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「着目!池黒皇大神社」(芸文なんよう) [地元の歴史]

芸文なんよう23号 2022.2.jpg昨年秋、「『芸文なんよう』に何か書いて」と頼まれて、それではと、宮内まち歩き研修会などで当時いちばん頭にあった池黒皇大神社のことを書いたのが昨日出てきました。m_E5B1B1E5BDA2E6ADB4E58FB2E68EA2E8A8AA4.jpg

池黒皇大神社に関心が向いた出発点は、なんといっても清野春樹さんの『山形歴史探訪4 平清水・宮内・赤湯・上郷・長井の秘密』です。(→https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-01-04それに龍口神社、熊野大社の「龍穴」性https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-10-18と、「飛騨の匠」による宥明長南社を絡めました。

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着目!池黒皇大神社          

はじめに
 北に丘陵(玄武)、南に沃野(朱雀)、西に街道(白虎)、東に清流吉野川(青龍)、宮内は四神相応の地である。街道とは矢ノ目街道を指す。矢ノ目街道は、京から江戸、日光、会津を経て大峠を越え、米沢からこの地に至る街道の北端であり、池黒皇大神社はその終着点に位置する。『山形県神社誌』に 《桓武天皇の延暦年中坂上田村麻呂東征の際、屯軍の地として城砦を築き、社を建立、祀り創められたので、古来坂上神明と称する。》とある。坂上田村麻呂が置賜に足を踏み入れた文書記録はないが、長井の総宮神社、久保の桜、米沢の成島八幡など、置賜に伝えは多い。池黒皇大神社が「坂之上神明」とも言われてきたのは、高台に位置する故のみではなく、実際田村麻呂駐屯の証か。この古社に注目してみたい。

一、応徳三年棟札
 「県内最古」と言われてきた当社所蔵「応徳三年(1086)棟札」が、実は現存棟札として日本最古の可能性がある。
 現在公式に認められる日本最古の棟札は、岩手中尊寺所蔵の保安三年(1122)のものとされており、応徳三年棟札はそれを36年も遡ることになる。放射性炭素年代測定等によってその立証が必要だろう。
 この棟札の注目すべきは年代の古さだけではない。「木刻師韓志和」と「鍛治三条小門宗近」の名前が記されていることだ。実は二人とも「歴史的」人物なのである。
 韓志和は、飛騨匠の一人で室町時代の名工として古くから崇敬されてきた。自らの手で作った木鶴に乗って中国へ渡り、高麗王の穆宗の前で神業かと思うほどの見事な技術を披露した逸話がある。神格化された韓志和の木鶴大明神像が、岐阜県高山市に今も残る。
 一方、三条小門宗近は、能『小鍛冶』に登場する名刀工。徳川宗家に伝わる宗近銘の太刀は「天下五剣」の一つに数えられ国宝。この地との関わりについては、能『小鍛冶』に登場する天皇勅使が橘道成、宗近が橘宗遠の子との説もあり、当時皇大神社の社司が橘氏(現矢ノ目羽黒神社宮司家)ということから橘氏ネットワークの可能性が考えられる。また若い頃東北各地で修業したとも言われ、宮城の竹駒稲荷神社等にも宗近についての伝えがあって、東北とは縁深い。
 それにしても、これほどの人物二人の名が、一地方の棟札に記されていることの不思議さを思う。まずは年代測定等によって、できる限りの事実把握こそが当面の課題であろう。その上で坂上田村麻呂以来のロマン溢れる様々な歴史的考察が可能となるはずである。

二、羽黒神社御神像
 皇大神社の地名は池黒上の平という。皇大神社から15分ほど登ると標高363メートルの山頂上の平に至る。一反歩位の平地で、一段高い石垣の壇上に「羽黒神社」の石碑が立つ。かつて蝦夷のチャシ(祈祷所)があったという。そこに羽黒神社の社が建っていたが、明治35年(1902)に大風で吹き飛ばされた。その後「羽黒神社」碑背後の石祠に羽黒神社の本尊と思われる木像が納められていた。今は皇大神社が所蔵する。
 一木造で身丈57cm。《一度拝すると、やや悲しげな目と、つつましやかな口元の表情は強く印象に残って離れない。》(『南陽市史』上巻)と錦三郎先生が評された。神仏習合の時代に神像として祀られたものだが、菩薩形の仏像で聖観音と推測されている。佐藤東一氏は《藤原風を濃くみせながらもようやく時代が次の鎌倉時代に近づいてきたころの造顕》と見る。(『宮内町の文化財』)清野春樹氏は本像をかなりの名人の手になると見て《坂上神明宮の創建時に辣志和が制作して奉納したものではなかろうか》と推測する。(『平清水・宮内・赤湯・上郷・長井の秘密』)この神像についても最先端技術を駆使した調査が求められよう。

三、飛騨匠の縁
 この夏、金山七瑳古山を背景に輝くばかりのオヤシロが出現して見る人々を驚かせた。岐阜県高山市の「六次元会」という宗教法人が建立した「宥明長南社」である。吉野赤山生まれの霊能者宥明上人と鶴岡市生まれの霊能者長南年恵刀自を顕彰するための神社で、この檜造りの瀟洒な神社を施工したのが飛騨匠(渚工務店)だった。ちょうどその準備が進む中で、清野氏の近著(前掲)で韓志和について知り、シンクロニシティ(共時性)を感じることになる。時間を超え人知を超えた連関だ。
 これまで宥明長南社の場所には龍口神社があった。後継者に窮していた龍口神社は宥明長南社に土地を譲って、御祭神が同じ熊野大社内、厳島神社に合祀された。この地古来の神様はそのまま尊重した上の合祀だった。
 「龍の口」は風水でいう「龍穴」であり、パワースポットである。龍口神社は白鷹山塊を龍に見立てた時の龍穴にあたる。一方龍口神社を迎えた熊野大社も元来龍穴の条件を備えており、龍口神社の合祀によって名実ともに龍穴の条件が整ったといえる。熊野大社の場合はスケールが大きく、出羽三山から鳥海山を越えて秋田、青森に至る出羽丘陵全体を龍と見立てた龍穴といえる。したがって、そこに集まるエネルギーは計り知れない。最近の賑わいがそれを示している。吐き出されるパワーは置賜盆地全体に及ぶ。
 飛騨匠つながりから宥明長南社、熊野大社のパワースポット性に話が飛んだが、羽黒神社跡まで含めた皇大神社にも両社に劣らぬ聖地性を感じる。坂上田村麻呂の統治法は力づくの征討ではなく温情をもっての支配だった。先住人の精神性を尊重して祈願所を設けたことも、俘囚を住まわせた「別所」の地名が池黒に隣接して残ることと併せ考えて意味深い。

むすび
 以上、池黒皇大神社についての端緒にすぎない。奥の院岩倉神社や矢ノ目羽黒神社との関わり等も含め、関心の向かう方向は広く深い。ロマンに満ちた宝の山に見える。

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