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一般質問(2)「鎌倉殿の13人」と南陽市 [地元の歴史]

何曜市民大学講座チラシ2021.jpg南陽市民大学講座に運営委員として関わるようになって10年以上になる。いつのままにか講師の役割も好んで引き受けるようになった。謝礼として1万円の図書券だが、それどころではなくありがたい。これまでを振り返ってみると、いずれも思い出深く、私にとってかけがえのない財産だ。

・宮内熊野に探る「祭り」の意味https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2013-11-09
・小田仁二郎と宮内https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2014-10-26-1
・宮内、賑わいの記憶https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2015-11-14
・『南陽の菊まつり』百年https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2017-09-10
・製糸業隆盛の遺産-漆山多勢家を中心に-https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-08-26
・吉野石膏 須藤永次伝https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-08-24-1
・宮内に流れる名家大江氏の血脈https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-11-15
・北条郷郷村出役北村孫四郎に見る鷹山公改革の現場https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2021-11-23
(今年は「小田仁二郎の現在的意義を探る」と題して11月12日予定)

5年ぐらい前、寒河江のMさんの来訪で、置賜の寒河江家の源流が寒河江の大江家であることを知り、粡町で身近な「大江商事」さんがまさにその流れであることに驚き、「宮内よもやま歴史絵巻」で紹介した後、一昨年「宮内に流れる名家大江氏の血脈」と題して語った。ちょうどその折「鎌倉殿の13人」と題して大河ドラマになることを知った。今年の4月、いつものようにふらり立ち寄ったMさんと話していて、「鎌倉殿の13人」関連で一般質問で取り上げたいと思った。その時は観光関連でと思ったのだが、市民に知ってもらうことが先決と考えて市民大学に関連づけることにした。(寒河江の動きは山形新聞に掲載→「街中に「鎌倉殿」の大江広元 寒河江市内、ポスターなどお目見え2022/5/11 https://www.yamagata-np.jp/news/202205/11/kj_2022051100244.phpこれがきっかけで何か動きが出てくればうれしい。

議会報170一般質問.jpg

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 つぎに、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に関連した質問です。私なりに把握している情報を提供しつつ、お尋ねしたいと思います。(《》内は教育長答弁)

 「鎌倉殿の13人」は、重要な登場人物がつぎつぎあっけなく命を落とす展開にハラハラさせられながら、『天地人』でそうだった以来、一回も欠かさず見ています。実はこのドラマの登場人物、二重に三重に南陽市と関わりが深いのです。

 まず主人公小栗旬演ずる北条義時、小池栄子演ずる頼朝の妻政子の腹違いの兄弟が「北条郷」の名の由来になっていることです。熊野門前鳥居の場の佐野家に伝わる文書(蓮蔵院由緒手控)や小松の「南善院由緒書」によると、北条時政の妾腹(沼田氏)の子北条相模坊臨空が、この地三十三ヵ村を四百人からの羽黒修験者の大先達として仕切るようになっていつしか時政の子であることが知られ、だれからともなくこの地を「北条郷」とよぶようになったと記されています。そもそも北条相模坊、血で血を洗う抗争を嫌って仏の道、そして羽黒修験の道を選んだと書かれています。その思い、今の大河ドラマを見てあらためて納得させられます。ちなみに、北条相模坊臨空に従った佐野源右衛門は、臨空が小松に移った後も宮内に残り、明治になって宮内発展の基礎を築いた宮内町初代町長佐野元貞はその子孫です。
栗原英雄 大江広元.jpg つぎに「鎌倉殿の13人」のひとり大江広元との関わりです。栗原英雄という役者が演じています。広元は元来由緒ある京の公家で、関東武者上がりで行政についてうとい頼朝を側で支えた人物です。その次男が、当時長井庄といった置賜を所領とした大江時広です。伊達氏に滅ぼされるまで164年間、この置賜は長井氏に名を替えた大江の時代でした。兄親広が承久の乱で失脚したため、時広が大江氏の惣領となり幕府中枢で活躍します。そのため時広は置賜には入りませんでしたが、その子供、つまり広元の孫泰秀は、火災等で度々窮した熊野大社の再興をその都度命じ、熊野大社が今在るのは泰秀のおかげです。境内の西北お文殊さま(菅原神社)の背面に融通神社として祀られています。辰年巳年の守り神様です。https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2015-01-22
 もうひとつ、広元の長男親広は承久の乱に敗れ所領の寒河江荘へ逃れます。妻は北条義時の娘とのことです。寒河江氏と名を替えて最上義光に滅ぼされるまで400年続きます。その後滅ぼされた一族のある者は置賜に逃れて寒河江の姓を名乗り今に至ります。大塚村で代々源兵衛を名乗り、堀を開いて田地開発に努め地域の中心を担った寒河江家は、宮内に移って大恐慌で倒産した須藤永次商店の石炭販売部門を引き継ぎ、南町に「常磐炭鉱」の看板で店を構え、製糸工場に石炭を供給する役割を果します。昭和四十年代粡町に移りますが、その名もずばり「大江商事」です。(https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-11-15-3
 ちなみに、長男が寒河江の親広、次男が置賜の時広で四男季光は相模国毛利庄を引き継ぎ長州藩毛利家の祖となります。さらに、市長の白岩氏も寒河江氏の支流とのことですので、遡れば大江広元に連なるすばらしい血筋なわけです。
 こうしたもろもろをふまえお尋ねいたします。

(1)「大河ドラマ」が盛り上がるこの機会、関連する地元の歴史を市民に知ってもらう手立てはないか。

《南陽市域は中世「北条郷」と呼ばれていたわけでありますが、北条義時の異母兄弟「北条相模坊臨空」が羽黒修験者の大先達として宮内村にたどり着き、一説には「北条郷」の名の由来となったと「熊野大社史」に記されてございます。/また、13人の一人である大江広元の孫にあたる泰秀は、度重なる火災に見舞われた熊野大社の再興に尽力したことから、熊野大社内の神社に祀られたと言われております。/このように南陽市と「鎌倉殿の13人」のゆかりは大変興味深く、地域の歴史を広く市民の皆さまに知っていただくためにも、見識の深い方々のお知恵をお借りしながら、市のホームページ等で情報発信できるよう検討してまいります。》
(2)こうした地元の歴史を知る上でいい機会になっているのが「南陽市民大学講座」。来年度から県の補助打ち切りとも聞く。市として今後どう考えるか。
《「南陽市民大学講座」につきましては、市民の多様な学習要求に応えるため、また郷土愛を醸成するという趣旨のもと、公益社団法人山形県生涯学習文化財団からの補助を受けて開催しております。/来年度につきましては、県からの補助リニューアルの話はございましたが、詳細な内容にちきましては現在のところ入っておりません。/市としては、市民の学びに大きく貢献している講座であるという認識でございますので、継続に向け検討してまいります。》


 以上、壇上からの質問とさせていただきます。

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