新・mespesadoさん講義(120)「善悪をどう考えるか」 [mespesado理論]
「善悪をどう考えるか」、そのmespesadoさん探求発言の最後はこう締められます。《まず最初に、エゴが勝手に貼っているラベルに過ぎない「良し悪し」の指標は捨てて、かわりに「この出来事をその『善悪』という価値判断など考えずに(=手放して)、ただ起きたことそのものとして理解する。しかもそれだけで終わらせないで、これは実は『自分の魂が向上するために、必要があって起きたことなのだ』と本気で思うことによって、脳がこれをうまく生かして脳が勝手に努力して、魂の向上に結び付けてくれる」ということだと思うわけです。》
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この言葉は私の中で、次の言葉にリンクしました。《誰れにでも大きな声で話せることならば如何なる問題にても神々の恩頼(ミタマノフユ)を御願ひして少しも恥づることはありませぬ、人事を尽して神助を仰ぐことは神の子たる人々の正しき道であります、神様は敬神者のために大なる災禍を小ならしめ其の遠きものを近よせて普通にみれば災害むらがり起るかと思はれるやうな境地に導かれることもありますが、これ其人が真に浄められつつ恩寵の境に導かれる幸福の音づれであります、深く広く遠き神の摂理は、視野の短小なる普通の人々の測り知ることが出来ないものであります、神は愛なることを信じて何も彼もカムナガラだと安住するものは平凡なる偉人であります》(「神道天行居信条及び心得」第26条)
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昨日読んでメモしておかねばならないと思っていた言葉も書いておきます。《何かを理解しようとするときに確かさを求めるのは、人間が犯す最大の過ちの一つだ、と私は思う。知の探求を育むのは確かさではなく、根源的な確かさの不在なのだ。自分たちが無知であることを鋭く意識するからこそ、疑いに心を開いて学び続け、よりよく学び続けることができる。それこそが、一貫して科学的な思索ーー好奇心と反抗と変化から生まれた思索ーーの力だった。哲学的にも方法論的にも、知の冒険の碇をを下すことのできるもっとも基本的な、あるいは最終的な定点は存在しない。》(『世界は「関係」でできている』117p)実は、放知技板でのDNAさんの貴香さんに対する忠告発言(https://grnba.bbs.fc2bbs.net/reply/17332230/173/)がこの文章と繋がったのですが、mespesadoさんの「探求」姿勢にそのまま通ずるように思えたのでした。
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177:mespesado :2022/01/23 (Sun) 12:58:25
>>172 貴香さんwrote:
> 絶対良かったなんて思え無い様なことが起こってしまっても、それが起
> こったと云うことで※カルマは完了した、と云うことになるので良いも
> 悪いも終了なのです。
> だから「あぁこれで一つのカルマが終了した、良かった」と無理矢理に
> でも良かったと思考しましょう。
↑このくだりを読んで、ふと気づいたこと。
一見これと関係ない話に見えると思いますが、しばしお付き合いを…
よくある話ですが、喧嘩とか、何らかのトラブルの発生にかかわったとき、言うセリフ:
「俺、悪くないもん!」
これ、自分の「エゴ(=自分が自分だと思っている自分)」が、必死で自分に責任が無いことを相手に理解させようとしてつい出てしまうセリフですよね。私もしょっちゅうこれをやってしまいます。で、慣れてくる(=自分の「エゴ」が悪賢くなる)と、「俺は悪くない!」と「発言」すると、相手の怒りに余計火をつけることを「学習」するから、口に出して発言はしないようになる。でも、心の中では「俺は悪くない!」って思ってるから、どうしても表情とか態度に出る。果ては「こうやって自分が悪くないって内心思っていること自体が『悪いこと』なんだ」と自責の念に駆られて、ついには自分で自分が悪くないと思っていることを「拒否」しようとする。これでは自己の感情の抑圧です。いろんな万病のもとにさえなりかねません。
で、ふと思ったのです。ここで俺が悪くない、と言うときの「悪い」ってどういう意味なんだろう。どういう意味のつもりで使ったんだろう?
これって、典型的な「善悪判断」の「悪」の方の意味で使っていた。しかも、その「善悪」判断って外部の価値観による善悪だった…。
「善悪」でも、「頭の良し悪し」でも「体力の有無」でも、すべて「優劣」の個別例に過ぎないけれども、自分の「エゴ」って、しょせん外部の価値観に縛られた概念に過ぎないのに、自分は必ず「優劣」の「優」の方に居ないと耐えられない、そういう性質を持っているようです。例えば「体力」は自信があるけれど「頭脳」に自信が無い人は、一見すると「体力」が「優」であることだけでなく「頭脳」が「劣」であることを認めているように見えるけれども、その人のエゴの中では、内心「体力」と「頭脳」の二つ「指標」を比較して、「体力」という指標自体に「優」、「頭脳」という指標自体に「劣」という価値判断を与えて、自分が「優」な指標とみなす「体力」という指標に劣後する「頭脳」という指標そのものをバカにすることによって、自分に「劣」のラベルを貼ることを防いでいるわけですね(もちろんこの例と反対の人もいますが、そういう人は指標の価値判断が「頭脳」>「体力」なだけで、同じことですね)。
で、この泥沼から抜け出す根本的な方法って何か?と考えているとき、ふと思ったのです。「俺が悪い、悪くない」における「悪い」という言葉を次のように再定義してみたらどうか?
「悪い」とは、自分が引き起こした何らかの発言や行為があったことによって、相手が迷惑なり被害を被った場合に、その自分が引き起こした発言や行動のことを「悪い」と呼ぶ(定義する)、と。ただしこの場合、「自分の発言や行為があったことにより」というのを「自分の言動に責任があって」という意味に取ってはいけません。純粋に「物理的」に、「もしその自分の言動がなかったとしたら起こらなかったであろう」というだけの関係のことを指します。「責任がどちらにあるか」などと「エゴ」の大好きな「二元論」という「エサ」を「エゴ」に与えてはいけませんw
つまり、「善い・悪い」という、「優劣」の問題にすぐ「変換」されてしまう意味での「劣位な方の概念」としての「悪い」ではなく、単に、自分の言ったりやったりしたことがあったために、結果的に相手が迷惑を被ってしまったという「事実」そのもののことを指す概念として「悪い」という言葉を再定義するわけです。
このように考え直すことによって、何でもすぐに優劣に結び付けてしまう習性がある自分の「エゴ」の癇に障らないようにしておくと、素直に「ああ、本当に自分が『悪』かったな」と思えて、自然に相手に謝る気持ちも湧いてくるような気がするんです。
さて、ここで貴香さんの文章の引用部分の話に繋げます。
何か、自分にまつわる出来事があったとき、それが自分にとって「良いこと」なのか「悪いこと」なのか、という話ですよね。これは、上で私が述べた「自分が良いか悪いか」の「良し悪し」とはやや次元が違います。自分が良いか悪いか、というのはハッキリ言って、自分の気持ちの中で閉じた話です(もちろん裁判とか事故に関する交渉ごとなど実益が絡んでくる場合は除く)。それに対し、出来事の良し悪しは、自分の利害がかかわってくる、という意味で、より「大ごと」ではあります。でもよくよく考えると、根本のところで両者は「同じ」です。なぜなら、自分の内心のことであろうが、実際の出来事であろうが、物理的にはその「事象」が、そこに、ただ「存在するだけ」です。この、単に「存在するだけの事象に過ぎないもの」に「良い」とか「悪い」という価値判断のラベルを貼っているのは自分の「エゴ」です。エゴがそういう「価値判断」を勝手にしているだけです。これは、人間の長い歴史で「個々の事象を個別に分析して対策を練るのは面倒で時間と労力がかかるから、善悪という単純な指標にまず『変換』することによって、判断が楽になるようにしている」という生物学的進化論的な利便性があったから、そのような善悪判断をするように人間の脳が「進化」してきたのでしょう。しかし、人の世は、そのような生物進化で利便性が向上する時代を超え、高度に複雑化してしまった結果、この「善悪判断への変換」という本来生物にとって好都合だったはずのプロセスが、逆に人間を苦しめるようになってきた、ということなのではないでしょうか。
そして、善悪判断なしで、単に出来事を「そのこと自体」として把握し、理解する。それだけでも冷静になれて、苦しむことがかなり減るような気がします。
そして、貴香さんの引用部分の後半。ここで「あぁこれで一つのカルマが終了した、良かった」←これなんですが、この部分ってまさに「脳は本気で納得すると、勝手に解決策を発見してくれる」という斎藤一人さんの言っていたことにつながると思うんです。つまり、まず最初に、エゴが勝手に貼っているラベルに過ぎない「良し悪し」の指標は捨てて、かわりに「この出来事をその『善悪』という価値判断など考えずに(=手放して)、ただ起きたことそのものとして理解する。しかもそれだけで終わらせないで、これは実は『自分の魂が向上するために、必要があって起きたことなのだ』と本気で思うことによって、脳がこれをうまく生かして脳が勝手に努力して、魂の向上に結び付けてくれる」ということだと思うわけです。
>>172 貴香さんwrote:
> 絶対良かったなんて思え無い様なことが起こってしまっても、それが起
> こったと云うことで※カルマは完了した、と云うことになるので良いも
> 悪いも終了なのです。
> だから「あぁこれで一つのカルマが終了した、良かった」と無理矢理に
> でも良かったと思考しましょう。
↑このくだりを読んで、ふと気づいたこと。
一見これと関係ない話に見えると思いますが、しばしお付き合いを…
よくある話ですが、喧嘩とか、何らかのトラブルの発生にかかわったとき、言うセリフ:
「俺、悪くないもん!」
これ、自分の「エゴ(=自分が自分だと思っている自分)」が、必死で自分に責任が無いことを相手に理解させようとしてつい出てしまうセリフですよね。私もしょっちゅうこれをやってしまいます。で、慣れてくる(=自分の「エゴ」が悪賢くなる)と、「俺は悪くない!」と「発言」すると、相手の怒りに余計火をつけることを「学習」するから、口に出して発言はしないようになる。でも、心の中では「俺は悪くない!」って思ってるから、どうしても表情とか態度に出る。果ては「こうやって自分が悪くないって内心思っていること自体が『悪いこと』なんだ」と自責の念に駆られて、ついには自分で自分が悪くないと思っていることを「拒否」しようとする。これでは自己の感情の抑圧です。いろんな万病のもとにさえなりかねません。
で、ふと思ったのです。ここで俺が悪くない、と言うときの「悪い」ってどういう意味なんだろう。どういう意味のつもりで使ったんだろう?
これって、典型的な「善悪判断」の「悪」の方の意味で使っていた。しかも、その「善悪」判断って外部の価値観による善悪だった…。
「善悪」でも、「頭の良し悪し」でも「体力の有無」でも、すべて「優劣」の個別例に過ぎないけれども、自分の「エゴ」って、しょせん外部の価値観に縛られた概念に過ぎないのに、自分は必ず「優劣」の「優」の方に居ないと耐えられない、そういう性質を持っているようです。例えば「体力」は自信があるけれど「頭脳」に自信が無い人は、一見すると「体力」が「優」であることだけでなく「頭脳」が「劣」であることを認めているように見えるけれども、その人のエゴの中では、内心「体力」と「頭脳」の二つ「指標」を比較して、「体力」という指標自体に「優」、「頭脳」という指標自体に「劣」という価値判断を与えて、自分が「優」な指標とみなす「体力」という指標に劣後する「頭脳」という指標そのものをバカにすることによって、自分に「劣」のラベルを貼ることを防いでいるわけですね(もちろんこの例と反対の人もいますが、そういう人は指標の価値判断が「頭脳」>「体力」なだけで、同じことですね)。
で、この泥沼から抜け出す根本的な方法って何か?と考えているとき、ふと思ったのです。「俺が悪い、悪くない」における「悪い」という言葉を次のように再定義してみたらどうか?
「悪い」とは、自分が引き起こした何らかの発言や行為があったことによって、相手が迷惑なり被害を被った場合に、その自分が引き起こした発言や行動のことを「悪い」と呼ぶ(定義する)、と。ただしこの場合、「自分の発言や行為があったことにより」というのを「自分の言動に責任があって」という意味に取ってはいけません。純粋に「物理的」に、「もしその自分の言動がなかったとしたら起こらなかったであろう」というだけの関係のことを指します。「責任がどちらにあるか」などと「エゴ」の大好きな「二元論」という「エサ」を「エゴ」に与えてはいけませんw
つまり、「善い・悪い」という、「優劣」の問題にすぐ「変換」されてしまう意味での「劣位な方の概念」としての「悪い」ではなく、単に、自分の言ったりやったりしたことがあったために、結果的に相手が迷惑を被ってしまったという「事実」そのもののことを指す概念として「悪い」という言葉を再定義するわけです。
このように考え直すことによって、何でもすぐに優劣に結び付けてしまう習性がある自分の「エゴ」の癇に障らないようにしておくと、素直に「ああ、本当に自分が『悪』かったな」と思えて、自然に相手に謝る気持ちも湧いてくるような気がするんです。
さて、ここで貴香さんの文章の引用部分の話に繋げます。
何か、自分にまつわる出来事があったとき、それが自分にとって「良いこと」なのか「悪いこと」なのか、という話ですよね。これは、上で私が述べた「自分が良いか悪いか」の「良し悪し」とはやや次元が違います。自分が良いか悪いか、というのはハッキリ言って、自分の気持ちの中で閉じた話です(もちろん裁判とか事故に関する交渉ごとなど実益が絡んでくる場合は除く)。それに対し、出来事の良し悪しは、自分の利害がかかわってくる、という意味で、より「大ごと」ではあります。でもよくよく考えると、根本のところで両者は「同じ」です。なぜなら、自分の内心のことであろうが、実際の出来事であろうが、物理的にはその「事象」が、そこに、ただ「存在するだけ」です。この、単に「存在するだけの事象に過ぎないもの」に「良い」とか「悪い」という価値判断のラベルを貼っているのは自分の「エゴ」です。エゴがそういう「価値判断」を勝手にしているだけです。これは、人間の長い歴史で「個々の事象を個別に分析して対策を練るのは面倒で時間と労力がかかるから、善悪という単純な指標にまず『変換』することによって、判断が楽になるようにしている」という生物学的進化論的な利便性があったから、そのような善悪判断をするように人間の脳が「進化」してきたのでしょう。しかし、人の世は、そのような生物進化で利便性が向上する時代を超え、高度に複雑化してしまった結果、この「善悪判断への変換」という本来生物にとって好都合だったはずのプロセスが、逆に人間を苦しめるようになってきた、ということなのではないでしょうか。
そして、善悪判断なしで、単に出来事を「そのこと自体」として把握し、理解する。それだけでも冷静になれて、苦しむことがかなり減るような気がします。
そして、貴香さんの引用部分の後半。ここで「あぁこれで一つのカルマが終了した、良かった」←これなんですが、この部分ってまさに「脳は本気で納得すると、勝手に解決策を発見してくれる」という斎藤一人さんの言っていたことにつながると思うんです。つまり、まず最初に、エゴが勝手に貼っているラベルに過ぎない「良し悪し」の指標は捨てて、かわりに「この出来事をその『善悪』という価値判断など考えずに(=手放して)、ただ起きたことそのものとして理解する。しかもそれだけで終わらせないで、これは実は『自分の魂が向上するために、必要があって起きたことなのだ』と本気で思うことによって、脳がこれをうまく生かして脳が勝手に努力して、魂の向上に結び付けてくれる」ということだと思うわけです。
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