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『上杉鷹山 』(小関悠一郎)を読む(5)「法を取る者多し」 [上杉鷹山]

東北の幕末維新m_E69DB1E58C97E381AEE5B995E69CABE7B6ADE696B0.jpg米沢藩士甘糟継成は「寛政以来、御治声高く、諸藩より来て、法を取る者(学びに来る者)多し」と『鷹山公遺跡録』(1862)に記した。

《「近来、三代打ち続き国政よろしき段、将軍家の御聴に達し御賞‥‥日本国中の規模成るべし」(『奥羽政談評判秘録』天保年間)と言われたように、鷹山とその後の米沢藩主が賞されたことで、米沢藩の「国政」は、全国諸藩の「規模」(模範)だと見なされるようになっていた。》(223p)《幕末期に政治を論じるほどの人々にとって、米沢藩政は政治論議の際の基準となっていった。》(225p)という。かの横井小楠(1809-1869)をしてこう言わしめた。《「鷹山公に比類仕り候人は真似て見当たり申さず、先ず此の公は和漢独歩と存じ奉り候」》(225p)。さらに明治になって伊藤博文(1841-1909)曰く、《「我が日本封建時代、名君の誉を馳する者四人、紀州南龍公、備前新太郎少将、肥後霊感公及び上杉鷹山公是なり。‥‥天樹院公の明賢‥‥加へて天下の五名君と称す可し」》(226p)。著者は言う、《上杉鷹山・米沢藩を取り上げて行われた人々の議論は、近代日本の政治文化ーー理念や君主像・人間像・政治論の文法や質ーーを、近世の側から準備していく役割の一端を担うことになったように思われるのである。》(227p)さらに《近代日本における政治理念や君主像・人間像のあり方につながる議論の醸成を促したところに上杉鷹山という「明君」の登場と米沢藩の改革が持った一つの意義があると言えるだろう。それは、幕末維新期にかけての動きが高く評価されてきた西南諸藩に対して、米沢藩の改革が持った歴史的意味でもあった。》(229p)要するに、《「富国安民」の理想を、現実政治の上でも体現したのが上杉鷹山の改革なのだ。》(232p)この著の最後、問題を投げかけて閉じる。《鷹山が掲げた「富国」(経済)と国民の生活、さらに言えば平和と軍事は、現代に至るまで一貫して議論の焦点であり続けている。「富国」の政治課題化の始点に位置して、「富国安民」を追求した上杉鷹山の改革は、近代日本が採用した「富国強兵」の国家理想とは一線を画すものとして、現代の私たちに多くの問いを投げかけているのである。》(234p)

寛政の改革が軌道に乗り出すと、米沢藩士の間には利を求めて販売に従事する者、商人のように藩外との取引を行う者も多く出るようになった。このことについて、七家騒動で斬首された藁科立沢の子藁科立遠が、《その原因を藩士の「貧窮」に求めた上で、こうした営為を苦々しく記述している。このような藩士たちの営為について鷹山も、「年来の刈り上げに家中衰弊せしめ候より、毎度、活生の事申し達し候続き、自然と利にも趨(はし)りやすく成り行き候事、勢いの自然とは申しながら残念なるこ事」(「管見談」》(214p)と同調している。《米沢藩士による農商的営為は、十八世紀末には広く見られたのだが、それには当初、批判的な視線が投げかけられていたのだった。》(214p)藤沢周平の『漆の実のみのる国』もここを問題にした。そのレビューにこう書いたことがあった。→藤沢周平著「漆の実のみのる国」を読んでhttps://oshosina.blog.ss-blog.jp/2017-01-28

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莅戸善政(九郎兵衛)が鷹山公に語りかける。《「・・・憂慮すべきことは、暮らしの助けにはじめた商売が、金儲けのたのしみに変わりつつあるということではないでしょうか。・・・」》この箇所を読んで私を過(よぎ)ったのは、「商売がたのしみになったら最高。それこそ活力の源泉」の思いだった。しかもそれは「金儲け」の介在があればこそ生まれる活力であり、そのエートス(行為基盤)こそが近代の産業社会を発展せしめたものではなかったか。しかし、鷹山公の応えはあくまで莅戸の憂慮に沿っている。《「国力の衰微のせいとはいえ、容易ならぬ事態に立ちいたったものだの、九郎兵衛」》(下263p)。その後近代を経て今に至る感覚からすれば、時代の根底をなしてきた活力の源泉を否定したことになる。

この場面は、藁科立遠(わらしなりゅうえん)が善政に提出した意見書『管見談』をめぐっての対話である。上巻第7章に『管見談』からの引用がある。《「当世の人、役儀を望むは忠義の志にあらずただ利を営まんがためなり。世の事に立身出世を望むも竈(かまど)にぎはしたきが故なりといふあさましき言葉もあり。ただただほしきものは金銭にて、何をもってわが家を利し、何をもってわが身を利するかをねがってそれのみに肝胆を砕き、利を見ては人の痛み、世の恵みを顧みず、乃至は厳刑を恐れざるに至れり。礼儀廉恥を絶たんとして士風の頽廃すでに極まれり」》(上42-43p)「管見談』は、終章で描かれる寛政3年(1791)の前年に提出されたものである。著者に『管見談』への共感があることは明らかだ。善政の子政以(まさもち)に「九郎兵衛は元気か」と訊ねた時、「暮らしが貧しいと、かえって身体にはよいように思われます」(172p)と答えさせているが、著者にとって「求利」はあくまで二義的である。

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しかし、全国諸藩から米沢藩に来る者が学びたかったのは何より、藩士の「農商的営為」の実情であった。ここに齟齬があった。考えてみたい。

実は、昨日小関著の末尾《富国」の政治課題化の始点に位置して、「富国安民」を追求した上杉鷹山の改革は、近代日本が採用した「富国強兵」の国家理想とは一線を画すものとして、現代の私たちに多くの問いを投げかけているのである。》(234p)を書き写した後、その後の米沢藩失速について思い巡らしていた。最初に市制施行なった市なのに10万都市になれない市としてしばしば自嘲的に語られる。西村睦男氏による「藩領人口と城下町人口」という論考を見つけた。file:///Users/takaoka/Downloads/111_001.pdf それによると、城下町米沢は、石高順に並ぶ全国222藩(明治初年の県)中、14.7万石で全国30位。当時の人口が26,960人(明治12年)と今を比較すると、令和3年(2021)現在48,314人なので1.79倍。この間日本全体では明治12年(1879)3646万人が現在1億2557万人なので3.45倍。142年間の人口伸び率は全国水準のほぼ1/2。当時の勢いは今の米沢にはない。鷹山公の治績が全国から評価されていた米沢が失速したのはなぜか、どうも米沢藩自身の中にあった「求利」への及び腰にその理由があったのではなかったか、と思い至った。

戊辰の役は米沢藩にとって実に辛い体験であった。→「戊辰戦争150年」雲井龍雄の悲しみhttps://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-10-26-1 その辛さをまるごと背負って刑場の露と消えたのが雲井龍雄だった。龍雄は最後まで日本の歴史の「内的必然性」を貫いた人物だったと私には思えている。たとえば坂本龍馬につきまとう「外国秘密結社のエージェント」的影は龍雄には無縁である。明治維新は、日本の「内的必然性」の敗北であり、外国勢力の勝利であったという視点もあろう。そのことで日本は、世界史的「近代」への参加資格を得たのだった。近代明治国家が採った「富国強兵」は、鷹山公の「富国安民」の世界とは別次元である。以来一世紀半、どちらが普遍かと言えば「富国安民」が普遍である、と言える世の中になってきたのではないか。「求利」への及び腰こそが健全であり、それゆえ「普遍」なのである。・・・そう言い切ってみたところで、この項アップしておきます。(つづく)


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