思いがけず「Go To Hospital」、四泊五日の僥倖を得た。以下のおおよそはそこで書いた。
副島史観の基本テーゼ「日本は世界の一部であり、故に確実に日本史は世界史の一部である」をもって信長・秀吉・家康の時代をみるとどうなるか。
16世紀のヨーロッパは、1517年ルターの贖宥状(免罪符)批判に始まる宗教改革の嵐の中にあった。ローマ・カトリック教会からのプロテスタント分離に伴う国家間対立。まず日本に押し寄せた波は、旧勢力国家スペイン・ポルトガルをバックに持つ新興先鋭集団「イエズス会」であった。 当時の最先端の知識と最高水準の技術に信長は深く傾倒する。イエズス会の意図は信長を利用しての日本支配にあった。しかし信長の目指していたのは、デウス(天主)信仰のイエズス会を飛び越え、自ら天主たらんとすることだった。消すべし信長、本能寺の変の背後にはイエズス会があった。(副島隆彦著
『光秀はその手ごまだった(ただし「光秀→天海」説もある)。
秀吉はキリシタンシンパの大名に支えられて天下統一を果たした。しかし秀吉は、日本の寺社破壊までもくろむキリシタンの浸透に危機感を抱いて「バテレン追放令」を発する(1587年)。その3か月後の「北野大茶会」は秀吉の意図に全く反し人が集まらず大失敗だった。《北野大茶会の直前か、当日に政権を根底から覆すような事件が起こったと考えるのが自然である。これが京都市中にあっという間に知れ渡って、みんな震え上がって行かなかったのだ。だから、それは秀吉の毒殺未遂事件だ、と筆者は推測する。犯人は分からないが、利休が怪しい、と秀吉は悟っただろう。》(175p)キリシタン勢力は、利休を通して秀吉の身内にまで侵攻していた。異父弟秀長、さらに甥秀次の粛清はその対抗策だった。
1592年文禄の役。その陣立てを見ると、《西国大名がほぼ総出で出撃を命じられている。見ようによっては、キリシタンら国内大名の勢力を削ぐために秀吉が仕組んだのではないか?ともとれる。》(183p) 朝鮮出兵は西国大名には戦役への負担がのしかかる一方、東国においては年貢負担が増大し、民生の不満は高まざるを得なかった。皮肉にもバテレン禁止令後秀吉の死までの10年間に、国内のキリシタンは30万人から34万人に増加した。《秀吉の圧政に苦しむ庶民たちが、キリスト教会の方に自然と押しやられていった。イエズス会が「秀吉を謀殺する決定を下した」(『16世紀-17世紀イエズス会報』)背景には、こうした状況があった。》(197p)
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1590年代になるとフランシスコ修道会等、イエズス会の対抗宗派も続々上陸、東日本にもキリシタンは広がって行く。その中で1896年フィリッピン総督とローマ帝国による日本侵略計画がばれたサン・フェリペ号事件によって、フランシスコ教会の宣教師たち26人が公開処刑。この殉教に、高山右近は前田利家に秀吉毒殺を指示。1598年「醍醐の大花見」に決行か。秀吉はこの後急速に体が弱る。《筆者の推測であるが、秀吉はうすうす自分が殺されることがわかっていた。自分が死ななければ、泥沼の朝鮮戦役も終わらない。》(198p)最後はイエズス会の通詞ロドリゲスに「秀頼のことをよろしく頼む」と言って、豊臣家の存続をイエズス会に託したという。《イエズス会の張り巡らした謀略によって天下人となった秀吉は、キリシタン大名たちとの血みどろの戦いの末、敗北を受け入れた》。(199p)1598年9月18日、伏見城にて死去。豊臣家はイエズス会傘下となる。
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1600年、臼杵湾の黒島にオランダ籍のリーフデ号漂着。その積荷「銃500挺、弾薬5000発、火薬300キロ、加えて搭載された洋式大砲(カノン砲)が家康の手に渡る。これらが半年後の関ヶ原で西軍を圧倒する。イギリス女王エリザベス一世による「新教徒の味方である日本の徳川家康を勝たせよ。そのための軍資金を提供する」との機密文書がある。《関ヶ原の戦いは大きく言って、イエズス会が敗れた戦いだった。世界史的視点から見るとそうだ。敗者の側の記録である。家康=オランダ・イギリスに敗れた。ここから、イエズス会の陰の日本支配が、崩れ始めたのである。》(208p)
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キリシタンシンパがそっくり西軍で戦ったかといえばそうではない。彼らには、秀吉の意思に添って反キリシタンであった石田三成への根深い反感がある。家康は新教側(オランダ・イギリス)を利用しつつ、イエズス会(スペイン・ポルトガル)をも否定せず、「反三成」を建前に結束を図っていた。状況如何で東軍への寝返りはありえて当然とも言える。家康は、西軍からたくみにキリシタン大名を引き剥がすことで勝利を呼び込み、強大な力を見せつけた。しかも、1602年のフィリッピン総督に対するキリシタン布教禁止を嚆矢として徐々に反キリシタン色を強めていく。《関ヶ原の戦いののちに、全国のキリシタン大名は幕府ににらまれるのを恐れて棄教して、キリシタンの家臣たちをリストラしていった。》そして1612年のキリシタン禁止令によってその波は全国に広がってゆく。はじき出されて《浪人となったキリシタン武士たちは次々と大坂城に入って、豊臣方となった。イエズス会宣教師たちも大坂城三の丸で弾薬を製造した。大坂夏の陣で落城とともに、斬り殺された宣教師たちもいた。》(230p)1615年豊臣家滅亡。さらに1616年二代将軍秀忠によってキリシタン禁制は最終局面を迎える。それ以降はキリシタンにとって逃れようのない弾圧と迫害の歴史である。では日本にとってはどうか。あえて断ぜず。十全なる審神者性をもって問い続けねばならない。かのキリシタンたちの理解が及ぶまで。(つづく)