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新・mespesadoさん講義(118)「魂を磨く」 [mespesado理論]

①私もsuyapさんのおすすめ記事「悟りと脳との関係について(悟りの存在する方向)」をじっくり読んでみました。古神道の「ますみのむすび」、あるいは「音霊法」に重なりました。「なぜ悟りを求めるか?」などと大上段に構えずに、「そこにある」こととして親しくすればいいことと思えました。

②「やりたくないけれどもやらなければならないこと」を「やる」方法。私にも切実な問題です。やりたいことからやっていると、本来やらねばならないことが、どんどん後まわしになっています。永久にそのままになってしまいかねません。その解決は、「脳」が「本気」「真剣」になれるまでに、《魂を磨くことの一つの目標》と定めきれるかどうかにかかっていると認識させられたところです。

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142:mespesado :2022/01/15 (Sat) 16:03:06
>>129 suyapさんwrote:
〇悟りと脳との関係について(悟りの存在する方向)
http://breath-awake.com/service.html
>    ↑↑
> mespesadoさんにも一読をお薦めしたいな。

 読んでみました。
 前に「意識」と「思考」は別物、という話をしましたが、「思考」というものを意識して行うことは易しい。それに対して何か行動するときに、それに「意識」を向ける、という行為は案外難しいもので、「カラ返事」「人の話を聞かない」という話をしたときにも言ったように、そういうときは、必ずと言っていいほど「別のことを考えている」。これ、自覚的ならまだマシで、無意識に他のことを考えてしまっている場合があり、そういうときに、相手の話に「意識」を向けない、ということが起きてくる。で、こんなことを続けていると、「意識」というものを次第に軽視するようになる。
 上で紹介して頂いたページは、この、何かに「意識」というものを向けるという状態をしっかり行えるようにするための訓練として貴重な方法論を提示してくれていると思いました。
 そこでも書いてありますが、外界の音に耳を傾けるのはいいが、音楽はダメというのもよくわかります。音楽などは、ついつい聞きこんでしまい、これは、いわば無自覚にその音に意識が向いてしまうので、普段だとあまり意識を向けることの無いようなモノに意識を「向ける」訓練にはならないからだと思います。そして「坐禅」については、「意識」を向ける対象となるはずの音や映像のような感覚のモトすら無い中で、「思考」に落ち込まないようにする、というかなりムツカシイ訓練である、と言っているわけですね。
 ただ、この記事の筆者は「輪廻転生」や「霊魂」や「魂」の存在については否定していますが、これはちょっと行き過ぎ(これじゃ「唯物的」思考を超えて、純粋な「唯物論」になってしまいますね。そもそも「数年前の自分」と「今の自分」を同じ自分だと認識するのは、今の自分の脳の記憶の中で数年前と今の自分の記憶が連続しているから同一だと認識しているだけで、物質的には新陳代謝で過去の自分と今の自分は「別物」と言えます。これと同じで「前世の自分」と「今世の自分」は物質的にも脳の記憶的にも別物ですが、そうでない、現在の科学ではまだ発見されていない「何らかのもの」が連続しているかもしれないと考えれば、同一だと認識できる可能性もあるはずで、「輪廻転生」を論理的に否定できるものではないと考えます)な気もしますが、ただ、上記の一番言いたかった本質をわかりやすく説明するための方便であると考えればいいのかな、とは思います。

144:mespesado :2022/01/15 (Sat) 23:06:25
>>143
 貴香さん、私の書き込みに逐一コメントいただいて恐縮です。
 実は、そこで引用して頂いた部分について、実はそこに書いていなかった伏線となる話があるんです。
 それは、「自分が苦手だと思っていることに対する劣等意識」の克服方法についてです。それは、自分が何かが「できない」ことに対して「劣等意識」を持ってしまって気持ちがネガティブになっている場合にどうしたらよいかという問題である、と言い換えることができるかもしれません。
 これは、自分が長所も欠点も含めてその事実を自分自身が「受容」していないために起こる現象ですよね。つまり、「エゴ(=自分が自分であると思っているところの自分)」が「外からの」価値観によって、自分が何かができないことを「悪いこと」だと思っていて、そのような「悪い部分」を自分が持っているということ自体を「エゴ」が「許せない」と思っている、という状態にあることから生じることだと思うんです。だから、こういうネガティブな感情から解放されるためには、自分がそういう欠点も含めてそういう人間なのだ、ということを「受け入れる」という行為が必要となります。そして、本当に自分で受け入れてしまうことができれば、その時は、その欠点とやらが別にどうでもよくなり「だから何?」という心境になって、話は解決します。
 ところが、そういう自分の「欠点」が、単に「頭が悪い」とか「背が低い」というような、単なる劣等感に過ぎないモノであれば、話はそこで終わりなんですが、その欠点とやらが、他人に迷惑を及ぼす種類の欠点である場合には、別の問題が発生します。それを克服しないと社会的に悪影響があるような場合には、それを実際に直したい、という要求がどうしても消えないことがあるわけです。>>141 で述べた内容は、このようなケースの場合の話であって、もしそれが他人に対して悪影響が無い場合には、自分の欠点とやらを自分で許容してしまいさえすれば何も問題は無く、従って、その欠点とやらを「直す」必要さえありませんが、それでは済まなくて、「それでもあえて克服する必要がある場合にはどうしたらよいか」という、種類の異なる新たな問題が登場するわけですね。>>141 で書いたのは、そういう場合の処方箋となる話として書いたつもりです。つまり、自分が「我慢してイヤなことを克服する」ということを回避しながら、なおかつ「結果として克服してしまう」方法です。ただ、この場合も、自分でその欠点とやらを「本気で」直したいと考えている場合にしか通用しません。「脳」は「本気で」なろうとしている場合に限って「真剣になる」という性質を持っているからです。

145:mespesado :2022/01/15 (Sat) 23:22:04
>>143
> 基本的には生き方を好き、楽、樂しいにしますが、未だ無理です。
 これも、よくスピ系の人で「何でも楽しむようにすればよい」というような「解決法」を提示することがありますが、実は必ずしも「楽しむ」必要があるとは思わないです。「苦しい」場合も、実は楽しいとか苦しいいなんて感じてるのは、自分の「エゴ」がそう感じているだけなんですから、エゴの上位にいる「高位の自分」が、そのような苦しんでいる「エゴ」のことを上から俯瞰して「あ、今俺のエゴは苦しんでいるな」と淡々と認識すればいいだけなんですよね。で、同じことは、実はエゴが「楽しんでいる」場合にも成り立っていて、「あ、今俺のエゴは楽しんでいるな」と淡々と認識すればいい。だから、真に達観した人というのは、楽しむという感情も消失して、楽しかろうが苦しかろうが、心が動じず、淡々としている。ちょうど、ある物語の劇中で、楽しんでいる、あるいは苦しんでいる主人公の役を演じている俳優自身は別に楽しんだり苦しんだりしているわけではない。これに似ています。実際の人生でも、そういう心境に達することができるようになることが、魂を磨くことの一つの目標となりますね。

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