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”昨日の敵は今日の友”(花見弘平とケネディ) [上杉鷹山]

虚空蔵尊 ケネディ看板2022.9.14.jpg伝国の辞碑2022.9.14.jpgあと一息1663147674373.jpg虚空蔵尊1663145891819.jpg白鷹山山頂2022.9.14.jpg

白鷹山に「伝国の辞」碑をつくる会及び南陽鷹の会の斉藤喜一会長がかねて念願の花見弘平とジョン・F・ケネディの友情秘話を紹介する看板が完成し、白鷹山虚空蔵尊に据え付けてきました。読書家の斉藤さんが 『ケネディを沈めた男』(星亮一 潮書房光人社 平成26年)を読んでこの秘話を知り、その後花見弘平氏の奥さんとも手紙で交流して、『ケネディの艇を沈めた男 夫・弘平との60年』(花見和子 平成16年)を入手、キャロライン・ケネディさんと縁ある白鷹山にぜひこの秘話を紹介する看板を設置したい、と花見和子さんの同意も得てこのたび実現にこぎつけたものです。白鷹山石段完成お礼 .jpg平成30年から始まった白鷹山登山道(石段)整備事業が今年6月完成したばかり、その完成を記念する設置となりました。930段の石段を86歳の斉藤さん、無事登り切りました。白鷹山登頂最高齢記録かもしれません。

昨日見つけたのですが、アメリカ大使館のサイトにこの秘話が詳しく紹介してありました。
・ケネディ下院議員にあてた花見元艦長の手紙https://amview.japan.usembassy.gov/hanami-to-jfk/
・「きのうの敵は今日の友」― ケネディ大統領と日本人艦長の友情秘話
https://amview.japan.usembassy.gov/jfk-japanese-captain/

【追記9.21】

9.21山新 1のコピー.jpg

*   *   *   *   *

  ジョン・F・ケネディ「昨日の敵は今日の友」
   Late enemy and presennt friennd
 上杉鷹山公「伝国の辞」碑は、鷹山公の思いを世界の人々に伝え、心和み合う世の中が実現することを念願して、平成26年(2014)に建立されました。その副碑には、「上杉鷹山の称賛者」として、ケネディ米大統領の言葉が刻まれています。当時のキャロライン・ケネディ駐日米国大使の思いをうけてのことでした。
 米沢から大峠を越えたすぐ先に、ケネディ大統領にとって生涯忘れ得ぬ大切な友人がおりました。
 明治42年会津塩川町に生をうけた花見弘平海軍少佐は当時34歳、昭和18年8月2日、駆逐艦「天霧」艦長として、ソロモン諸島付近にて、後の米国大統領ジョン・F・ケネディ艇長当時26歳の魚雷艇と遭遇し、正面から高速で乗り切ってこれを真っ二つに撃破、米魚雷艇は轟沈するも、乗組員一同大きな傷を負いつつ、ケネディ艦長決死の指揮下近くの島に泳ぎ着いて九死に一生を得ていました。
 昭和26年、当時下院議員だったケネディ氏来日を機に、会津在住の花見弘平氏との交遊が始まります。昭和27年の上院議員選、そして昭和35年の大統領選に際しては、花見氏からの手紙が米国新聞紙上に大きく報じられることで、いづれも厳しい選挙戦で勝利を得ることができたのでした。昭和28年「私は、日本とアメリカの関係が、両国の互いの安全のために堅固で強力であることが最も重要な事であると考えております。私は、その目的のために議員としての役目を果たしていくつもりでおります。」と記されたケネディ上院議員からの手紙に同封された近影には、「昨日の敵は今日の友Late enemy and presennt friennd」と自筆の書き入れがありました。
 昭和37年5月29日、「天霧」乗組員8名も出席した東京でののケネディ大統領45回誕生祝賀会で、当時のライシャワー駐日大使はこうスピーチしました。
「ケネディ大統領ほど珍しい形で選挙運動を始めたものはいないでしょう。すなわちケネディ大統領が天霧によって沈められ英雄になったことから、彼の選挙運動が始まり、そのお陰で私が大使になれたのですから、天霧会の皆さんにお礼を言いたいのです。」
 昭和38年11月23日、ケネディ大統領は凶弾に斃れます。
当時6歳だった娘キャロラインさんは、51年後の令和26年、駐日大使として、この地「伝国の辞」碑に父の言葉を添えたメッセージを寄せられました。
 白鷹山石段改修工事完成を記念し、このケネディ家ご縁の地に、当時花見弘平海軍少佐とジョン・F・ケネディ中尉との命がけの邂逅を経た交流の歴史を記し、鷹山公精神がさらに広く世界に届かんとすることを祈念するものであります。


    令和4年9月

白鷹山に「伝国の辞」碑をつくる会
南 陽 鷹 の 会       
会長 斉藤喜一

花見弘平とケネディ170x80ok.jpg

【花見弘平氏のケネディ議員に宛てた手紙https://amview.japan.usembassy.gov/hanami-to-jfk/


1952年9月15日

親愛なるケネディ様

私は細野軍治博士から、1943年8月のソロモン諸島海戦で日本海軍の駆逐艦に沈められた軍艦が、あなたの指揮下にあったことを知らされました。私はたまたまあなたの船を沈めた駆逐艦の司令官でしたので、これは大きな驚きです。この戦いのことが書かれた1952年8月18日のタイム誌を読んで、記憶がよみがえり、当時のことが鮮明に思い出せるようになりました。

最後に来日されたとき、お会いできなかったのが非常に残念です。私は福島県に住んでおりましたので、細野先生が大変苦労して私を探し出してくださったにもかかわらず、短い東京滞在の間にご連絡を差し上げることができなかったのです。次回、来日された折には、ぜひお会いしたいと思います。

さて、この機会に私自身のことをお話しさせてください。私は1940年10月から駆逐艦の司令官をしていました。当時の日本海軍は、国際的な危機に鑑み、日米の外交交渉の成功に最後の望みを託しながら、最悪の事態に備えていた。海軍力の劣るわれわれが米英海軍の連合軍と戦うことの危険性は、われわれ若い将校も十分承知していたので、全く秘密裏に行われた真珠湾攻撃は、われわれに大きな不安を抱かせるものであった。

戦争好きな少数派を除くほとんどの海軍将校は、当然ながら戦局を悲観していたが、開戦時の予想外の勝利と東条内閣の巧みな宣伝により、勝利の可能性に希望的観測を持つに至ったのである。しかし、ミッドウエー諸島での敗戦後、状況は一変し、戦時政治の強さと闘志を大いに発揮した米国に有利になった。

私は、ラブール(ニューブリテン島)占領後のソロモン諸島の戦いに従事した。私は、ガダルカナルの戦いでの連続的な敗北によって、さらに悪化した状況に非常に心を痛めていた。

1942年11月から1943年5月まで、私はトラック諸島水域の任務に就いた。1943年6月初め、私は駆逐艦「天霧」の艦長として再びラブールに赴任した。この頃から、アメリカ軍の反撃はますます攻勢に転じた。アメリカ軍が制空権を握っているため、昼間に攻撃できる立場ではなくなり、夜間に作戦を行い、駆逐艦の力でアメリカ軍の人員と軍需品の輸送を防ごうとしたが、無駄であった。

6月上旬の呉では、レーダー装備の貴艦隊に初対面で旗艦を瞬時に撃沈される惨敗を喫し、その後も不戦敗が続き、ラブールに撤退せざるを得ない結果となった。

昭和18年8月初旬のある夜戦で、小型の敵艦が大型の我が駆逐艦に直進してくるのを発見した。あまりの接近に砲撃する暇もなく、私の駆逐艦は敵艦を直撃して真っ二つにせざるを得なかった。驚いたことに、この船はたまたまあなたの指揮するP.T.ボートであった。

この機会に、この戦闘におけるあなたの果敢な行動と勇気に深い敬意を表するとともに、このような状況下で奇跡的に脱出されたことをお祝いいたします。

私は「タイム」誌で、あなたが次の上院議員選挙に立候補することを知りました。私は、あなたのようにかつての敵に寛容な人が、あなたの国の高官に選ばれたならば、間違いなく日米間の真の友好を促進し、世界平和の確立に貢献すると確信しています。

私の国では、現在、国会議員の選挙が行われています。貴国での選挙が成功することを祈っております。

よろしくお願いします。

敬具

(署名)

花見浩平

元駆逐艦 "あまぎり "艦長

出典 ジョン・F・ケネディ文書(Papers of John F. Kennedy). 大統領就任前ペーパー。上院ファイル。事件とプロジェクト。一般ファイル、1953-1960年 一般的なファイル、1953年 日本 PT-109。JFKSEN-0481-014. ジョン・F・ケネディ大統領図書館・博物館

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