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「モチーフ」という実在(若松英輔) [若松英輔]

《モチーフは、自分というものが鎮まったとき、力を帯びて顕現する。それをつかもうとしたり、自分の自由にしようとしたとたん、関係は見失われる。人はモチーフを実現するために生きるのではない。むしろモチーフによって生かされている。モチーフは見えない守護者である。それがこの画家の実感だったのである。》

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セザンヌとモチーフ〜小林秀雄『近代絵画』 若松英輔

言葉のちから

イラスト・西 淑

芸術が生まれるところにはどんな形であれ、モチーフが存在している。作り手に意識されていないことは、言葉では明確に語り得ない場合も多い。だが、そこには何かが実在する。そもそも文学という言葉の芸術を別にすれば、芸術は非言語的であることを基軸にしているのだからモチーフは明瞭に語られる必要もない。画家などがモチーフを語ったりすると作品の魅力が減ずることすらある。

モチーフは「主題」と訳される場合もあるが、そんなに大人(おとな)しいものではない。モチーフはフランス語の日本語表記で、英語で動機を意味するモチベーションと語源を同じくする。それは内面にあって、私たちに何かを表現せよと強く突き動かすはたらきにほかならない。その作品が生まれる根本動機だと考えてよい。

技量は優れているが訴えるものに欠ける、という作品が存在する。そこで問題になるのはモチーフなのではないだろうか。モチーフが作り手にとって、真摯な、そして切実なものである場合、作品が未完成であっても、見る者に強い衝撃を与えることは少なくない。

人生においてはどうだろう。生きるモチーフと呼ぶべきものは存在するのだろうか。それは生きる動機というよりも、人生をかけがえのないものにするはたらきなのかもしれない。

モチーフと目標は似て非なるものである。目標は達成でき、ひとたび成し遂げると徒(いたず)らに満たされて満足の沼と呼ぶべき場所から逃れられなくなったり、燃え尽きたようになり行き先を見失うこともある。目標が目的になるとき、危機が潜んでいる。目標を通り越したところに自分の居場所を見つけられない。こうした現象は、学校の入試だけでなく、さまざまな場面でも起こることがある。目標は、どこまでも道標であるほうがよいのかもしれない。

仕事の現場ではしばしば、「モチベーションを高める」「モチベーションが下がる」という。それは「やる気になった」「やる気が失(う)せた」ことの別な表現だろう。モチベーションは上下する。乱高下することすらある。モチーフは違う。モチーフは漂うように存在し、静かに深まっていく

社会で活躍している人が、急に目標を見失ったようになる。そんな人たちに出会ってきた。いろんな理由があるのだろうが、モチベーションとモチーフを混同していたこともその一つなのかもしれない。モチベーションは、自発的であるように見えて、そうではない。会社や世の評価、あるいは賃金や処遇といったものに牽引(けんいん)されていることが多いのだ。

いっぽうモチーフは自発的であるだけでなく、他の人の目には容易に見通せないかたちでその人の心の奥深くに宿る。

生きるモチーフという問題を考えるようになったきっかけは、小林秀雄がセザンヌを論じた文章を読んだことだった。はじめて読んだのは二十代だったと思う。二十年ほど経って、明らかに人生の後半に入って来たとき、その言葉が忽然(こつぜん)とよみがえってきた。

ガスケという詩人は晩年にセザンヌと親しくなり、この画家との日々をまとめた一冊の本を残した。翻訳も出ているが、今は、小林秀雄の『近代絵画』にある言葉に立ち返りたい。

ある日、セザンヌはモチーフをつかんだ、といってガスケの前で祈るときのように両手を握り合わせた。「モチフとは、つまり、これだ」という。ガスケが怪訝(けげん)な顔をしているとセザンヌはこう続けた。

こういう具合にモチフを捕える。こうならなくてはいけないのだ。上に出し過ぎても、下に出し過ぎても、何も彼もめちゃめちゃになる。少しでも繫(つな)ぎが緩んだり、隙間(すきま)が出来たりすれば、感動も、光も、真理も逃げて了(しま)うだろう。解(わか)るかね」。

このあともこの画家は、モチーフをめぐる自らの実感を語り続けた。その言葉には画家の告白といった趣があり、彼の作品が生まれ出る源泉の光景をかいまみる気さえする。少なくない言葉を発したあと、彼は最後にこういう。「要するに私というものが干渉すると、凡(すべ)ては台無しになって了う。何故(なぜ)だろう」。

モチーフは、自分というものが鎮まったとき、力を帯びて顕現する。それをつかもうとしたり、自分の自由にしようとしたとたん、関係は見失われる。人はモチーフを実現するために生きるのではない。むしろモチーフによって生かされている。モチーフは見えない守護者である。それがこの画家の実感だったのである。

(批評家)


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