24日の記事「『江戸の歴史は隠れキリシタンによって作られた』を読む」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2021-03-24で、キリスト教が禁教下の江戸期を通じて根強く影響を保ち続けた根底には、日本人の自然感情に訴える面があったからだ、そしてそれに対抗したのが仏僧たちであったとし、江戸期以降の「権力第一義の仏教(寺請制度)vs.自然感情第一義のキリスト教(隠れキリシタン)」という基本構図ができた。新しい視野を得た気がする。》と書いた。私にとっての仏教はそのまま江戸期と地続きだ。祖父を思いおこせば、そこから江戸期の仏教感覚につながることができる。仏教とキリスト教との融和可能な面も持ちつつのせめぎ合い、その辺もなんとなく自分なりに感じることができそうな気がする。・・・そんな気がしたところで『天才 富永仲基 独創の町人学者』(釈徹宗 新潮選書 2020.9)を知った。この著で、富永仲基については内藤湖南のすぐれた講演があるとのことを知り、青空文庫で読むことができた。読み始めたら、本腰入れて読みたくなって転載して読んだ。《富永の佛教批評といふものは、全く自分の獨創的な見識、獨創的の天才から出たのであります。》とある。学者的発想ではなく、生きる現実に密着した原理的思考の人ということで、吉本隆明と重なった。


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