の間においても、様々な権力争いや、思惑があって行われたのではないか、という点も考える必要があります。初めてホツマツタヱに触れた頃は、これを一〇〇%信じると言う心境にはありませんでしたが、旅を通じて、ここまで大胆にこのようなことを私自身が述べるようになるとは思ってもいなかったのです。》
《歌はカヂの葉に書きました。カヂは楮(こうぞ)に似た樹木です。これらの行事は中国から来たものではなく、日本独自のものだったのです。五歳になると、いよいよ本格的な教育を受けました。それは、四八音からなるアワウタと言う歌を楽器にあわせ、声をあげて歌うことでした。あかはなまいきひにみうくふぬむえけへねめおこほのもとろそよをてれせゑつるすゆんちりしゐたらさやわこの歌を声をあげて歌うことで、身体の調子が整えられ、言葉が整ってくるのでした。それは人の体を構成する元素と、四八音が密接に結びついていることによるものでした。このようなことから、アワウタを、声をあげて歌うことは、健康になると考えられていました。カナサキはこの原理に精通していたこともあり、人々から尊敬され、長生きをして、スミエノヲキナと呼ばれて愛されました。カナサキ夫婦が歌が得意だったことから、ヒルコヒメも歌に精通し、後にワカヒメとなったのです。カナサキ夫婦に大切に育てられたワカヒメは、成人してからは、アマテルカミが築いた伊雑宮に住むことになりました。伊雑宮は三重県の志摩市にあります。》
《温暖化は、スムースに進んでいった訳ではなく、紀元前一万一〇〇〇年から九〇〇〇年の期間には、「ヤンガー・ドリアス期」といった寒の戻りもあったのです。こうした期間では再び猟中心の生活に戻ったことが窺えます。しかし一方で、このような厳しい生存への試練は、温暖化の中ですでに得ていた知能を、さらに高めていったと思われます。温暖化そして寒冷化という試練を乗り越え、この国に定住した人々の知能は、現代人と比べてもそん色がないもしくはそれ以上のレベルに達していたかもしれません。なかったのは積み重ねられた歴史(つまり文明の蓄積)だけではないでしょうか。むしろ生命力は、現代人以上のものがあったに違いありません。》
《大学在学中は学生運動のさなかであったことを理由にして、真剣に勉強したこともなく、卒論すら提出していない自分が、世の中に出て、まともな学問など何もしていなかった、などという後ろめたい気持ちがそうさせたのかはよく分からないところですが、不思議とホツマツタヱを理解しようとする作業を通して、いろいろな歴史書などを読んでいくうちに、それまで学校で習った歴史や卒業後に読んだ歴史本がいろいろな形で繋がってきて、あたかもパズルを解くかのような世界に入っていったのです。こうしてホツマツタヱの旅と執筆を通して、夢中になってこのパズルを解いていくうちに、そこに現れた世界は、私のまったく知らない世界だった、というのが偽らざる感想でしょう。》
《結論からいいますと、神社古代に実在した国の指導者の一族を祭った場所で、それは、その神社の地に住まわれていたか、もしくはその地にゆかりのある一族のどなた様かの心(霊魂とは違うと思います)をそこにお呼びになった(勧請した)かのどちらかの縁により成り立っていると言えましょう。今は古代に実存した神々と呼ばれる指導者は、記紀において神話の世界や縄文時代という世界に閉じ込められていますが、縄文時代の発掘や研究がすすむにつれ、いずれこの方々はクローズアップされてくることと思います。まだまだ旅の途中ですが、ホツマツタヱの内容はあまりにも深く、この本を上梓してようやくその第一歩を踏み入れたにすぎないのかも知れないと思うこの頃です。どうやら日本再発見というパズルを解く楽しみは当分続いていくことになりそうです。最後に、正直なところ、私のような歴史を深く学んでいない者でも、ホツマツタヱを少しずつ理解するようになってくると、古代史の真実なるものが自然と浮かび上がってきて、それも心地よい歴史の世界に誘い込まれていくような気持にさせてくれるホツマツタヱは、きっと多くの方々にとっても魅力のある世界を提供してくれるものではないか、などと勝手に思っているこの頃です。平成二〇年一二月》





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めい

上原聰三
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid0M17HmCWMdS7J819Xuc5BSyCizKpbKk9hv751vTuKdf6gZm5zQiZqBwbASNaSyUh3l&id=100013677047756
■『敗者である日本の「現代史」を未来志向の歴史にする』《 7 》
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今、古代史や江戸時代からその思想を学ぶ (その一)
☆☆☆『日本』という国名の秘密 ☆☆☆
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物事を《暗い方へ悲観的に導くような卑屈な精神》から抜け出し、子供たちが《道徳的にも立派な国》を誇れるようになるためにもそうしなければならない。
故飯山一郎翁が五年前に既に云っていたものからの引用である。
《日本の未来を良くする》ために過去の歴史はあるのだということで、ちょっと長いが我慢して読んで見る。
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 ☆☆☆☆☆ 『日本』という国名の秘密 ☆彡
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『“日本書紀”は世界一!』
さて…、
人が文章を書くのは動機や目的があるからですよね? 落書きだって、それを書く動機や目的があるワケで。
であるから、文章を読むときは、「この文章を書いた動機は何か?」「この文章を書いた目的は何か?」とチェックしながら文章を読みすすめる。
すると、文章の表面に書かれた美しく耳ざわりの良い話が、じつは読者をダマすために創作された「感動の物語」だった!なんてことが見えてくる。
その「読者をダマすために創作された物語」の“見本”として、世界一壮大な「物語」が、じつは、日本にある。
それは、いったい何か?
『日本書紀』だ。『日本書紀』というのは、当時世界一の大帝国だった“大唐帝国”を見事にダマしきった壮大な「歴史物語」なのです。
『殲滅される!という恐怖のなかで』
7世紀中葉。白村江の戦いで“大唐帝国”に大惨敗を屈した百済国は、“大唐帝国”の殲滅(せんめつ)作戦から逃れるために、慌ただしく九州に逃げ込んできた。
しかし、「百済国を殲滅せよ!一人たりとも生かしおくな!」という“大唐帝国”の皇帝の殺戮命令情報は、はるか九州にも伝わってくる…。
そのため、北九州に上陸した百済国の王族・貴族は、“大唐帝国”の追討殲滅作戦に恐れおののきながら、南九州までの逃避行を決行する。
南九州は大隅半島の志布志近辺まで這々の体(ほうほうのてい)で辿り着いた百済国の王子・大海人皇子は、大急ぎで天武天皇と名乗り、大慌てで「正史」の編纂を命じた。そのときに初めて「日本」という国名が、苦し紛れの状態の中で発明された…。これが7世紀末の「日本」でした。
それでは、「日本」という国名は、7世紀の何年に決まったのか?
多くの歴史学者が認める定説では、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)という法令が施行された689年に「日本」という国名が決まったとされています。
対外的には、702年、遣唐使の粟田真人(あわたのまひと)が、『周』の女帝・則天武后に対して、「日本」の使いである!と述べたのが最初でした。
それで、女帝・則天武后は、イケメン粟田真人の『大宝律令』や『日本書紀』を駆使した必死の説得に納得! これ以降は『周』も『唐』も「日本国」の存在を認めるようになります。粟田真人、大成功です。
この「粟田真人の大成功」には、大問題が隠れています。それはそれは大変な大問題です。どんなふうな大問題か?
『7世紀後半までは存在してなかった日本国』
689年に「日本」という国名が初めて決まった! ということは、それ以前に「日本」という国家は地球上に存在していなかった!ということです。
分かりますか? 存在してもいない架空の国家を、あたかも存在していたかのようにして書かれた「正史」、それが『日本書紀』であった!ということが。
「日本国」という国家は7世紀後半までは存在してなかった! このあたりの歴史の流れは非常に重要なので、もう一度良~く考えながら整理してみましょう。
さて…、
「日本国」という国家は7世紀後半までは存在してなかったが、しかし、「倭国」という国家が、九州の阿蘇山の近辺にあった。この「倭国」は、小野妹子を遣隋使として隋国に派遣している。
この時から数十年後、白村江の戦いで大惨敗した百済国が、国をあげて九州に逃げ込んで来た。
この「九州百済国」は、慌ただしく『日本書紀』を編纂して、「日本国」と名乗り始めた!
つまり、中身は「百済国」なのに、「日本国」と名乗ったのだ。
そうしてから粟田真人を遣唐使として派遣して「日本から来ました」と言わせた。
この粟田真人の物言いを、則天武后の朝廷にいた外務官僚と歴史学者たちは、「日本とは倭の別称である」と“勘違い”した。このことは『旧唐書』や『新唐書』にも記録されている。
“勘違い”ではあっても、「日本とは倭の別称である」と、中国の女帝・則天武后が認めた!
この瞬間!「日本国」は、中国の皇帝が認めた“実在する国家”になったのである。これは歴史の大転換!と言うべきでしょう。
その結果、大唐帝国は、百済国が九州に逃げ込んだことを薄々は知りながらも…、そして、百済国の人間が「日本国」の内部に入り込んでいることを半ば承知しながらも…、九州に攻め込み、百済国を殲滅する!という当初の路線を修正した。このことは歴史が証明している。実際、大唐帝国は日本列島に攻め込むことはなかったのですから…。
『何故に「日の本」なのか? 「日本」なのか?』
「日出ずる国」「日の本」。これが「日本」という国名の由来だろうと、日本人は漠然と思っている。
しかし、「この国から見るに、日は域内より出でず!」という疑問は、古来からあった。
日本から見るとお日様は日本の領域からは出てないし…、“日の本”ってのも日本の領域にはなく、日本よりも東の方角にあるのではないか!という疑問だ。
では、いったい何故に「日の本」なのか? 「日本」なのか?
この答は簡単です。中国から見て、「日本」は「日の本」なのです。
隋の皇帝・煬帝に小野妹子が提出した国書に、「日没する処」という有名な文言がある。
この「日没する処」という意味は、中国人の感覚では、たんに「西の方角にある国」という意味だ。中国人は気にしない。
煬帝が立腹したのは、倭王が「天子」を名乗ったことに対してであり、「日沒処」との記述に対してではない。
ともかく「日出ずる国」とは、中国から見て「東の国」という意味であるということ。同じように「日の本」も中国側から見た方角だし、「日本」も、中国からの視点で決められた国名なのだ。
「だから“日本”なんて国名は嫌いだ!」とかと、古来から多くの思想家が問題にしてきました。
だが、思い出して見よう!
百済国の王子・大海人皇子こと天武天皇が、新しい国の名前を「日本」と命名し、自らを「天皇」と称し、『日本書紀』の編纂を命じた。
この天武天皇の「偉業」があったからこそ、粟田真人は則天武后に「日本国」の存在を認めさせることに成功し…、「日本国の独立」を見事に勝ち得たのです。
『新日本国の“建国”と“独立”と“安全”』
読者の皆さん、以上が飯山一郎の『日本書紀』の読み方です。
『日本書紀』の表面ヅラの文章(テキスト)は流し読みしながら、『日本書紀』を書いた「動機」や「目的」、そして当時の国際環境や背景(コンテキスト)を徹底的に分析しながら『日本書紀』を読み進める…。
その結果、飯山一郎は、『日本書紀』の秘密だけでなく、古代の日本人が「日本国」と命名した、その国名の秘密をも知ることができました。
古代の日本人は、精緻なウソを華麗な漢文で書いた『日本書紀』を駆使して、強大な隣国である“大唐帝国”の説得に成功! 「日本国の建国」と「日本国の独立」を勝ち得て、「日本国の安全」を達成することができました。
あれから1300年.あのときの「国づくり」と「国の守り方」の精神と外交手腕をシッカリと想起すべき時代が到来します!
それは,一体,いつのことなのか?
今です!
(了)

by めい (2023-01-07 05:39) 

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