SSブログ

mespesadoさん講義(25)「義務教育」と「勝手探求」 [mespesado理論]

《「教える」んじゃなくて自ら「探求」するから「勝手探求」とでもいうべき別ルートを「義務教育」とは別口で作るとよい。》!! 大賛成です。

新コロナが招いた今の事態、これまであたりまえと思ってやってきたことを全部ご破算にして、「ほんとうに大切なことは何か」をゼロから考え直してみる絶好のチャンスと思えて、ゾクゾクしています。そのプロセスを経ることで、日本全国の風景が明日から変わる。/その制限が解かれた時、日本は一皮むけて変わる。》堺のおっさん)となるのです。

mespesadoさんの目は「教育」に向けられます。今の教育が何のために存在するのか》。その答えが「義務教育」とは別口の「勝手探求」です。

大学時代の自分をふりかえって思うのは、「大学紛争」のおかげで今につながる勉強ができた、ということです。哲学科の倫理学専攻に在籍していましたが、卒論を書き上げるのに一切指導を受けることはありませんでした。自分の関心の赴くままに書いたので、今読み返しても新鮮に読めます。(「メルロー・ボンティ哲学における他者の問題」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2006-03-21)それが「学問」レベルでどうだこうだは、知ったこっちゃあなかったのです。自分の抱える問題の切実さだけで書き上げたのでした。「戦中派」としての意地を通して2年余計に在籍しましたが、その2年間のおかげで「大学に行ってよかった」と自信をもっていえます。それは、自分で「勝手」なことをやらせてもらったからです。「自分が興味を持ったことを好き勝手にやらせる」のが、その能力を開花させるのに一番大切》。その通りと思います。ここでmesさんのいう「その能力」とは「学問センス」のことです。学問のセンスって、 意外にも、「分野横断的」な気がする》というmesさんに、亀さんがそういう人物として、空海、南方熊楠、井筒俊彦を挙げています(429)。私は若松英輔さんを思い浮かべていたところでした。

私なりの「教育論」です。→ 「われなし能う、ゆえにわれあり」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2016-01-07

*   *   *   *   *

423:mespesado :2020/03/01 (Sun) 09:32:09
>>421
 動画を見ましたし、それについているコメントも読みました。確かに安倍総理の今回の一連の行動を、遅いとかいって批判する人はパヨクっぽい人が圧倒的に多いですが、それを差し引いても、誰が悪いとか言うことを置いといても、「もっと早く対応できていれば」と思った人は多いのではないでしょうか。で、安倍総理に対する評価云々は置いといて、そもそも論から考えてみることにしました。
 今回のコロナウイルス対応のような予期せぬ非常事態が起きたときはもちろんのこと、財政赤字とか消費税のような非常時ではないが国家規模で重大な影響を与える問題について、ももちろん総理自身がその問題について専門知識があればいいのですが、どんな問題が生じるかなんて事前に全部わかるわけでないし、仮にすべて予知出来たとしたって、その全分野に対して詳しい見識を持っていることなんて不可能なんですから、結局は専門家の意見を聞くことにせざるを得ない。
 で、ここが肝なのですが、専門家の意見を聞くと言うけれど、一口に専門家といってもいろんな考え方の専門家がいる。そんな中からどの人の意見を採用するのか、そもそも人選をどうするのか?という大きな問題がある。いろいろな意見の専門家を極力大勢集めればよいかというと、それがベストだ、とはとても言えない。なぜなら専門家にはそれなりの自信とプライドがあり、自分の意見を撤回するなんてことは専門家にはまず期待できず、意見の幅が広くなるよう人数を増やせば増やすほど、意見の集約なんて不可能になるからです。
 で、会社の経営者で、よく「反対意見が強い策を選ぶ」なんて言う人がよく話題になるけれど、これを字義通りに真似ても絶対うまく行かない。なぜなら、こういう言い方をして実行しているという経営者というのは、反対意見が多い「から」それを選んでいるのではなく、まず自分自身の見識があり、その見識に対する絶大な根拠に裏打ちされた自信があるから、反対意見が多く「ても」実行した、というのが本当の所であろうからです。
 で、じゃあ根拠に裏打ちされた絶大な自信があれば、それが「正解」なのか、というと、これもそんなことは言い切れない。なぜなら、専門家というのは、皆その分野において「根拠に裏打ちされた絶大な自信」を持ってるハズなのに、専門家同士で見解が大いに分かれているのが何よりの証拠です。
 じゃあ、どうすればいいのよ、というなら、これはもう、その分野に対する「真のセンス」があるかどうかだ、としか言いようがない。こんなことを言うと、一つの分野について専門的知識があることすら大変なのに、あらゆる分野について専門知識を持つなど到底不可能なのに、それに加えてそのあらゆる分野で真のセンスさえ持っていることが求められるなんて、不可能の2乗3乗で、絶対に絶対に不可能なように思われるかもしれません。でも実は、これは私の感覚でしかないのだが、学問のセンスって、意外にも、「分野横断的」な気がするんですよね。そう言うと、ある分野の専門家が他の分野に口出しをして恥をかくなんてことがしばしばあるじゃないか、という声が聞こえてくるけれども、そういう場合を個別によく観察すると、そういう人は、実はその専門分野のドンみたいな人で、要するに権威はあるが、実は自分の専門分野についても決してセンスがいいわけではない、という人であることが多いと思うのです。
 要するに何が言いたいかというと、一国の総理になる立場の人というのは、自身がこの「全専門分野に対してセンスがある人」であるか、まあ、総理という立場だと「実行力がある」ということが何よりも求められるので、天に二物を与えられた人はそうそうはいないでしょうから、総理自身は実行力がある人で、かわりに「全専門分野に対してセンスがある人」を常に傍らに侍らせて重用し、何か重大な問題に対する決断を迫られたとき、その人のセンスにより大枠を決め、詳細については「その人のセンス」で同じく真のセンスを持つ専門家を選び、その人の意見を訊いて詳細を決めていく。そして一応日本は民主国家だから、形だけでも当該専門分野のあらゆる意見の人を早急に一堂に集めて「意思決定の儀式」を行う。これなら迅速かつ適切な対応ができると思うのですね。
 今回のようなことが起きるたびに、やれどういった政府機構にしたらよいか、ということが必ず話題になると思いますが、大切なのは、政府の機構をどうするか、ということももちろん大切ですが、一番大切なのは、「分野横断的にセンスがある人」(←こういう人は必ずいるということは、私自身の経験と勘から間違いないと思う!)をどう探し出して、どう積極的に活用するか、それがすべてだと思うのです。

424:mespesado :2020/03/01 (Sun) 12:27:51
>>423
 で、今回の小中学校の臨時休校の話ですけど、色々反対意見はあれど、最後は「総理の責任で」断行しました。ですが、これ、もしも今より早期に決断しようとして、例えば1月下旬にこのような「お触れ」を出そうとしていたら、果たしてうまくいったでしょうか?
 今回の現実の場合、休校にするのは3月という一カ月だけです。この期間は、確かに年度末の各種イベントもある重要な時期ではあるけれど、中学高校などでは期末(学年末)試験も終わり、試験休みの時期だったりするのであんまり被害が無い時期でもある。ところがこれが、年度末まで2カ月も残す1月末に「2月以降は休み」などという決断が断行できただろうか?
 これはなかなか難しいのではないかと思います。
 でも、「何」が原因でそれが「難しい」のかをよくよく考えると、今の教育が何のために存在するのか、という話に行き着きます。
 明治維新で「富国強兵」と「義務教育」が我が国に導入されたのは、世界が帝国主義の真っただ中で、いつ欧米列強に日本が侵略されるか、まさに食うか食われるかという世界的闘争の中に放り出された日本がとにかく国力をにわか仕込みでもかまわないから増強しようとして国民の教育水準を高める必要性があったからです。つまり、義務教育は「国家存続のため」に必要だったのです。
 ところが今はどうでしょう?日本は平和ボケして、国力増強を国が音頭を取ると言っただけでアレルギーが噴き出すし、そもそも国民の方が、教育を我が子のキャリアアップで「いいところに就職する」ために教育を受けさせようとしているのが実態です。つまり「学歴競争」の道具にされてしまっている。
 ですが、真の「学力」って何でしょう?もちろん漢字が読めたり簡単な四則演算ができたりといった基礎学力は万民必須でしょう。でもそれはもう誰もが当たり前にできていますよね。今更義務教育でこの基礎学力をどうのなんてほとんど問題になることもない。
 問題は高等教育の方です。これが受験競争という、個人のキャリア競争という椅子取りゲームのダシにされてしまっている。
 ここで、>>423 で提起した「学問のセンス」の話に繋がるんです。
 学問って、もちろん、予備知識や暗記力や計算能力や根気のような「基礎学力」が高いことはもちろん大事ですが、それだけだと「凡庸な」秀才、というだけのこと。個人のキャリアとしてはそれで十分かもしれないが、前の書き込みで書いたような「学問のセンス」を持つことは、これとはどうも違う能力のような気がします。これは「自分が興味を持ったことを好き勝手にやらせる」のが、その能力を開花させるのに一番大切で、これは日本人が大好きな「妬み嫉妬」が多い環境の中ではうまくいかない。だから、画一的で「義務」的な今の「義務教育」ではない「勝手教育」というか、いや「教育」ですらないな、「教える」んじゃなくて自ら「探求」するから「勝手探求」とでもいうべき別ルートを「義務教育」とは別口で作るとよい。
 こうして人材の開発を進めることによって、「学問センス」がある人を増やすことができるのではないか。
 そして、もう一つ大切なのは、学問センスのある人を増やすのは良いが、それを例えば政府が重用するとして、どこからそういうセンスのある人を見つけてきたらよいか?
 そのために学校の推薦もあるかもしれないが、ここは今がネット時代であることを利用して、そういう「候補者」な人は、ネット上でジャンジャン自分の考えなリアイデアなりをどんどん発信してもらう。そしてそういう人の考えに対するネットでの「評判」というのが次第に定まってくる。そして、そういう「公開された情報」から、眼力を持つ人たちが見極めをして人材を拾い上げる…。
 こんな方式が考えられるような気がします。
 以上、今日における「教育」の「国家的観点」からの必要性を改めて考え直してみたんですが、中国でAI授業が始まる云々といった「表面的」な技術進歩に思いを馳せるのも大事ですが、それより「今日における教育の意義とは何ぞや」という、もっと根源の話を考えると、今でも明治維新のときに必要に駆られて制度化した「義務教育」は、同じような趣旨で確かに必要で、しかも現代における必要性と明治における必要性のどこが違うのかも明確であり、「温故知新」でありながら、単なる「懐古主義」ではない、今の教育のありようというものが見えてくると思うのです。

426:mespesado :2020/03/01 (Sun) 13:17:29
>>423 について若干の補足です。

> そして一応日本は民主国家だから、形だけでも当該専門分野のあらゆる
> 意見の人を早急に一堂に集めて「意思決定の儀式」を行う。

 ↑こんな風に書いたので、形式主義ここに極まれり、みたいな印象ですが、実はそうでもない。本当にこれが「形骸化」してしまうと、そこに招集される専門家の中には「どうせ総理と側近で話はついてるんだろ。オレタチは単に儀式に呼ばれただけじゃね」と言って拗ねるかもしれないので、これがいくら「形式だけ」であっても、決して「形骸化」させてはいけないんです。というのは、いくら適性があるということで「総理の側近」に抜擢された人と、その人が選んだ「特定の」専門家の意見で結論が決められようとしていても、神ならぬ人間のやることに絶対は無いわけで、もしかしたら考え方に漏れがあるかもしれない。そこで、召集された専門家たちには、そういった「漏れ」が無いかをきちんと精査して、もし異論があるなら、この「形式的な場」でしっかり「指摘」する。それが正鵠を射たものであれば、いくら結論が決まっていたとしても、ちゃんとその意見を反映させて修正するくらいのことはしなければならない。しかし、逆に異論を唱える側は「どうせ出来レースでしょ」などと拗ねるんじゃなくて、自分の気付きが重大な指摘であるという自信があるなら、誠心誠意、相手に伝わるように説明する。そしてそういう異論を受ける側である総理と側近の側も、少々の異論に対しては直ちに反論できるくらいの用意はしっかりして会議に臨む。そういった「真剣勝負」の場でなければならない、とは思います。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学校

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。