《「イデオロギー」と「波長」ですが、例えば、「私は飲尿獣医さんの『飲尿』という『イデオロギー』について全く受け入れる所はないけれど、それでも飲尿獣医さんとは『飯山一郎』という『波長』においては、よく馬が合う」といった感じですね。》941:出世外人さん)

田舎からポッと出て大学生になったばかりの50年以上前、やたら出てくる「イデオロギー」の言葉がわからなくていたら、何かの本にたしか「関係性」という言葉で説明されていて、わかったようなわからないような。「イデオロギー」と聞くといつもそのことを思うのだが、出世外人さんが「波長」との対比で使われたことで、半世紀来のモヤモヤが晴れた。「イデオロギー」の「関係性」に対して「波長」の「固有性」。そして読むmespesadoさんの「幸せに生きる」法。「固有性」は「普遍性」に通ずる。たしかにそうなのだけれども、そうであるためには絶えざる「審神者(サニワ)性」が求められる。(そういえば「審神者性」については、つい最近書いたばかりだった。→https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-09-28-1

グローバリズムも反グローバリズムも単なるイデオロギーに過ぎないと悟った者にとっては、今の流行りに過ぎないグローバリズムに対して別に何とも思わない。》ところが、緊縮と反緊縮。これはウヨ・サヨ論争やグローバリズムの賛否論争とは違って、単なる思想の違いではなく、緊縮の方は単なる事実認識の間違いに過ぎない。・・・実は「思想の違い」ではなく「真偽の違い」。そうなのだけれども、いくら1+1=2と同じくらい正しい論であっても、その論を絶対視しちゃぁいけない。・・・「絶対だ!」と思った時の「心理状態」が危ない》「自分がある考えに固執している」ということを、第三者的に自分で「自分の上から眺められる」ようになることが大切》いざ、他人の「間違った」意見だと思うものに出くわしたとしても、すぐ上から目線でバカにしたりすることなく、真面目に相手の話を聞けるようになる。このくらい鷹揚に構えられるくらいになってこそ、真の余裕というものが生まれ、幸せに生きられる》943:mespesadoさん)

mespesadoさんが閑話休題で紹介された金平譲司さんのブログ「日本語の起源と歴史に興味を持つすべての方へ」
http://www.jojikanehira.com/。私も読み始めました。亀さんも早速の感想(946)、
サーッと目を通しましたが、日本語の成立に迫る上で欠かせない、重要なブログであると確信したし、またツランという視座に立脚した、金平譲司氏の「日本語の起源と歴史」についての論考、細かな点は兎も角も小生は基本的に賛同いたします。過去記事は他にもあるようなので、これから仕事の合間に通読していくつもりです。/最近はアルタイ語族は日本語のルーツではない、とするネット記事に時々接するようになりましたが、それなら日本語のルーツは何処だったかと時々考えていました。そんな時、サモエード系の言語という金平氏の指摘、お陰様で小生の日本語成立観に光明が差してきました。その意味でも、mespesadoさん同様、同氏の今後の活躍に期待したいと思います。ありがとうございました。》

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