◎おわりに
 大江氏:文治5年(1189)〜天授6年(1380) 191年間
 伊達氏:天授6年(1380)〜天正19年(1591) 211年間
 蒲生氏:天正19年(1591)〜慶長3年(1598) 7年間
 上杉氏:慶長3年(1598)〜
 
 名だたる日本の名家の血(文化遺伝子、ミーム)が流れ込む置賜のすごさをあらためて思わされます

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この資料をつくりながら、最後にこのことをどうしても言わなければならないと思いました。


私にとって「伊達の発見」はほんとうに大きな出来事でした。地域の歴史への関心はそれによって火が点いたように思います。昭和62年のNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」によって、置賜人の多くが、伊達政宗がこの地で生まれ、25歳になるまでこの地で過ごしたことをはじめて知ることになりました。それに先立つ数年前、当時校長を退職してまもない頃の小川弘先生(市民大学講座にいつも奥さんと一緒に参加され、この日もお出ででした。置賜民俗学会の副会長さんで、私も小川先生に誘われて入会しました)に、「なんで『ダデゴド』っていうか知ってるか。実は上杉が置賜に来て最初にやったのが、この土地から伊達の遺風を一掃することだったんだよ。それで伊達に関することはみんな悪いことにされて、『伊達事(ダデゴド)』(意に沿わなくて好ましくないこと)になったんだ」と教えられました。その頃私たちは、高畠町夏刈で代々酒蔵を続けてきたHさんとの交遊が始まっていました。Hさんから「上杉鷹山公が入部されて資福寺趾をご覧になり、その荒れように驚かれ『政宗公の御両親が眠る伊達百万石のかつての菩提寺がこのような有様なのが申し訳ない』ということで、私の先祖に墓守をするようにとの仰せがあった」という話を聞いており、小川先生の話は私の中で激しく反応することになりました。「置賜力」を考えるhttps://oshosina.blog.ss-blog.jp/2017-04-22/「新しい伊達氏の歴史エリア構築」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2013-09-04宮内熊野大社の位置の不思議https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2006-04-16) 置賜を見る視点が、吾妻の山裾の米沢から南に開ける高畠、南陽に移ったのです。米沢興譲中学校歌の「盆地米沢狭けれど」ではなく、宮内中学校旧校歌「南に開く国原」(結城哀草果作詞)になったのです。上杉感覚から伊達感覚へ、そのことで、暗かった置賜のイメージがガラリ明るくなりました。