一昨日奥山氏の話を聴いて感じたワクワク感を冷めないうちに記しておきます。

①「四季南陽」の名称

宮内町、赤湯町、和郷村の合併が昭和42年。いちばん揉めたのが市の名称をどうするかだった。結局我孫子藤吉県知事に裁定を委ねることになって生まれたのが「南陽」市だった。安孫子知事が山形在住の漢学者平澤東貫先生に相談して決めたという。その裁定書の写しが「いかにして『南陽衆』たりうるか?!」の当日資料にあった。

《「北に丘陵、南に沃土」の地勢は人類快適な居住地として、凡そ北半球に住む人間共通のあこがれであった。殊に日本、中にもその東北に住む人々にとっては、そのあこがれは切実なものであったに違いない。/その切実なあこがれを、最も明快に端的に表現したものが即ち”南陽”である。》で始まる字義説明は、《南陽の〈光/名〉の下に、赤湯の霊泉も、宮内の芳菊も、和郷の嘉穀も、一斉に輝きを増して欲しい》で締めくくられる。しかし、「南陽」の名を戴いた市民としては、「とってつけた感」が正直のところだったのではないか。ところがこのたび、奥山氏の話を聴いて思ったのが「南陽」の名称に新たな力が吹き込まれるのではないかとの期待感だった。そんなことから、安孫子知事の裁定書を引っ張り出し読んでみると、「南陽」という名の重さをあらためて深く思わされる。