《「教える」んじゃなくて自ら「探求」するから「勝手探求」とでもいうべき別ルートを「義務教育」とは別口で作るとよい。》!! 大賛成です。
新コロナが招いた今の事態、これまであたりまえと思ってやってきたことを全部ご破算にして、「ほんとうに大切なことは何か」をゼロから考え直してみる絶好のチャンスと思えて、ゾクゾクしています。そのプロセスを経ることで、《日本全国の風景が明日から変わる。/その制限が解かれた時、日本は一皮むけて変わる。》(堺のおっさん)となるのです。
mespesadoさんの目は「教育」に向けられます。《今の教育が何のために存在するのか》。その答えが「義務教育」とは別口の「勝手探求」です。
大学時代の自分をふりかえって思うのは、「大学紛争」のおかげで今につながる勉強ができた、ということです。哲学科の倫理学専攻に在籍していましたが、卒論を書き上げるのに一切指導を受けることはありませんでした。自分の関心の赴くままに書いたので、今読み返しても新鮮に読めます。(「メルロー・ボンティ哲学における他者の問題」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2006-03-21)それが「学問」レベルでどうだこうだは、知ったこっちゃあなかったのです。自分の抱える問題の切実さだけで書き上げたのでした。「戦中派」としての意地を通して2年余計に在籍しましたが、その2年間のおかげで「大学に行ってよかった」と自信をもっていえます。それは、自分で「勝手」なことをやらせてもらったからです。《「自分が興味を持ったことを好き勝手にやらせる」のが、その能力を開花させるのに一番大切》。その通りと思います。ここでmesさんのいう「その能力」とは「学問センス」のことです。《学問のセンスって、 意外にも、「分野横断的」な気がする》というmesさんに、亀さんがそういう人物として、空海、南方熊楠、井筒俊彦を挙げています(429)。私は若松英輔さんを思い浮かべていたところでした。
私なりの「教育論」です。→ 「われなし能う、ゆえにわれあり」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2016-01-07
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