力量と器〜吉本隆明『詩とはなにか』(若松英輔) [若松英輔]
力量と器〜吉本隆明『詩とはなにか』 若松英輔
晩年、思想家の吉本隆明さんと何度か会い、短くない時間、語らうことができた。話し込んでいるうちに夕餉(ゆうげ)の時間になり、揚げたてのコロッケ――吉本家の名物だった――をともに食したことも何度かあった。
当時の私はまだ、雑誌に何作かの作品を発表しただけで、本を送り出したこともなく、ひとりの文学愛好家として吉本さんの前に座っていたに過ぎない。記録に残るような対談をしたわけでもないし、取材めいたことで会ったのでもなかった。ただ、延々と話をしただけである。あいだを取り持ってくれたのが娘の吉本ばななさんで、「父さんの作品が好きな人が行く」、というくらいの紹介だったらしい。
話してみれば、ばななさんの方法がじつに的を射ていることが分かった。隆明さんには、いわゆる肩書はもちろん、職業名などの情報はまったく必要なく、ひとりの人間が、何かのっぴきならない問いを胸に宿して、そこに存在していれば、それで足りる、といった感じだったからだ。誰が相手であれ、自分がそのとき真剣に考えていることを全力で語り始めるし、投げかけられた問いは全身で受け止めようとする。別ないい方をすれば、彼は眼前の人をあたかも、ひとりの代表者であるかのように対話するのである。
吉本さんと二人だけのこともあったが、別な人が座を同じくすることもあった。その別な人に対しても吉本さんは、その人の背景を気にかけることなく、ただ対話を深めることに注力しているようだった。つまり、問われるのはどんな知識を有しているかではなく、その人がどう生きているかなのである。
会話で吉本さんが一度ならず口にし、そしてそれゆえに深く印象に残ったのが「力量」という言葉である。「もっと(自分に)力量があれば」と言うこともあったし、親鸞にふれたときだったと思うが、「あの人のようにすごい力量があれば」と語ることもあった。
力量という月並みな言葉も吉本さんの口からでると、まったく異なる語感を伴ってくる。力量と彼がいうときの「力」は、語学力、語彙力、理解力、表現力などとはまったく違う。むしろ「ちから」とひらがなで表記し、特定の方向への囚(とら)われなきはたらきであると表現したくなるものだった。量の一語もまた、重量的というよりは熱量的なもので、ある種のエネルギーのように感じられた。
また、彼がいう力量は技量と無関係ではないが、質を異にするものであり、技量をどこまで高めても、力量の地平には至らないということが前提であるかのようだった。技量は訓練と学習を積むことで、ある程度まで達成できる。だが、それに力量が備わっているとは限らない。なぜなら力量という言葉にはどこか、他の人と比べようがない、その人独自の、という語感があるからである。
吉本さんは批評家、思想家として紹介されることが多いが、独創的な詩人でもあった。『詩とはなにか』と題する本で、詩を書く営みをめぐってこう書き記している。
「詩とはなにか。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、かくという行為で口に出すことである。」
全身を賭して「口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのこと」を書くこと、それが彼にとっての詩作だった。力量とは何かという問いに己(おの)れを賭すちからだといってもよい。
技量、力量に似て、器量という言葉もある。「器が大きい」、「器が小さい」、「器ではない」ということもある。「大器晩成」という表現もある。ともあれ、人間が成熟していくとき、「器」と呼びたくなる何かを内に蔵さなくてはならないらしい。
ここでいう「器」は、鉄製の頑丈なものでなく、乱暴に扱えば欠けてしまう繊細なもので、皿のように平たいものでなく、深みをもったものでもあるのだろう。私たちはそこに、ほかの人の目には見えないところで流した汗や涙を蓄える。それがいつしか清水となって私たちの内界を浄化し、育むのではないだろうか。
戦国時代に始まり、現在に至ってもなお、表現しがたい熱情をもって一個の茶碗(ちゃわん)を求める者たちがいる。動機や理由、目的もさまざまであることは歴史が証明しているが、なかに美しい茶碗の訪れを、己れの成熟した心の顕現であると捉えた人たちがいたことも事実である。美の経験と心の成熟には分かちがたい相補関係があるように思えてならない。
(批評家)
コメント 0