菅首相が、反安倍であった共同通信の論説副委員長柿崎明二氏を首相補佐官に任命したことをめぐって、昨日来「放知技」板ならではの重厚なやりとりが展開されている。

明らかに菅さんの意志が濃厚な『電光石火-内閣官房長官・小山内和博ー』(文春文庫 2015)を読むと、菅首相が石破的カッコつけや石原的うすっぺらさをいかに嫌っているかがよくわかる。それに対して、自分とは対立する立場にあっても、通じる人とはしっかり通じ合える。

柿崎氏を知る人には驚天動地のこの人事は、数年来の「放知技」板における、飯山一郎師以来の底流ともいうべき流れにぴったり当て嵌る。すなわち、岸信介以来の「国家社会主義」への指向、飯山師は安倍晋三にそこを読み取って、あらためて堺のおっさんが「国家資本主義」として掬い上げた。私はそれに新鮮な魅力を感じ記事にしていた。https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2017-07-19  このたびの菅首相の柿崎氏起用を機に、亀さんがその記事を掘り起こしてくれた。その記事にアクセスして、自分が書いたことよりコメント欄にメモした関連記事の数々に感じ入った。

昨日の朝友人が、かつて(40年前頃)は20万円/坪の声もあった宮内の一等地が3万円で取引されたらしい話を電話で伝えてくれた。折しも「20年基準地価」が新聞に報道されていた。住宅地の価格指数、東京を100とすると、山形は5.2。その下は鳥取が5.1、青森が4.3、そして最下位がなんと菅さんの故郷秋田の3.5。友人は、宮内の落ち込みを嘆き、菅首相が竹中平蔵に近いことを非難した。私は「あまり悲観しないでじっと見ていた方がいい」となだめた。そして「放知技」板の議論、菅首相の深意が見えたように思え、なぜかあらためて宮内が息を吹き返しつつあることを確信した。

今年の宮内小の児童数320名、奇しくも須藤永次が生まれた前年(明治16年)の宮内小と等しい。そこから製糸業の発展とともに宮内は大きく伸張する。一時は人口12,000人に達せんとし(昭和23年)、宮内小の児童数が2,000人を越えた時代もあった(昭和20年)。そして今、まさに蟠竜昇らんとす、この5月に金山の龍の口明神(龍口神社)が熊野大社に遷られたことも、昨今のおくまんさまの賑わいとも思い合わせて、奇霊(くしび)なことである。→https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-05-15

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