日経「言葉のちから」(10/28)にこうあって我が意を得た。読書にまつわる因習が、人々を読書から遠ざけたように思われるのである。正しく読まねばならない。全部読まねばならない。教養として読んでおかなくてはならない。こうしたことが読書の因習である。》

恥ずかしながら、この因習から全く自由になったのはそう昔のことではない。「自分主体の読書」ができるようになることで読書の因習からの解放となる。自分主体の読書ができるということは、自分が何ものであるか限定されているということだ。要するに「先が見えた」ということか。無駄な時間はそう残されてはいない、ということでもある。

病院で7泊8日を過ごしてきた。鼠径ヘルニア(脱腸)の手術で、本来2泊3日ぐらいで済むのが、血液サラサラ服用ゆえ準備期間が必要だった。いい機会とばかりにあれこれ本を持ち込んだが案外読めない。ただ、『魂鎮への道』を、出る間際にふと気になってバッグに入れたのは正解だった。集中して一気に読み、いまも余韻か残る。飯田氏との対話が続く。もうひとり、高啓氏との出会いもあった。非出世系県庁マンのブルース』切実なる批評―ポスト団塊/敗退期の精神』。飯田氏が前景に出てしまったが、いずれじっくりレビューをと思ってる。

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