konaさんからコメントいただきました。mespeasadoさんに早速答えていただきました。放知技板に転載なった方を下に転載させていただきます。
以下は私の考えです。
⑴緊急事態条項について
私はかねてより、占領下において制定された憲法は、内容の如何に関わらず改めなければならないと思ってきました。したがって「改憲」ではなく「創憲」です。参政党の考えにわが意を得た思いです。「緊急事態条項」については、日本がまともな独立国家あるならば、明記することに吝かではありません。しかし、現状は違います。私が「改憲反対」を主張するのは、国挙げてのワクチン接種へのなだれ込み、さらにロシア非難一辺倒を目の当たりにさせられたからです。現状日本においての「緊急事態条項」追加の改憲は必死で押しとどめねばならないと考えています。おっしゃるように《「自由を守るための」緊急事態条項》は大切に思えます。mespesadoさんの《「国民主権」の憲法にするのなら、「今の主権者が他者に奪われない仕組み」という一般的な憲法の原則に加えて、「力を持つ者による暴走を防ぐ仕組み」が不可欠になる。》に関わります。
⑵「文明史的大転換」について
川喜田二郎著
『「野生の復興」デカルト的合理主義から全人的創造へ』(祥伝社 平成7年)の終章にある文章、
《私が今ハッキリ言えることは、誰もがあのヘゲモニズム(常に他より上を目指してやまない覇権主義)の地獄から抜け出し、それぞれに安心立命を得た方がよいということである。/ このような内面体験の一つの大きな特色は、もはや「自我」という固い観念の穀を内側から叩き破って、広い世界の自由で新鮮な空気を深々と呼吸していることなのである。/ 「自我」ではなく、知・情・意いずれをも備え、肉体そのものである「己れ」として生きている。/ しかもその「己れ」は、そう自覚した方がよい場面でだけ存在するのであって、それが必要でなくなったら、いつでも「己れ」を退場させてしまう。つまり「己れ」は実体ではないのであって、方便として存在するだけなのである。》それがあたりまえの世の中になることです。それは急にガラッと変わるのでなく、もうどんどんそういう方向に進んでいるとは思いませんか。というより、人間は本来、そういう風に生きているのです。それなのに「自我」と「オカネ」が「所有」観念を媒介に結びついて「オレが」「オレが」が跋扈する。そんなのにもうみんな嫌気がさしているのです。
「文明史的大転換」などというと大ごとに聞こえますが、人間本来の当たり前の感覚が大事という認識に還るということです。私にこのことを気づかせてくれたのはメルロー・ポンティでした。→https://oshosina.blog.ss-blog.jp/archive/c2302827098-1 「大学紛争」を生きていた時代です。そういえば、「目を覚ませ!全共闘世代」と呼びかけたのが、ちょうど1年前のことでした。→
https://oshosina3.blog.ss-blog.jp/2021-06-13-1 放知技板と副島重掲板にも同趣旨で書いたのでしたが、なんの反応もありませんでした。
(このところのkonaさんとのやりとり、副島重掲板にも転載させていただいていたのですが、今見たらそっくり消されていました。副島さんの判断だったのか、迷惑がられていたとしたら、ちょっと心外。私にとって大事な副島重掲板、この時期にあってあまりに閑散なので応援のつもりだったのだが。)⑶《参政党がDSに毒されていない保証はどこにもありません。》について
いまmespesadoさんの最新発言(989)を読んだところです。《もし彼らが「偽物」なら改憲の最後の一押しになる可能性》。この点について、私は心配していません。参政党の立場は明確に「創憲」です。「創憲」については、私なりのイメージがあります。昭和20年8月15日正午の玉音放送、あの時点の日本人みんなの気持ちを「国民の共通意思」の原点(基点、起点)として構想することです。→「『神やぶれたまはず』再々読(7)」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2022-05-17-5 神谷氏が「わたしのいちばん大事な仕事は”切る”こと」と言っていたのを聞いて納得したことがありました。切られた方にしてみれば、切った方は”敵”に変わります。日々その戦いが繰り広げられているはずです。昨日そんな思いで、《日々の暮らしのその目の前がそのまま「戦場」であり、常に「戦い」に直面させられています(「敵」は自分の中にもいる)。そういうプロセスを経ながら、「魂の共同体」はできあがってゆく、そういう時代です。》と書きました。(https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2022-06-26-1) 松田氏の『日本をこう変える』を読んで気になったところを書いておきます。《戦争の惨禍を経験した私たち日本人は、二度と戦争だけはしたくないという思いをどの国よりも強くもつ平和主義の国民です。自国民を好戦的な国民だと侮辱するのでしょうか。戦後の日本は戦時とは政治体制も異なり、世界でも最も民主主義が徹底した国の一つです。もし危険な為政者が誕生して国民を不必要に戦争に巻き込もうとすれば、次の選挙で間違いなく政権を失うでしょう。実際に次の選挙を考えてこれだけ世論に敏感な政治家たち自身に、そんなことを考える余地はありません。戦後日本の民主主義をもう少し信用してほしいものです。》(229p)私は疑問です。隙を見せてはならない。だからこそ、8月15日の原点に還らねばならないのです。 * * * * *
●konaさんからのコメント
(1)緊急事態条項への反対について「緊急事態条項≒授権法」と規定されていますが、両者は「≒」ではありません。授権法は緊急事態条項を明文化した場合の一形態にすぎず、いわば筋が悪い「無理筋」の形態です。参政党を容疑者と仮定すると、参政党が授権法を明確に否定したとしても、嫌疑が晴れるわけではありません。そんな大胆な犯行はとらないと述べているだけの話です。参政党には「嫌疑」をかけられるだけの行動(言説)があります。参政党の幹部(松田氏・神谷氏)のスタンスは以下の動画にあるとおりです。彼らは緊急事態に対応する必要性があるとして明確に緊急事態条項に賛成しています。緊急事態条項を憲法上で明文化したほうが人権が守られるという理屈です。こちらが「本筋」と考えられます。https://www.youtube.com/watch?v=qgnA8Qv-7b4&t=734sそのうえで、参政党のウェブサイトにある説明を解釈してみます。(ここから)憲法については、自民党の改憲案には賛同しません。国民の自由や権利を制限する可能性のある改正(97条削除、緊急事態条項追加)については断固反対し、国民の自由や権利を守ります。(ここまで)konaです。参政党は自民党の改憲案には反対するでしょう。しかし別案で「自由を守るための」緊急事態条項を提案されたらどうですか?その場合は「断固反対」ではなく「賛成」としても上述の説明と矛盾しません(そういう解釈も可能です)。幹部の本音は「緊急事態条項の創設」なので犯行意欲は十分あります、そして、その実現する手段もあります。きっと緊急事態条項を丁寧に明文化したほうが人権が守られると力説し始めるでしょう。(2)めいこさんによる「的外れな批判」について私の疑問の端緒はこの点にあります。めいさんは、結局、何が「的外れ」と思うのでしょうか?私には理解ができませんでした。書評や随想の引用ではなく、端的な説明で教えてください。めいこ氏は授権法に限らず各政策の問題点を指摘していますし、(多少の誤解があったとしても)全体基調としては傾聴に値する批判であると私は思いました。いったい彼女のどの点について「文明史的大転換がわかっていない」と批判されているのでしょうか。きっと私もわかっていないはずですので、その点を伺いたいと思っています。(3)啓蒙(mespesadoさんの説明)についてまず拙文を読んでいただいたことを御礼申し上げます。私宛のコメント返信がありましたので、その「演説で主張している内容そのものは、DSに関する話を知らない人への啓蒙になっている」論について私見を述べます。参政党の演説は啓蒙につながりません。洗脳が解けたと思って新たな洗脳にかかるだけで、それは啓蒙とはいえません。啓蒙どころか、むしろ参政党の主張を盲信する集団が新たに発生します(実際そうなっています)。事態は何ら好転しないのに肯定的な評価を与えることはできません、私はそう思います。(4)憲法に対する4分類(mespesadoさんの説明)についてmespesadoさんと議論するつもりはありませんが、めいさんが「明快な区分」と評価しているのでその点について言及させていただきます。私はめいさんの評価と真逆で、表が不明確かつ不正確と思いました。表にまとめるなら定義をそろえないと意味をなしません。また4分類自体が不適切と思います。mespesadoさんは「参政党のいうこともわかるが政治の裏舞台やマキャベリズムを理解する人」として④番目(懸念される現実派)なんでしょうが、④はそればかりではありません。私も④に規定されるのでしょうが、現実にコロナ騒動のなかで人権侵害が横行していることに危機感を覚えただけです。参政党の言うことは分かりませんし政治の裏舞台やマキャベリズムを理解もしていません(理解している人なんているのですか?だって裏なんですよね、どうしてわかるのですか?とも思っています)。私から見るとmespesadoさんは「参政党のいうこともわかるが」と言っている時点で支持者に見えます。日本は米国の属国のまま占領状態にあり(本当にひどい状態です)、その現状を打開しないまま憲法改正を議論すること・提起すること自体が操られていると思わざるを得ません。日本のこんな酷い状態を知っているのに憲法改正を言い出す集団は大衆を扇動していると推測できますし、「怪しさ満点」ですので肯定的な評価などできません。
by kona (2022-06-26 04:36)
●mespesadoさんからの返答コメント(放知技板より)
●konaさんからのコメント(上記) 略
・・・・・・・・
by kona (2022-06-26 04:36)
--------------------------------------------------------------------
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
konaさんの論点に関する回答です。
> 参政党の演説は啓蒙につながりません。洗脳が解けたと思って新たな洗
> 脳にかかるだけで、それは啓蒙とはいえません。
私が「啓蒙」と言うとき、それは「相手が知らないであろう認識を提供す
る」ことを意味しています。ですから、最初の洗脳を解くための情報を発信
しているというだけで「啓蒙」なのです。その新たな情報により、何か別の
考え方に洗脳されるのは、また別の話であり、洗脳される人の側の問題だと
思います。そう仕向けた側に責任は無いのか、と言われるかもしれませんが、
確かに責任の一端はあるでしょうが、最初の洗脳を解いた時点で「啓蒙」で
あることに変りはないと思っています。「洗脳を解くのはよいが、新たな洗
脳を誘導してはならない」などと「啓蒙」にそこまで完璧を求めても仕方な
いと思うからです。
> 私から見るとmespesadoさんは「参政党のいうこともわかるが」と言って
> いる時点で支持者に見えます。
「言っていることがわかる」ことと「相手の意見に賛成である」ことは全
く別のことだと思います。そもそも私はkonaさんが参政党が政治家として議
席を取ったときDS側の思惑に手を貸すことになることを懸念することには全
く同意しているので、私は「konaさんのいうこともわかる」のですが、これ
は私がkonaさんの支持者であることを意味するのでしょうか?
私とkonaさんの認識の違いは、参政党の真の思惑が、konaさんはDSと繋が
っている(傀儡である)と結論づけているのに対して、私は「その可能性も
確かにある。だがそうでない可能性もある。」と、そこは日和見になってい
る、という所にあるだけだと思っています。私自身も、相手の真意を読み取
る「読心術」ができる超能力を持っているわけではないので、警戒心は一応
ありますから、参政党は「怪しさ満点」だと考えています。しかし参政党を
敵認定できるほどの根拠を持っているわけではないので私自身は参政党を敵
認定できませんし、したくもありません。参政党の改憲支持などを見るとDS
の思惑と同方向を向いているように見えるかもしれませんが、konaさんも参
政党も「日本は米国の属国のまま占領状態にあり」というところは認識が共
通なのですから、「だから憲法を改正しないと属国を脱することができない」
と理想を語る参政党と「だから憲法を改正するとかえって危険である」と現
実的に考えるkonaさんの違いがあるだけで、改憲等に対する意見の違いをも
って敵認定するのは私自身の趣味ではないです。
by mespesado (2022-06-26 08:01)
---------------------------
987:mespesado :2022/06/26 (Sun) 02:03:56
>>986 で、現行憲法や改憲後の「主権者」に注目して考察しましたが、さりげなく「主権者」と書いたわけだけれど、この言葉を追求すると、実はすごく恐ろしい概念であることがわかります。
「主権者」とは、もちろん「主権」を持った人のことをいいますが、じゃあ「主権」って何でしょう?問題は「主」の方でなく「権」の方です。ちょっと考えると「権利」の「権」だろうと何気なく思ってしまうけれども、権利と言う場合は何に対する権利なのかを明確にしないと意味が無い。だから「主権」のように「何に対する」という部分を特定していない場合は「権利」では意味が通らない。じゃあこの場合の「権」とは何か?はっきり言えば、これは「権利」の「権」ではなく、「権力」の「権」です。つまり、「主権者」とは「権力を持つ者」という意味です。では「権力」とは何か?「権力」を行使する、という使い方をすることからもわかるように、他人を従わせることができる、許される人、という意味です。つまり、支配・被支配という言葉を用いるなら、他人を「支配」することが許されている者、ということに他なりません。だから「民主主義」とは、「国民」が「支配者」になる、と言うことを意味するわけです。とはいっても実際に全国民が他人を直接支配するということは物理的に不可能なので、実際には、交渉と、最後は多数決によって「政策」を決めて、その「政策」が全国民を支配する、という形を取ることになります。すると、民主主義というのは、その実体は「多数決による政策」が事実上の「支配者」ということになるので、力を持った者が多数決で勝つように手を回すことにより、その「力を持った者」の思惑で作られた「政策」が「支配者」になるということ、つまり端的意に言えば、力を持つ者が支配者になる、と言い換えることができます。このことからわかるように、民主主義というのは、その言葉の美名とは裏腹に、「力を持つ者」による「独裁政治」に他ならない、ということになり、そんなに手放しで絶賛するような制度ではないことがわかるわけです。つまり、「民主主義」を機能させようとしたら、「力を持つ者」の暴走を止めるための仕組みが必要になり、それを憲法で明記する、というのが一番効果的ということになる。つまり、私が >>986 の最初に書いたような、憲法は主権を奪われないように釘を刺すのが目的、というのは君主制のような、特定の個人が主権者である場合はそれでよいけれど、全国民が主権者というような、物理的に主権者が支配者になる事が不可能な場合には、憲法の目的としてはこれだけでは不十分であり、「力を持つ者の暴走を防ぐ仕組み」が不可欠になってくる、ということになります。今の憲法はGHQが作った、いやそうではなく日本国民の意思が反映しているんだ、といった論争がありますが、誰の思惑で作られたにせよ、もし「国民主権」の憲法にするのなら、「今の主権者が他者に奪われない仕組み」という一般的な憲法の原則に加えて、「力を持つ者による暴走を防ぐ仕組み」が不可欠になる。護憲・改憲談義をするにあたっては、この重要なポイントを忘れてはならないと思います。
一方、「新型コロナ騒動の情報サイト」というnoteの最新エントリーによる参政党の擁護記事もある↓
参政党を巡る反「コロナ過剰対策」派の分断を考える①
https://note.com/info_shinkoro/n/n3f7e5c7319fc
私にはどっちの見解が正当なのか、正直な所、判断が付きません。
思えば、「正しい貨幣論」の話については、これはベースとなる情報の真贋に依存するような部分が無い、純論理的に判定できる問題だから、自信を持って「これが正解だ」という判断が確定できる。また、「ワ○チ○の危険性」の問題については、統計上の話はベースとなる情報の真贋が不明であっても、ワ○チ○が生体にどのように影響を与えるかという機序を理解することで、これまた自信を持って「これが正解だ」とい判断が確定できる。また「ウクライナ問題」については「純論理的」な問題でもなければ「機序」が存在する話でもないけれど、情報戦、認知戦の問題だから、どちらのサイドに対しても、都合のいい話は疑い都合の悪い話は信用することで「どっちもクソだ」と理解しておけば、危険な方向に誘導される心配は無くなる。ところが参政党が信用できるか、という話は今回の参議院選を通じて改憲におけるDSの罠を回避するにあたって、参政党を信用しても疑ってもリスクがあるので如何とも判断しづらい部分がある。つまり自民を支持すればDSに命令された改憲にまっしぐらの可能性があるし、かといって通常の野党を支持しても選挙区では当選の見込み無く、死に票になる可能性があり、参政党を支持すると、もし彼らが「本物」なら一波乱起こしてくれる期待がある一方、もし彼らが「偽物」なら改憲の最後の一押しになる可能性があるからだ。ここは私には本当に判断しにくいところであり、いろんな人の、イデオロギーによるのではない、ファクトベースの情報を聞き出したいところだ。