「学問の自由」の言葉を聞くと、54年前、何もわからぬまま縁者もいない土地の大学に行って男子寮に入寮し、故郷にいた時とは別世界、なにもかもが新鮮だった頃がよみがえる。「学問の自由」は、私にとって、あの頃を象徴する言葉だったか。そしてそれからいろんなことがあって、あの頃の自分からはなんと隔たってしまったことか。当時は、「最高学府にいる」という自負にも支えられて、大学の教授先生を頂点に、先輩も同輩もみんな偉く見えたものだった。だからこそ、中身もなく語られる「学問の自由」の言葉にもありがたみを感じていたのだろう。しかし、それから3年経って足元でも起きた大学紛争は、大学入学以来培ったそうした幻想からしだいに自由になるプロセスでもあった。そしてそこから、ほんとうの自分なりの歩みが始まった、と今は言える。(〈「移ろうままに3」https://oshosina3.blog.ss-blog.jp/ / マドモアゼル愛さん〈誰にでも用意されているプログラムがある「自分の生き方を知る」〉https://www.youtube.com/watch?v=LjOvDrDVWL0/) 

今の私にとって「学問の自由」の言葉は、遠いかつての幻想の世界の言葉でしかない。「学問の自由」をめぐっての大騒ぎは、いつか醒めざるをえない文字通りの「幻想」なのだ。どんどん議論すればいい。日本人が足場を固める絶好のチャンスなのかもしれない。(縁ある芦名先生も対象のひとりということで、このニュースを知ってすぐ記事にしています。→https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-10-02-1

さてそんな中での下記記事。やすえちゃんが政調会長の新・国民民主党の対応を知って安心。《パフォーマンスではなく国民のための戦いを展開する真っ当な野党として成長することを期待したい。》に同感です。

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