井筒俊彦という人のいちばんすごいところは、「理解しうる限り理解した上でその先に見えてくるほんとうの世界」を追求したところにあると思います。・・・と、こう書いて、mespesadoさんのいう「学問のセンスは分野横断的」という時の「学問のセンス」がまさにそういうことか、と思ったところでした。その根底は、きっと「無」です。

↑ 亀さんが井筒俊彦について書かれた記事「無」にあった写真です。遺影の横に供えられている皿に認められた「無」は、井筒俊彦自身の筆》とあります(「人間は冥土までの暇つぶし」http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-1729.html)

飯山女史は自分の主張に急なあまり、井筒俊彦にまで理解が及ばないということのようです。その主張は主張として重要なので、「立ち位置」のちがいということで、飯山女史を理解したいと思います。

《「協調」の反対は「批判」じゃない。・・・「人の意見」に対して賛成するか反対するか、という違いだけ》の言葉、重要に受け止めます。戦後の教育はやたら「批判」を尊重してきました。「批判至上主義」といってもいい。小学5、6年担任の女の先生がもろにそういう先生で、作文の授業で「『素直』はダメ!」と言われてそれまでの自分の中の価値観がひっくりかえり、チックになって、当時のあだ名が「そろばん」でした。それを正常にしてくれたのが、私にとっては大学で出会ったメルロー・ポンティでした。飯山女史が評価する刈谷氏は昭和30年生まれ、戦後教育を引きずったままなのかもしれません。

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