SSブログ

新・mespesadoさん講義(34)「国家が赤字なのが正常」 [mespesado理論]

「質素倹約して財政の健全化」、モノのない時代の「我慢感覚」を脱しきれない日本人。「道徳的だと思われてきたことが、実は全く正反対に間違っていた」などというケースは、人類は史上一度も経験したことが無い》。カネなんてモノをスムーズに分配するための「手段」にすぎないことに早く気づくこと。そして早く「こうしたい」「ああしたい」発想に切り替えること。コロナのおかげでゼロベースで考えることのできる今が、「確かな未来」発想のチャンスです。

《先を行く地域と、そうでない地域の圧倒的な違いは、話を聞くとすぐにわかります。/幻想を引きずり、停滞する地域にいくとすぐわかるのは、話のほとんどが「昔話」です。昔は渡し船があったから宿場町として栄えた、明治維新以降の工業化の中心として栄えた。自動車を持っていなかった時代から周りに住んでて商売がうまくいった、などと過去の話ばかりなのです。中には古墳が、旧石器時代に‥‥まで遡ることすらあります。/一方、先を行く地域の人は圧倒的に「未来の話」をします。/自分たちはこれからどうなると予想していて、それに対して何をしているのか、という話をします。過去や問題を語ることは簡単なのですが、未来の夢を語るのは、普段からそういう話をしている人でないと難しいのです。夢には、自分たちの主体的な考えがあり、しかも動機づけがなさているものでないと伝わりません。どうにかして、それを実現するために、チャンスを作ろうとしています。つまり、話が適切な協力者を形成していくためになされているのです。》(木下斉『まちづくり幻想ー地域再生はなぜこれほど失敗するのかSB新書 2021.3)

*   *   *   *   *

241:mespesado :2021/04/24 (Sat) 08:11:33
https://twitter.com/chronekotei/status/1385230746743304197
黒猫亭(CV:大塚明夫)@chronekotei
> だからさぁ、なんで皆さん政治を論じる場面では必ず財務省が見えない
> フリをするんですか。

> 財務省が見えると何か不都合とかあるんですか。政治の話をするのに財
> 務省に一切触れないとかあり得ないですよ。

> 現時点の話題でも、コロナ禍とかバリアフリー化とかいろいろ政治的イ
> シューが論題になってますけど、それ全部財務省がデタラメな理屈こね
> てカネ出さないのがボトルネックになってますからね。

> とくにコロナ禍の問題なんか、カネで解決できる問題が殆どで、なんで
> それが問題化しているかと言ったら財務省がカネ出すの妨害しているか
> らなんですよ。勿論、カネで解決できない問題だって残りますよ。でも
> そんなのカネ出させてからの話であって、出発点で財務省が障碍になっ
> てるんですよ。

> コロナ禍で世代間闘争が発生しているのも、バリアフリー問題で健常者
> と障碍者が対立しているのも、国家が財政として支出可能なカネを財務
> 省が出させないように妨害しているから発生している社会的対立なんで
> すよ。まずそこに触れずに前提視して政治的イシューを論じたって意味
> なんかないですよ。

> 現時点では、あらゆる社会問題はすべて「財務省が狂った信仰で国家の
> 財政政策を妨害している」に帰結しちゃうんですよ。だから「国がカネ
> を出せばよい」という解法で解決不能な問題については、まず財務省を
> この世から消滅させてからでないと論じられないはずなんですよ。

↑そのとおりなんですが、ではなぜ皆が「財務省が見えないふりをしている」のかというと、別に見えないふりをしてるんじゃなくて、皆が「赤字はいけないこと、赤字になったら大変だ」と、まるで息をするくらい当たり前に信仰してるからなんですよね。だから財務省の「赤字を防ぐ」方針が当たり前だと思ってしまう。
 だからこそ、諸悪の根源は「財務省」ではなくて、実は「民意」の方だ、と主張するのが昨今一部界隈で見られる「民主主義批判」の風潮なんですね。でも、それじゃあ「民主主義」を止めて、「君主主義」に切り替えればうまくいくのか、と言われれば、それも疑問です。なぜなら、君主が独断で政策を実行する方式であれ、君主を奉って、実質は「忠臣」が政治を仕切るという方式であれ、前者であれば君主の、後者であれば忠臣の力量が問われる。ところが、この「君主主義」が機能するのは、「道徳的に善だと思われている政策が、個々人にとっては我慢を強いられる内容であり、その結果、財力を持った一部の人達が、自分たちが損をしないように画策し、その結果、一般庶民が不利益を被る」というケースの場合だけなんですね。
 だから、TV時代劇の「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」なんかでは、道徳的に清く、しかも絶対的権力を持つヒーローが、「財力を持った一部の人達」の利己的行為を成敗してめでたし、めでたし、となる。
 しかし、この「君主主義」は、「道徳的に善だと思われていることが、実は錯覚であり、それを実行すると、かえって皆が不幸になる」ようなケースでは、全く機能しない。いや、それどころか、君主の道徳への思い入れが強ければ強い程、「民主主義」より酷いことになるんですね。それだからこそ、「絶対君主制」下での江戸時代で「享保の改革」とかいう「破壊的政策」を、道徳的だと評価されている「名君」の「徳川吉宗」が実行して悲惨なことになったわけで…。
 今の緊縮財政は、まさにこのど真ん中のケースなんですね。しかもこの緊縮財政を当然とする「錯覚」は、日本だけの問題ではなく、世界共通でもある。だから、これは日本がしばしばその歴史の節目でお世話になった「外圧」によっても改善されることが無い。
 そこでコロナ禍ですよ。これは、日本はともかく、海外で理不尽なくらい経済的ダメージを与えた。その結果、日本ほど「人々に我慢させる傾向が、ことのほか強い道徳性」を持たない海外で、やむを得ない財政出動がまず実施され、その結果、経済が回復される、という実績が誰の目にも明らかになる、という形で我々の前に見せつけられる、それでようやく「一般人」であれ、「君主」であれ、「忠臣」であれ、彼らが錯覚から解放されて、ようやくまともな政治に方針転換される。
 それしかまともな政治に切り替わるシナリオが見えない。
 昨今の最大の問題である「貨幣論の錯覚」によるデフレスパイラルというのは、要するにそういうことなんですね。
 でも、もしかしたら、コロナ禍だけではまだそこまでたどり着けないかもしれない。ことによると、「大規模地震」とか、「大惨事w世界大戦」とか、もっと酷いカタストロフィーが起きないと、人類は、貨幣論の「錯覚」から目覚めないかもしれませんね。何せ、「道徳的だと思われてきたことが、実は全く正反対に間違っていた」などというケースは、人類は史上一度も経験したことが無いのですから。

242:mespesado :2021/04/24 (Sat) 09:46:14
>>241
> 「大規模地震」とか、「大惨事w世界大戦」とか、もっと酷いカタスト
> ロフィー

↑こう書きましたが、ちょっと補足。
 我が国でカタストロフィーと言えば、近代以降では「明治維新」と「大東亜戦争の敗戦」がありますが、こういうカタストロフィーではうまく機能しないと思うのです。
 なぜなら、「貨幣論」の錯覚から目覚めるには「国家が赤字なのが正常」であることに気付くことが必須ですが、まずは「明治維新」の方から考えると、明治維新の前後で何が一番違うかというと、それ以前の「農本主義」から「資本主義」に経済制度が相転移したこと。これにより、庶民の消費欲求に火が付いた。つまり、それ以前は、衣食住と言うけれど、例えば「衣」については、服など一生もので貴重品。今のユニクロ(昨今のデフレ下ではこれすら高級品になりつつあるようですが)のような「使い捨て」できるような感覚ではなかった。そりゃそうです。服一着作るにも、人力で機織りしなきゃ作れないんですから、圧倒的に生産供給力が不足していた。だから、インフレになりこそすれ、デフレになる理由が無かった。たまに享保の改革のようなデフレ政策が行われても、これは「わざと」贅沢を禁止した「やせ我慢」の政策だから、それをやめて元に戻せば、すぐ供給不足の通常に戻ることができた。これに対して明治維新以降は大量生産が可能になったことで、確かに供給力は飛躍的に伸びましたが、それに合わせて庶民の消費欲求も飛躍的に高まり、むしろ供給不足が著しく顕在化しました。通常であれば、ここで経済活動の増加に伴って貨幣が不足するはずですが、企業が設備投資の為に借金して信用創造で貨幣が増えたので、結果として貨幣不足が解消し、国民は、貨幣論の誤りに気付くことが無かった。
 次に大東亜戦争の敗戦ですが、これは日本側の「玉砕精神」と連合国側の「恐ろしい日本軍を完全破壊したい」という両者の思惑が重なって、日本国内の生産施設が破壊し尽くされたため、供給力の著しい不足が実現し、そこから急速な生産力の増強が行われ、そのための設備投資による信用創造で、これまた貨幣不足が補われ、この場合も国家による貨幣の増刷に頼ることなく、貨幣不足が解消されてしまった。
 つまり、今後カタストロフィーが起きたとしても、生産設備の破壊を伴うカタストロフィーでは、国民が貨幣論の誤りに気が付くきっかけにならないのです。ですから、今後望まれるカタストロフィー(変な概念ですがw)とは、「大量破壊を伴わないカタストロフィー」です。つまり、戦争とは言っても、情報戦争とかで、供給力は保存したまま需要が滞るようなタイプのカタストロフィーでなければならない。そして、近代的な戦争は、まさにそういう方向に進んでいます。そういう意味では「期待」は持てます。しかしカタストロフィーはカタストロフィーですから、悲惨は悲惨ですけどね。





nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。