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「権威主義的政治体制」 [本]

古村治彦著『悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める』(秀和システム 2021.6)を読んだ。

田中宇氏が、国を挙げてワクチン接種に突き進む今の状況を「コロナ独裁」という言葉で語っている(「コロナ独裁談合を離脱する米国」

が、古村氏の言う「権威主義的政治体制」がそっくりあてはまる。

ダボス会議の”グレート・リセット”に絡めて「権威主義的政治体制」について詳説する。《「権威主義」「権威主義政治体制Authoriarian Regime」という政治体制を「発見」したのは、ホワン・リンツJuan Linz1926-2013)だ。・・・リンツは自分が生まれた国ドイツでは、ナチスによる全体主義体制へと突き進む状況を経験し、自分が育った国スペインでは、フランコ将軍による独裁的支配を経験し、両国の研究を通じて権威主義政治体制という政治体制を「発見」した。・・・「権威主義的政治体制〜スペイン」(1964)という論文の中で、全体主義とも民主政治体制とも違う、権威主義政治体制があるということを主張した。》として、その引用、《限定された、責任能力のない政治的多元主義を伴っているが、国家を統治する洗練されたイデオロギーはもたず、しかし独特のメンタリティーはもち、その発展のある時期を除いて政治動員は広範でも集中的でもなく、また指導者あるいは時に小グループが公式的には不明確ながら実際にはまったく予測可能な範囲の中で権力を行使するような政治体制である。(『全体主義体制と権威主義体制』法律文化社 1995(104-106p)

 

権威主義体制では、体制に従順な団体やグループが少数存在するだけで、公式なイデオロギーはなく、素朴な神、祖国、家族への愛を訴えるだけ。ムッソリーニ時代のイタリアの統制経済体制であるコーポラティズムにも通ずる。《権威主義政治体制やコーポラティズムは、全体主義体制や共産主義体制に比べて、人々への弾圧や動員が少なく、厳密さがそこまで徹底されていないため、酷い体制には見えない。しかし、個人よりも団体が重視され、意見が異なる個人がそれを公表して反対することは困難な体制である。その点で、民主政治体制とは別のものということになる。「グレイト・リセット」の実態は、権威主義体制、コーポラティズムの導入だ、という指摘、そしてその危険なグレイト・リセットがアメリカで推進されようとしていることを私たちは深刻に受け止めなければならない。最新のテクノロジーを使った個人の監視や管理システム(新型コロナウイルス関連で言えばワクチンを接種したか、人混みにでていないかなどの記録や監視)はすでに導入済みだ。「新型コロナウイルス感染拡大対策にご協力下さい」という大義名分、錦の御旗を振りかざして、個人生活の監視と管理はさらに拡大していくだろう。》(110-111p)

そんな折、今朝の日経の連載記事「この父ありて」(梯久美子)で石垣りんの詩の一節を知った。 “ すべてがそうなってきたのだから/ 仕方がない ” というひとつの言葉が/ 遠い嶺(みね)のあたりでころげ出すと/ もう他の雪をさそって/ しかたがない、しかたがない/ しかたがない/ と、落ちてくる。》この詩「雪崩のとき」を探しあてて、その次のページにあった「感想」という詩の一節正しいと思ったことを/ 命がけで言わなければならない時が/ あるかもしれない//「私は何の野心も大それた欲望もない/ ただ平凡で幸福でありたい」と/ そんな何でもないことを言うのさえ/ 勇気のいる日が来るかも知れない》


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コメント 3

須藤祐樹

権威主義体制とは、今まさに日本がおかれている状況のことなのですね。今というより、ずっと そうだったのが、今回の騒動で顕在化したということかもしれませんが。
そんな何でもないことを言うのさえ/勇気のいる日が来るかも知れない…現状を見ると、本当に その通りです。
by 須藤祐樹 (2021-06-13 06:36) 

めい

本との出会い〜石垣りんの詩と随筆 若松英輔
若松英輔「言葉のちから」
2023年12月23日
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD067EG0W3A201C2000000/

週に一度は古書店に行くようにしている。一生を費やしても読み切れないほどの本に囲まれた生活をしていながら、まだ買うのかと呆れられそうだが、本の魔力に貫かれた人間にとって本は、単なるモノではない。人生という険しい道を行くときの同伴者であり、道しるべでもある。

とにかく店に足を運ぶ。探している本の有無は問題ではない。探している本は念頭にない方がよい。書架の前に無心に近い心持ちで立つことができる。

明確な目的がなかったから見過ごしてしまった、ということはさまざまな場面で起こり得る。だが、目的があまりに明確だったから、目的以外のものを見過ごす場合も少なくないのである。私たちは、自分の眼に何が見えなかったかはなかなか認識できない。

新刊書店と古書店は、同じ書店だがいくつかの重大な違いがある。予期せぬ出会いを生む場であることには変わりないが、古書店では、出会う相手が時代を超えてやってくる。現代という時代に、ひとたび忘れられた本たちも、息をひそめて待っているのである。

家の近くの古書店で石垣りんの詩集『やさしい言葉』に出会った。詩を書くようになるまで私は彼女の存在を知らなかった。一読して強く打たれた。彼女に「ことば」と題する詩がある。〈生き生きと/こころに浮んだ詩の一行が/ふと逃げてしまうことがある。/釣りそこねた魚のように/それっきりのこともあれば/月日をへだてて/また目の前にあらわれることもある。〉(『石垣りん詩集』)大切な言葉は自分のなかから湧き上がる。それとの邂逅(かいこう)をじっと待つことができるか。言葉との出会いの秘訣はここにある。

石垣りんの第一詩集は『私の前にある鍋とお釡と燃える火と』と題するもので、自費出版だった。今日でこそ時代を代表する詩人のひとりだが、当時、彼女の詩集に注目した人はけっして多くなかった。意中の詩人の作品はなるべく詩集で読みたいと思い、復刻版ではない、原版を探した。この詩集の相場からいえば安価な値段で入手できたのだが、驚くべきことがあった。署名と相手への言葉が添えられていたのである

〈詩集が出来ました。クリスマスの賑(にぎ)やかな晩に、冷い風の日に、最初の20冊をぶるさげて神田から家へ帰りました。その中の一冊をお受取り下さいませ〉

肉筆の短い手紙を読みながら私は、寒風のなか詩人が小さなからだに重い荷物をもっている姿が見えた気がした。

年の終わりが近づくと、この詩集と手紙の文言、そして、アンデルセンの「マッチ売りの少女」をめぐって彼女が書いた随筆「焔(ほのお)に手をかざして」の、終わりにある一節を思い出す。「あのマッチ棒ほどに短い物語は、文章であることさえ焔にしてしまったのではないか、と思われます」と書いたあと彼女はこう続けている。〈私は、こごえた両手でその火を感じるしかありません。読者もやがて、オハナシのほとりで、少女のように冷たくなるでしょう。/童話は、子供に夢を与えるのでしょうか。私がいちばん多く受け取ったのは、かなしみだったような気がします。かなしみを知って、それから生きてきたのではないか、と。〉

子どもは大人たちが感じているよりもずっと深いところで自分の宿命を生きている。遠い場所で過酷な状況にある子どもたちに平安があることを願ってやまない、というのである。

新刊も古本もほとんどをインターネット経由で買っていた時期が長くあった。検索も配送も便利で、古書の場合は価格の比較もできる。だが四、五年前、本にじかにふれて選ぶ習慣を取り戻そうと強く思った。新刊書は書店で買うという決まりごとも作った。

インターネットを通じて買う本はすべて自分が調べ、探し当てた本である。勘がよいときは検索する言葉のひらめきのようなものがあって、想わぬ出会いがあったりもするが、それでもやはり探しているのは自分である。

古書店では質をまったく異にする経験をする。古色蒼然とした本が巡礼者のような姿をして、私の手に取られるのを待っているのである。

思い込みに過ぎないといわれればそれまでだが、そうした出会いから一冊の本が生まれるのも事実だ。さらに、そうした本はしばしば、そのときの自分に必要な言葉を宿している場合が多い。自分が何を欲しているかは理解できる。だが、何が必要かは、見えていないものである。

(批評家)
by めい (2023-12-24 17:49) 

めい

須藤祐樹くん

若松さんの文章どっかにメモっておきたくて石垣さんつながりでここにきたら、須藤くんのコメント欄を見つけました。

>権威主義体制とは、今まさに日本がおかれている状況のことなのですね。

それが崩れようとしている、そんな気がしませんか。
by めい (2023-12-24 17:55) 

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