「小田仁二郎特別展」(山形新聞) [小田仁二郎]

土日休館日ですが、新聞を見て遠くからおいでの方もおられるので、なんとかご覧いただけるよう対応します。(ただし午前9時半から午後4時半まで)
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寂聴さんの「予言」
平成3年(1991)、生家のすぐ近く、宮内公民館の一角に文学碑が建つ。寂聴さんによって、一文字一文字拾い集めて綴られた「触手」冒頭の一節が刻まれている。既成の一切を破壊し尽した上で新たに樹立される小田文学世界を象徴する一文だ。
除幕式の日の講演で寂聴さんはこう語った。「その一冊(『触手』)が、将来私も死に、あるいは遺族も死んで何十年かたった時に、日本だけではなく世界の文学として取り上げられ、翻訳され、日本の歴史の一つの文学の流れの中で、ある峯だとして見直される時が必ず来ると私は予言いたします。」
それから30年、寂聴さんも冥界へと旅立った。そして今、昨年からのコロナ騒ぎ。まだ「治験中」という得体の知れぬワクチン接種を受け容れ、お互いの顔が半分しか見えない日常を当然とする異常さに、小田が生きた戦時の暮らしが重なる。その中で「なにがほんとうか」を問い続けた末に生み出されたのが、「にせあぽりや」であり「触手」であったことの意義をあらためて思う。今まさに小田文学理解の秋(とき)なのではなかろうか。
平成3年(1991)、生家のすぐ近く、宮内公民館の一角に文学碑が建つ。寂聴さんによって、一文字一文字拾い集めて綴られた「触手」冒頭の一節が刻まれている。既成の一切を破壊し尽した上で新たに樹立される小田文学世界を象徴する一文だ。
除幕式の日の講演で寂聴さんはこう語った。「その一冊(『触手』)が、将来私も死に、あるいは遺族も死んで何十年かたった時に、日本だけではなく世界の文学として取り上げられ、翻訳され、日本の歴史の一つの文学の流れの中で、ある峯だとして見直される時が必ず来ると私は予言いたします。」
それから30年、寂聴さんも冥界へと旅立った。そして今、昨年からのコロナ騒ぎ。まだ「治験中」という得体の知れぬワクチン接種を受け容れ、お互いの顔が半分しか見えない日常を当然とする異常さに、小田が生きた戦時の暮らしが重なる。その中で「なにがほんとうか」を問い続けた末に生み出されたのが、「にせあぽりや」であり「触手」であったことの意義をあらためて思う。今まさに小田文学理解の秋(とき)なのではなかろうか。
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