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新・mespesadoさん講義(49)「グローバリズムvsナショナリズム」の先を見据える [mespesado理論]

mespesadoさん本領の原理的議論です。最後に、《グローバリズムvsナショナリズムがことの本質であるかのように捉える人が多いようですが、ことの本質はそこには無いのではないか、と考えています。》新たな枠組みの登場が予期されます。それが何か。今後の展開を思いスリリングです。自分でも考えてみたくなります。

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386:mespesado :2021/07/20 (Tue) 10:54:28
>>385
> 「経済活動からオカネを「消去」して、消費の豊かさだけでモノを考え
> ると、これは単なる経済活動の自殺行為でしかない」というmespesadoさ
> んの記述、今一ピンと来ません。

 すいません。ここらあたりは他の部分の説明に比べてかなり端折ってしまったので、もう少し詳しく書きますね。
 まず、オカネの視点で考えると、日本企業は日本国内でモノが売れなくなってきたので海外の需要に期待して輸出に活路を見出すだけでなく、コストカットのために海外の安い賃金に目を付けて工場を海外に移転します。この一連の動きによって、今まで国内で売れて円で儲かっていたのが、外貨での儲けにシフトし、賃金支払も、海外の安い労働者にシフトすることで、支出を押さえることができ、その結果、「企業」は確かに儲けを確保することができます。
 ところがこのプロセスからオカネを消去して眺めると、国内販売から輸出にシフトするということは、労働者の労働は変わらないですが、生産された商品は日本人が消費するかわりに外国人が消費することになります。つまり、せっかく日本人が汗水たらして労働して「生産活動」を行っても、その結果労働者である日本人が受け取るべき「消費する権利」は、働いた当の日本人ではなく、その消費財を生産したわけではない外国人が受けることになります。これは「消費するために生産する」という、経済活動の根本原則から考えると、日本人のやってることは、オカネを消去してみれば、単なる「タダ働き」であり、日本人はバカを見ている、ということになりますよね?そして、次に工場の海外移転により、日本人は生産者としての立場も剥奪され、その結果、労働できず、従って消費する権利も奪われることになります。単なる輸出へのシフトだけなら、日本人も労働者ではあり続けるので、自分の労働の全部がタダ働きなのではなく、労働の結果である製品の販売量の一部は未だ国内需要に回されるので、自分達の消費する権利も減りはしたもののまだ行使できるのですが、それでも、10生産して、そのうち7しか自分達で消費できないなら、10の生産行為のうち3はタダ働きということになってしまいます。しかしここまでなら、日本人は単なる「お人好し」だなあ、で済みますが、これから更に、工場の海外移転が進むと、今度は日本人が労働市場から締め出されてしまうので、日本人は0生産して0消費する、すなわち確かに「タダ働き」は無くなるけれど、そのかわりそもそも働く場それ自体が失われてしまうので、その結果、自分たちが消費する権利も全くもらえない、という悲惨なことになるわけですね。
 これが「オカネを消去して低成長下の日本人が今まで行ってきた経済活動を眺めた結果」です。

387:mespesado :2021/07/20 (Tue) 11:22:53
>>386
 ついでなので、「新自由主義」というものをオカネを消去した目で考察してみることにします。
 >>386 の後半で解説したのは、日本人の中でも、あくまで「平均的労働者」の観点から描いたものです。しかし、「経営陣」に属する人から眺めると、話はだいぶ違ってきます。多国籍企業であれば、経営陣も多国籍だったり、日本人経営者でも外国に長く住んだりしますから、彼らの企業が生産したものは国内販売されたものだろうが海外に輸出されたものだろうが、あまり区別なく自由に消費できますよね。つまり10生産して、国内販売の7も、海外販売の3も自由に消費できますから、この点でタダ働き感は無いものと思われます。また、海外に工場をシフトしても、自分たちは相変わらず経営陣としての地位は安泰ですから、経営者自身が「労働市場から締め出されるリスク」はありません。なので、経営陣自身には何も悲惨なことは起きないのです。そして、更にここに「新自由主義」でおなじみの「自己責任論」が加わります。給料の傾斜配分ってヤツです。しかしながら、実際は人間の能力なんてそんなに差はありませんから、無理やり格差をつけた「傾斜配分」によって有利な配分を受けた人は、「実質的な労働量」に比べて「消費する権利」をより多く貰えることになります。これは、7生産しても、この「優遇評価」により10生産したのと同じだけの「消費する権利」を貰えるので、海外に流出した3を除いた国内での消費量である7がその人の実質的な生産量である7と釣り合っているので、この人たちにとっては、やはりタダ働き感がありません。そしてあおりを受けた労働者はますますタダ働き感を強めることになります。同じ企業の中でなく、異種間企業でこの現象が生じたのが、いわゆるブル・シット・ジョブとブラック企業ですね。そして、前者の労働者が「勝ち組」、後者の労働者が「負け組」と称され、前者の人が後者の人に対して「自己責任論」を振りかざして不平不満をシャットアウトするわけです。これがオカネを消去して眺めた「新自由主義」の本質ということになります。

388:mespesado :2021/07/20 (Tue) 11:54:43
>>387
 さて、最後にグローバリズムとナショナリズムの問題について論じたいと思います。この2つの主義は、実はどちらが絶対に良いということではなく、歴史上、この両者が繰り返されてきた、とはよく言われる話です。まず、金本位制下で、中世のヨーロッパ人の経済活動は最初は自国内に閉じていました。そりゃそうで、言葉が通じる人相手に商売した方が楽ですから当然そうなります。つまり、この時代は無自覚なナショナリズムの時代と言えます。ところが、金本位制ですから、経済の拡大に合わせて必要な貨幣が増えないので、経済は閉塞するため、一部の勇敢な人たちは海外に航海して他地域の富を奪うようになります。いわゆる大航海時代であり、これは無自覚なグローバリズムといえなくもありません。そして戦国時代の日本にもこのグローバリズムの影響が訪れ、宣教師たちによる植民地化という真の思惑を察知した秀吉、家康らの機転により、日本は「鎖国」というナショナリズムの道を選び、危機を回避します。しかし、この状態は永遠には続かず、幕末に、産業革命で経済活動が飛躍的に伸び、国内需要だけでは閉塞感があった西洋から「開国」を迫られ、賢い日本は「文化」と「技術」はグローバル化を選んだけれども、政治ではナショナリズムを選び、危機を回避しますが、この一連の賢さを持つ日本に恐怖を感じた西洋列強により、第二次大戦を仕組まれ、敗戦、そしてGHQによる徹底洗脳により、遂に日本のナショナリズムは瓦解させられ、グローバリズムに取り込まれます。ところがここでも日本は賢く立ち回り、軍事については自分は関与せず、自国優先の経済活動により経済発展します。この幕末以降の日本の行動というのは、ナショナリズムとかグローバリズムという枠では説明できないものではないでしょうか?つまり、「グローバリズム」とか「ナショナリズム」のように見える行動は、人々の命運を左右する他の要因があって、それに対処する手段がたまたま自国優先のように見えたり国境の垣根を開放したりしているように見えるだけであって、このような2つの主義の対立によって歴史を解釈したり、国際的問題の解決案をこのような視点から眺めるのは、思考を束縛するものでしかないのではないかと考えています。ところが今、高度成長とバブル崩壊による低成長の閉塞感のもとで新自由主義が勃興し、それは企業の収益減が国民を守るための各国の法律と対立することから、企業が取った戦略が、大航海時代や産業革命時に流行ったグローバリズムと類似していることから、あたかもグローバリズムvsナショナリズムがことの本質であるかのように捉える人が多いようですが、ことの本質はそこには無いのではないか、と考えています。

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